承 そんな世界は意味がない
先ほどまで彼女が演奏するために座っていた幅広の椅子に腰掛け、街を見下ろしながら二人で話す。
眼下には真っ白な街並みが塩の大地のように広がり、真っ青な空とのコントラストが良く映えた。
彼女が肩を寄せながら、僕に言う。
「来て良かったの? 今日が最後なのでしょう?」
「君が来て欲しいって言ったんじゃないか」
「確かにあなたにお願いしたわ。でも、私がいなかったらどうするつもりだったの」
「大人しくあきらめてこの街を離れるつもりだったよ。君がいないのに死ぬのはごめんだ」
僕が素直な気持ちを述べると、彼女が小さくため息をつくのがわかった。
「つくづく思うけど、あなたは変わってるわ」
「そうかな。君も負けず劣らずだと思うけど」
「私はいいのよ。変わってることを自覚してるから」
「なんだそりゃ」
彼女は不思議な人だった。
作り物と見紛うほど整った容姿と綺麗な声音。
唄うようにしゃべり、言動は自信に満ちてはっきりとしている。
いつ来ても彼女はここにいて、僕らの背後にある黒い筐体の鍵盤を叩き、何がしかを演奏していた。
言うことも僕には理解できないような謎を含んでいることがあって、今のように振り回されることもしばしばだ。
けれど僕は彼女が好きで、好きだから今日もこうして会いに来た。
「僕だって少なからず自覚しているよ。君に言われているからね」
「私に言われているから、でしょう? 私は生まれた瞬間から自覚していたわ」
「そいつはすごい」
これは敵わないと即座に諦め、話を変えるべく僕は周囲に目を向けた。
具体的にはこの広場自体に。
「いつ来ても思うけど、ここは不思議な場所だね」
「不思議だから落ち着かないって?」
「いや落ち着くのが不思議なんだよ。落ち着くし、何より音を聞けるのが不思議でならない」
「ふふ、そうね」
「君にいたってはプロテクターをつけているところを見たことがないし」
「だって必要ないもの」
そう言って、彼女はさらさらとした髪をかきあげる。
普通ならプロテクターに覆われているはずの、白くて形の良い耳が露わになっていた。
「いつでも音が聞こえるっていうのはうらやましいな」
彼女の横顔を見ながら感想を述べると、彼女は笑みを潜めて僕を見つめた。
「本当にそうかしらね」
「本当にって、どういうこと?」
「たとえば、あなたの家の近くで大きな音が鳴り続けていればあなたの心は休まらないし、学校では聞きたくもない誰かの悪口を聞いてしまうかもしれない」
「なるほど。四六時中音が聞こえていても良いことばかりじゃないってことか」
「もちろん良いこともたくさんある。だからどちらの方が良い悪いっていう話じゃないわ」
見た目的には僕とそう変わらない年齢のはずなのに、彼女は大人びたことを言う。
「やっぱり、君は変わってるよ」
「当たり前でしょう、私だもの」
「名前はいまだに教えてくれないし」
「教えられないのよ」
そう言って、彼女は困ったように笑う。
「僕の名前は知っていたのに」
「あなただけじゃなくて、あなたの家族の名前も知っているわ」
「その理由は、」
「あなたが私を好きだから」
「……やっぱり変わってるよ」
「ふふ、もちろん理由は別にあるけれど、好かれていること自体は好ましく思っているわ。どちらも応えてあげることはできないのだけどね」
「名前を知られている理由も、はぐらかされ続ける理由もわからないけど、ありがとう」
「どういたしまして。でも――だからこそ不思議に思うの」
耳元で声がしたと思ったら、彼女の顔がすぐ真横まで迫っていた。
思わず上体を仰け反らせて体勢を崩しそうになり、彼女に腕を掴まれて事なきを得る。
「ごめん……と、ありがとう」
「ふふ、二度目のどういたしましてね」
彼女は鈴を転がすような声音で笑い、「さっきの続きだけど」と話を戻す。
「本当にいいの?」
「さっきも言ったろ」
僕は崩した姿勢と服を正しながら言う。
「君がいるからこそいいんだ。それに君こそいいの?」
「なにが?」
「僕なんかでいいのかって話」
「あなただからこそよ」
「そっか。じゃあ始めよう」
「終わらせるのよ」
「はは、そうかもしれないな」
そうして僕らは反対側に、白と黒の鍵盤の方へと向き直った。
これから始まるのはきっと、世界一美しい自殺だ。
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