1996年~あの頃の二人

澤田慎梧

1996年~あの頃の二人

『私の育て方がいけなかったのかしら』


 そんな母親の言葉と泣き顔から逃げるようにして、浅川小太郎あさかわ こたろうは故郷を離れ、神奈川県内の大学へと進学した。

 時に一九九六年。実に様々な出来事があった年だったが、前年の阪神大震災の記憶がまだ生々しく、「どんな年だったか?」と問われても多くの人が首をひねる、そんな年だ。


 ――けれども、小太郎にとってその年は、まさに運命の分岐点とも呼べるものだった。


『カンパーイ!!』


 四月。小太郎は入会したテニスサークルの新歓コンパに参加していた。

 ――テニスサークルと言っても、殆どテニスはやらない。年がら年中、何かと理由をつけては飲み会を開く、いわゆる「飲みサークル」だ。

 知らずに入会してしまったものの、今更辞めるというのも不義理に感じ、小太郎はこんなところまでホイホイと付いてきてしまっていた。


 とはいえ、小太郎は下戸であるしそもそも未成年だ。酒を飲むわけにはいかない。

 なのでわざわざ、父親から餞別せんべつとして貰ったオンボロ軽自動車に乗って、コンパ会場までやってきていた。「車を置いて帰る訳にはいかないので」と言えば、流石の先輩たちも無理強いはしてこなかったのだ。


 けれども、その引き換えに「しけた奴」というイメージを持たれてしまったのか、始まったばかりの飲み会で、小太郎は早くも孤立していた。両隣の席には誰も座らず、ただ周囲のどんちゃん騒ぎを眺めるだけの置物となるのに時間はかからなかった。

 ところが――。


「ねぇ、君。ここ、座ってもいいかい?」


 不意にかけられたそんな言葉に顔を上げた時、小太郎の世界に花が咲いた。

 そこにいたのは、掛け値なしの美男子ハンサムだった。


 背はスラっと高く、骨格レベルで細い体。短く清潔に揃えられた髪は、夜空よりもなお黒く艶やかそのもの。

 アイドルタレントのように甘い風貌マスクに優雅な微笑みをたたえ、黒いジャケットを中心に決めたファッションは、ともすればホスト崩れのようになりそうなものを、ギリギリのバランスを保って「イケてる」感じに仕上がっている。


「ど、どうぞ……」


 胸の高鳴りを抑えながら、小太郎はなんとかそれだけを答えた。


「どうも。……千川祐希せんかわ ゆうきだ。君は?」

「あ……浅川小太郎、です」


 一人称が「俺」でも「僕」でもなく「私」というところに、小太郎はまたシビれた。

 男らしくない一人称だったが、それが不思議と彼の雰囲気と中性的な声色に合っていて、しっくり来たのだ。


(あ、これはまずいな……)


 差し出された千川祐希の手を握り返しながら、小太郎は内心で焦りを感じていた。

 ――止めようのない感情が、小太郎の中に溢れつつあった。これは……これはだ。


   ***


 浅川小太郎は、幼い頃から「自分は他人と違う」という感覚を抱いていた。

 それは近年で言う中二病のような勘違いなどではなく……彼の性的指向セクシュアリティについてだ。

 小太郎は、年頃の男子が当たり前のように異性の体に興味を持つように――同性の体も気になってしょうがなかったのだ。


 初めて好きになったのは、活発な女の子だった。

 二番目に好きになったのは、読書好きの男の子だった。

 サマーキャンプで当時気になっていた男の子と一緒に風呂に入った時は、興奮を鎮めるのに必死だった。

 中学で初めて女の子に告白され付き合い始めた時は、素直にドキドキした。


 既に「同性愛」という言葉も知っていたけれども、それとは明らかに違う。

 「両性愛者バイセクシャル」とやらが一番近いようだが、それも何だかしっくりこない。

 小太郎は、自分自身という存在に答えを見いだせないまま高校生になり……そこで初めての過ちを犯した。

 性行為の現場を、他人に見られてしまったのだ。相手は同じ高校の先輩――男子だった。


『私の育て方がいけなかったのかしら』


 その事実は学校や親にも知られることとなり……母親は、そんな言葉を漏らしながら泣いた。

 優しかった祖父母も、自分を煙たがるようになった。唯一味方となってくれた父親の勧めで、県外の大学へと進学することになったのは、悲しいまでに当たり前の事だったのかもしれない。


