ひなげし

宮永文目

ひなげし(1)

 笑みながら欺くやうにくづれ行く

      女の花の夏のひなげし───与謝野晶子


 ※


 早朝、重い身体を無理矢理起こして、一階のリビングに向かった。体調が優れず、朝食は食べる気になれなかったけれど、なんとなく、いつもの通りに同じ時間、同じ場所にいなければ不安だったのだ。

 お母さまには、最近よく「顔色が悪いわよ」と言われる。よくもまあ、自分の方が今にも死にそうな末期の病人のような顔をしているくせに、どうぞそのままお達者で。なんて言い返そうとして、少しおかしくなってやめた。

 しかし、そう言われるのも尤もだ。自分でも鏡を見るたびに、寝不足のような不健康な顔であると思う。五年は老けた顔だ。美しくない、白痴の相。

 その理由は分かっている。毎晩毎夜、あの愛おしい人からの手紙を、繰り返し飽きることなく読み直しているからだ。もらった手紙は、大切に重箱へ保管してある。それを真夜中、頼りない灯りの下で、一枚眺めて、そうしてまた一枚──ゆっくりと指で捲っていくと、眠るのも忘れて、甘く美しい文字の海に浸ってしまう。


 女は恋をすると若々しくなるというけれども、あれは嘘ではないかしら。だってこんなにも肌は荒れるし、視力も弱る。そんなくたびれた姿も捨てたものではない、なんて言うのはきっと蓼食う虫というやつに違いない。まあ、どうこう言っても、どうせ私も蓼を食むような空想をしている。いつも酩酊の中に生きる夢追い人を演じてみせて、日取りの毎日をようよう生きている現実。病をもって、人はますます美しくなるとうそぶいてみましょう。失明してしまえば現実を直視しなくて済むし、そうしなければ現実に失命させられる。

 精一杯の恋をして、愛をして。まどろみのうちに春は来ぬ、けれど私は正体をなくす。


 最近は、現実と空想が表裏一体である気がしてきた。私は随分不幸な境遇に生まれたと思う。弟もそうだ。私たちは一生満足することができず、この残酷な家庭に囚われ続ける。けれど、そんな現実も空想だったのかもしれない。私たちは現実を咀嚼しながら、自らの空想でそれを再構成する。全ては当人の気の持ちよう次第、とは言わないけれど、そこにどんな価値をつけるのかは自分次第だ。

 だとすればどちらが表で、裏はあれそれ、不毛な結論を導かなくてもいいじゃない。本当に問いかけたいのは、このむごい日々についてのこと。汚穢おわいに満ちた暗晦の日々をどうすれば良いのかについて。苦しみの末に成り立っているこの世界では、誰かの吐瀉物が積り積もって、私たちの足元を支えているというのに、誰もが見て見ぬ振りをしている現実。このまま艱難かんなん辛苦しんくが続くようでは、嘔吐物が天まで届くか、青息吐息がそこら中に満ちて地上が空色になるのが先か。そんな空想もいつかは現実になるのかしら。

 願わくは満足な豚となって、苦悩など全て捨てて、心の底からにこにことして死んでゆきたい。それこそが幸せのような気がした。悲喜交々の表裏をして、安心を残すものこそが恋。恋をしてさえいれば、いつ、どこで死んでしまおうとも構わないのに。

 どうも頭が回らない。聞きかじっただけの妙な知識が、頭の中で生まれては消えの明滅を繰り返し──。そんな代物に、心の内で虚しく反論などをしては、どうしようもない脱力感に見舞われる。

 人並みの幸せが欲しかった。けれどもそれは叶わないらしい。今夜、ついに恋文の蓄えは尽きて、もう二度とあの人から手紙は来ない。恋はない、愛もない。全て空想なのだから、仕方がない。


 机の上に頬杖をつく。寄りかかる相手は自分の手しかない。こんなに遣り切れないのは誰のせい? じんわりと腕が痛くなって、おまけにほっぺたが視界を塞いでしまおうとするのが煩わしい。こういうポーズは怠惰な人のするものだ。怠惰は特に人に迷惑を掛けないけれど、その姿は見た人を不愉快な気持ちにさせるから嫌い。

 私は普段から勤勉だから、本当は慣れない姿勢なんて取りたくないのだけれど、偽悪をしなければ世間は私を馬鹿にするから、仕方なくするのだ。純粋なまま、極めて美徳な人を、世間は許してくれない。そんな斜に構えた、せせこましい態度こそ馬鹿らしいと思う。

 お母さまはまだ起きてこない。弟もいない。静寂に満たされた朝の食卓に、私の思考は沈んでいくのだ。

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