第2話

 


 必死で逃げ帰った。恐ろしくて死に顔は見てないが、確かに朋江は動かなかった。必ず死んでいるはずだ。小心者の傑は、そう自分に言い聞かせた。


 だが、翌朝のニュースで傑は愕然がくぜんとした。


「――△病院で死亡していた女性は、山野忠子さん――」


 えっ! 山野? 傑は咄嗟とっさにテレビの画面に目を遣ると、女の顔写真を食い入るように視た。


 ち、違う! 朋江じゃない。傑は狼狽うろたえた。


「――山野さんの死因は窒息死と見られ、病院の関係者から事情を聴くとともに、事件と事故の両面から捜査が行われています――」


 ……別人を殺してしまった。傑は、血の気が引くのを感じていた。


「……あなた?」


 箸を持ったままで呆然としている傑に、成美が眉をひそめた。


「……え?」


「どうしたの? 最近、なんか変よ」


「なんでもない。今日も麻雀で遅くなるから」


 傑は茶漬けを流し込むと、慌ただしく腰を上げた。


 違う女を殺してしまった。……どうする。早くしないと、朋江の親類や知り合いが先に漕ぎ着けるかもしれない。……どうすればいいんだ。傑は焦燥感に駈られ、手っ取り早い手段に走った。――



「もしもし、お電話代わりました」


 間違いなく朋江の声だ。


「……あなたを知ってるという人から言伝ことづてを頼まれました」


 公衆電話の受話器にハンカチを当てると、傑は声色こわいろを使った。


「えっ! ほんとですか?」


 俺だとは気付いていない。傑はしめたと思った。


「今夜の八時に、病院にある広場のベンチに来てほしいとのことです」


「はい、分かりました。そのかたのお名前は」


「……鈴木ひろし」


 あらかじめ考えておいた名前を言った。


「鈴木さんですね? はい、分かりました。八時に行きます」


「それと、……彼は僕の友人なんですが、妻子があるんですよ。あなたと付き合っていたことは内緒にしたいわけです。だからあなたも、彼と会うことは誰にも言わないで来てください。そうしないと、万が一にもマスコミに名前がバレたら彼の家庭が崩壊しますので。勿論、あなたが会いたくなければ、そう伝えますが――」


「いいえ、行きます」


 記憶にない男に会う恐怖感より、自分の正体を知りたいほうが先決なのか、朋江に躊躇ためらいはなかった。



 早めにそこに行くと、木陰に隠れて朋江が来るのを待った。――間もなく、白っぽいワンピースの朋江が現れた。後方をうかがったが、人の気配は無かった。


 海が見たいのか、断崖の尖端に立った朋江は長い髪を潮風になびかせながら、月明かりに照らされた海面に顔を向けていた。チャンスだと傑は思った。


 足音を波の音に打ち消させながら、傑の両手は、朋江の背中を目掛けていた。ゆっくりと手を伸ばした瞬間、


「また、殺す気?」


 突然、朋江が声を発した。


「ヒッ」


 ギクッとして、傑は足を止めた。


「ツチダスグルさん」


 そう言って、振り向いた朋江の眼球が月明かりに光った。


「お久しぶりね」


 朋江は含み笑いを浮かべた。傑はゆっくりと後退りしていた。


「どうしたの? そんなびっくりした顔して」


 朋江は徐々に近づいてきた。


「き、記憶喪失じゃなかったのか?」


「あ、ええ。だったわ。でも、治ったのよ。あなたが私と間違えて人を殺すのを見て」


「み、見ただと?」


「えー。あなたが殺したのは、私の病室の隣の山野さん。トイレから戻ったら、ドアが少し開いてたから変だと思って覗いたら、山野さんに覆い被さるあなたの背中が見えた。びっくりしたわ。あなたのその後ろ姿で記憶が戻ったの」


「後ろ姿だと?」


「そう。デートの時、あなたは手も繋いでくれなくなった。私は二、三歩後ろを歩き、あなたの背中ばかり見ていた。だから、あなたの後ろ姿を見て、記憶が甦ったのよ」


「ッ……」


「ふふふ。残念ね。あ、それから、そろそろ警察が来るわ」


「なんだと!」


「どうする? また、私を突き落とす? それとも手錠にする?」


 傑は焦った。朋江の言うことは本当なのか? 警察が本当にやって来るのか? ……傑が選択したのは、――


「キャーッ!」


 だが、悲鳴を上げた朋江が身を翻した拍子に、朋江の長い髪が傑の首に巻き付いた。


「グエッ」


 朋江の髪に巻き付かれた傑の体は、断崖から落下する朋江の重みに引っ張られ、海に落ちた。


 二人は海面に浮かび上がると、月明かりに照らされた。


「今度はあなたが死ぬ番よ、スグルさん」


 朋江は不気味な笑みを浮かべると、海面から顔を消した。


「た、助けてくれーっ!」


傑はもがきながら、首に巻き付いた朋江の髪に引っ張られて、海底へと沈んでいった。




 翌朝、波打ち際に男の水死体が打ち上げられた。男の首には、まるで髪の毛が巻き付いているかのように大量の海藻が絡みついていた。




 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二度殺された女 紫 李鳥 @shiritori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