 ――その小太郎が、よりにもよってまた同性に恋をしてしまった。

 押さえきれない劣情が早くも身を焦がし始めている。大学の四年間、何事もなく平穏に過ごそうと思っていた矢先なのに。

 故郷で自分や先輩に向けられた、心ない言葉や嫌がらせの数々を思い出し、小太郎は身震いした。

 だが、小太郎を無意識に篭絡した当の千川はと言えば、小太郎への興味は皆無なのか、早くも反対隣の女子との会話に夢中になっていた。


(まあ、それはそうだろうなぁ……)


 寂寥感せきりょうかんとも嫉妬ともつかぬ感情に苛まれながら、小太郎はその光景をぼんやりと眺めていた。

 相手の女子は、確か自分達と同じ新入生だ。「女子大生」というよりは「女子中学生」でも通りそうな幼い容姿だったが、まずまずの美少女だ。小太郎の目から見ても、十分に魅力がある。

 けれども……千川の前では、その魅力も色褪せて見えた。


「へぇ、一人暮らしなんだ。色々物騒だから、私がボディガードになろうか?」

「やだぁ、千川君ったら!」


 普通の男が言えばセクハラか気障なだけの不愉快なセリフになりそうな言葉も、千川の口から出れば一流オーケストラの奏でる調べのようだ。

 相手の女の子は、完璧に千川に見惚れている。女の目をしている。「きっと自分も似たような目をしているだろう」と、小太郎は思わず自己嫌悪した。


 その感情から逃れるように、千川達から視線を外した、その時。先輩たちがニヤニヤしながら、グラスの中身と中身を混ぜている姿が目に入った。

 どうやら、ソフトドリンクに強い酒を混ぜているようだ。

 そして――。


「おっ、グラス空いてるじゃ~ん! これ、余ったオレンジジュースだけど良かったら飲んでね?」

「あ、ありがとうございます~」


 先輩の一人が、酒の混ざったドリンクを千川と喋っていた女の子に手渡した。

 ――小太郎の胸の内に、狂おしいほどの嫌悪感が湧く。先輩たちは明らかに、あの女の子を酔い潰そうとしている。

 その目的は、言わずもがなだろう。


(止めなきゃ!)


 瞬間、小太郎はグラスを女の子から奪うため立ち上がろうとした――が、それよりも早く動く者がいた。


「あ、ちょうど私も喉が渇いてたんだ。先に貰ってもいい?」


 千川が、女の子の返事も待たずに恭しくグラスを奪い取り、それを一気に飲み干してしまったのだ――。


   ***


「うえぇ……気持ち悪い……」

「大丈夫? じゃないか……。ほら、しっかり掴まって」


 ――飲み会後。小太郎は千川に肩を貸して、二人きりで街中を歩いていた。

 女の子を颯爽と救った千川だったが、彼も未成年で酒は飲み慣れてない。飲み会の間は踏ん張っていたが、解散になった途端、フラフラになってしまったのだ。

 隣に座っていた小太郎は、いち早く彼の異変に気付き、周囲に感づかれぬようサポートした、という寸法だ。「意気投合して肩を組んで一緒に帰る男子二人」を演じたつもりだったが、果たして周囲をうまく騙せたものか。


