春の香り

チタン

第1話

--あの夏、僕は彼女を失った。

僕が思い出すのはいつも春の記憶。

沈丁花の花。

春の香り、君の笑顔、僕は微笑み返す。

「来年も見に来よう」と君と約束をしたあの春。



  ♢♢



「あら、今日もお見舞いですか?」


彼女が僕に問いかける。


「ええ、今日もその帰りです」


僕は愛想笑いを浮かべて、嘘をつく。


「早くよくなるといいですね。彼女さん」


「はい……」


 彼女は僕が彼女の恋人だということを知らない。

いや、忘れてしまっている。


 去年の夏、彼女は交通事故に遭った。

幸い命は助かったが、彼女は大きなケガを負い、さらには頭を強く打った衝撃で記憶を失った。


 報せを聞き、病院に駆けつけた。

目を覚ました彼女に僕は呼びかけた。

そんな僕に彼女は尋ねた。


「どなたですか?」


 僕は彼女が記憶を失くした事実に耐えられなかった。そして咄嗟に、


「……あなたの、知り合いです。今日は……入院した彼女のお見舞いに来て、偶然」


と、嘘をついて恋人であることを隠した。


以来、彼女は僕が恋人のお見舞いついでに彼女に会いに来ているのだと信じている。


「あんまり私のところにまで来てると、彼女さんがヤキモチ焼きませんか?」


 彼女はそう言って僕に笑いかけた。


「大丈夫ですよ。彼女もあなたのことをよく知ってるから」


「へー、じゃあ私も彼女さんの友達なんですね」


「ええ」


 僕はまた嘘をつく。

そして言葉を続ける。


「あの、次の週末、また来ますから、そのとき外へ出られませんか?」


「え、どうでしょう? 聞いてみたら大丈夫かな。どうしてですか?」


「去年、あなたと約束したんです。一緒にまた、花を見に行くって……」


 これは嘘じゃない。彼女とした最後の約束。


「……ええ、わかりました。じゃあ一度、頼んでみますね」


「はい……! ありがとう。それじゃ、また」



  ♢♢



--去年の春、彼女と僕は二人で歩き慣れた道を歩いていた。公園に通りがかると、彼女は足を止めて僕に言った。


「ね、あそこ、綺麗な花!」


 彼女の指差す方を見てみると、その公園には綺麗な沈丁花が咲いていた。


「本当だ、綺麗だね」


 彼女は僕の手を引いて、花に歩み寄った。


「すごく良い香り……。私、この花、好きなの」


「そうなんだ。じゃあ、これからも一緒に見に来ようよ」


「うん、時々来ましょう。……けど、もう時期的に見られなくなっちゃうわね」


 彼女は残念そうに言った。確かにその頃にはもう、夏の気配が近づいていた。


「それなら、来年も再来年も見に来ようよ。ずっと、一緒にさ」


 僕がそう言うと彼女はパッと明るく笑った。


「ええ、約束よ!」


 彼女は僕の手を取って、僕らは指切りをした。


 彼女が事故に遭う数週間前のことだった。


--


 そして、約束を果たすために僕は彼女をその公園に連れてきた。


 今年もそこには沈丁花が咲いていた。


「ね、あそこ、見てください。綺麗な花」


 彼女はいつかみたいに花を指差した。


 春の風が吹いていって、沈丁花の匂いが漂った。


「なんだか、なつかしい香り……」


 そう言って微笑んだ彼女に、僕は去年の姿を重ねた。けれど、彼女の眼に映る僕は、彼女の記憶にはいない。


「そんな顔して、どうしたんですか……?」


 僕は自分の頬に一筋の涙が伝っているのに気付いた。


「や、ごめん。なんでもないんだ、なんでも」


「……大丈夫ですよ。彼女さん、すぐ治りますよ」


 そう言って彼女は僕の涙を指でそっと拭った。


「ああ……、そうだね」


 僕は愛想笑いを浮かべて、優しい彼女のその手を握った。


 けど、記憶のない彼女にずっと愛想笑いばかり浮かべて、そんな自分に嫌気がさして、僕は……。


「違うんだ、ごめん。嘘をついたんだ。君は僕の……」


 春の風が吹いた。

ずっと言えなかった言葉。君は驚いた顔をした。

けど、僕らはここからやり直すんだ。


 だからこれで良い、僕はそう思った。

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春の香り チタン @buntaito

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