「千川君、家はどこだい? 俺、車だから送っていこうか?」

「あぁ……、家は……鎌倉……」

「鎌倉、か。行けない距離じゃないな」


 小太郎達の通う大学は横浜市内にある。鎌倉市ならば、お隣の市だった。

 やや距離はあるものの、既に深夜と言っていい時間だ。道も空いていることだろう。


「ほら、シートベルトちゃんと締めて。気持ち悪くなったら、このビニール使ってね?」

「う……ん。ありがとう


 何とか千川を助手席に乗り込ませ、吐いた時用の袋を手渡す。「いきなり名前呼びか」と苦笑いしながら、小太郎も運転席に乗り込む。

 残念ながら、父親から譲られた軽自動車は古すぎて、ナビの類は付いていない。小太郎は周辺地図を広げて道順をよくよく確認してから、静かに発進した。


「しかし、鎌倉住まいだなんて。千川君って結構いいところの子?」

「いや……ごくごく普通の中流家庭だよ? ……鎌倉には、確かにお金持ちも多いけど……殆どは、ウップ! 一般庶民だよ~」


 胸元を緩めながら答える千川の姿を盗み見しつつも、小太郎は「安全運転」と心の中でお題目のように唱えながら運転に集中した。

 泥酔状態でも色気があるのは反則だ。


「ご両親と暮らしてるの?」

「うん。ああ、でも今晩は二人ともいないはずだなぁ……。出張と旅行で……。――あれ? これってもしかして……私、送りオオカミされちゃう感じかな? ハハハッ!」

「……あはは、男同士でも送りオオカミって言うのかね?」


 千川にそんなつもりは毛頭なかっただろうが、小太郎はほのかに抱いていた欲望を指摘されたようで、思わず赤面していた。

 だからそれをごまかすように、努めて冗談めいた口調で返したのだが――。


「失敬な。こう見えても私は? ま、! ハハハッ!」

「……えっ?」

「んっ? ……あっ」


 そこでようやく、千川祐希は「しまった」というような表情を浮かべた――。


   ***


「ええと、つまり。千川君は――」

「祐希でいいよ、小太郎」

「えと……祐希は、男じゃなくて女で……それで、女の子が好き?」

「うん。もっと正確に言えば『女の子の方が』だね。男に恋愛感情を抱いたことなんて一度もないけど、まあ肉体的にはちょっと興味がある」

「そうなんだ。俺とはちょっと違うんだね……」


 二人は、途中で見かけたコンビニの駐車場へと車を停め、缶コーヒーを片手にお互いの身の上を話し始めていた。

 ついうっかりとは言え、祐希ははっきりと自分の特殊な性的指向をカミングアウトしてしまった。今更無かったことには出来ない。

 だから、小太郎も自分の特殊な性的指向を明かした。何となく、それが一番だと思ったのだ。


「小太郎は男も女もイケるんだっけ?」

「そう言われると節操がないみたいで嫌だけど……そうだね。同性の方が好きだけど、女の子を好きになったこともあるし、付き合ったこともあるよ」

「エッチは?」

「……ズケズケと聞くね、君は。うん、まあ……いいか。どっちともあるよ。甲乙つけがたい……かな」


 今では「思い出したくもない故郷での思い出」となってしまった、過去の恋人たちとの情事を思い出し、苦笑いする。

 最早それらは、小太郎を故郷から追いやった記憶でしかないのだ。


「俺が育ったのは、畑と田んぼばっかりの田舎町でね。同性愛に理解なんてなかったし、俺の場合男女両方とになったというのが知られちゃったから、もう町にはいられなくてさ。こっちに逃げて来たんだ」

「はー、そういうのはどこも一緒なんだねぇ。私の場合、両親も友達もこういう私を受けて入れてくれたけど、やっぱり色々言う奴は居てねぇ。ま、陰口叩くような連中は、みんなやっつけてやったけどさ!」


 そう言って、強気な顔で笑う祐希の姿は、やはり小太郎にとってとても魅力的に見えた――。


   ***


 当たり前の話だが、祐希が「女性」であることはすぐにサークルメンバーの知ることとなり、その反応は様々だった。

 あからさまな嫌悪感を示す者。興味本位で心ない質問を投げかける者。表向きは仲良くしつつも陰口を叩く者。むしろより祐希に興味を抱くようになった者。様々だ。


 小太郎はと言えば、あの夜以来すっかり祐希と意気投合し、二人でつるむようになっていた。

 学部が違うくせに二人で一緒に過ごすことが当たり前の日々が続き、その姿は「親友同士」にも「恋人同士」にも見えたという。


 その後、二人は紆余曲折ありながらも、お互いをパートナーと認め一生を共に過ごす決意をすることになる。

 そして、まだまだ「性的少数者」への偏見渦巻く世の中に、力を合わせて立ち向かっていくことになるのだが……それはまた、別のお話。



(了)

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