杉ちゃんとワルツ・カプリス
増田朋美
杉ちゃんとワルツ・カプリス
杉ちゃんとワルツ・カプリス
冬にしては暖かい、変な日だった。暖かくてよかったなとよろこぶものもいれば、こんな天気で世のなかおかしくなるのではないかと心配する者もいる。まあ、偉い人に言わせれば、何十年後に大きな災害がやって来る先駆けだというんだろうが、だいたいの人は、それまで気を付ける余裕なんかどこにもなく、みんな神頼みで日常生活を送っているのであった。
そんな中でも、ごみというものは、必ず出るものだ。どんなに気候がおかしくなろうが、災害が起ころうが、ごみというものは必ず出る。それを処理するためのごみ業者というものは、どんな日であっても、風の日も、雨の日も、必ずごみの処理というものをするのであった。
その、ごみ回収業者をしている、若い男、寺田義男は、今日も、ごみ収集車に同僚と一緒に乗って、それぞれの地区にある、ごみ置き場を回って、ごみを集めて回るのだった。
その日も、一番目のごみ置き場に行ったら、これだけで収集車がいっぱいになってしまいそうなくらい、ごみが積んである。彼は、臭いにおいがする生ごみの入った袋を、においなんか気にしないで、手早くごみ収集車の中に、積み上げていくのだった。
「お、ちょうど来たところだった。ちょっと、これも一緒に入れて行っておくれよ。」
不意に、そんな声がして、義男は前方を見た。車いすの男性が、膝の上にごみ袋を置いて、ごみを捨てにやってきたのだ。
「もう、収集時間ギリギリじゃなくてさあ、もっと早い時間に持ってきてくれないかなあ。」
と、同僚がそういっているが、義男には、何となく遅い時間に来た理由がわかるのであった。朝の、人がごみ捨て場に殺到する時間だと、車いすの人には、動きがとりにくくて、かえって捨てに来にくいのだと何となく、連想できた。
「まあ、収集時間を守らなかったのは、謝るよ。すまんすまん。でも、なるべく時間ギリギリでないと、
ここに来れないという事もあり、」
と、言う彼に、義男は、そういう事だなとはっきり感じ取った。
「わかりました。そこに置いておいてください。そうしたら、持っていきますから。」
義男は、そう言った。
「何を言っているんだよ、寺さん。ちゃんと収集時間は守ってもらわなきゃ。それは、しっかりしてもらわないと困るっていうほうが、いいんじゃないのかい?」
同僚は、そんな事を言っているが、義男はそんな気持ちは持たなかった。
「いやいや、中には、別の時間のほうがいいっていう人もいるさ。まあ、収集時間が終わってから置きに来るよりいいじゃないか。俺たちが集めている時間に持ってきてくれたんだから、それでいいってことにしようぜ。」
と、義男は、同僚ににこやかに笑ってそういうことを言って、
「じゃあ、そこに置いてください。」
と、彼に言った。
「おう、ありがとうな。置くよりも、お前さんに直接渡した方が、よりやりやすいんだけどさ。それではダメかな?」
と、言う彼。確かにそれもそうだなと義男は思って、彼から、ごみ袋を受け取った。
「それでは、有難う。ところで。」
と、彼は言う。おいおい寺さん、早く戻ろうやと同僚が言うが、義男はそういう気にはなれなかった。まだ、彼の話を聞いてみたい気がする。
「お前さんは、フォーレのワルツ・カプリスを口ずさみながら、ごみを集めていたな。」
と、彼が言った。なんて耳聡い障害者だろうと、同僚が気味悪がる。
「そうですが、なんでそれを知っているんですか?」
義男が聞くと、
「いやあ、ごみ集めの兄ちゃんが、フォーレのワルツ・カプリスを口ずさむなんて、なんというロマンチックなごみ収集業者だと思ってさ。」
と、彼はからからと笑った。義男は、そうですか、と照れ笑いを浮かべて、
「この職業に合わないですか?」
と、言うと、
「まあいいじゃないの。でも、フォーレの曲を知っているなんて、何とも面白いごみ収集業者だなあ。まあ確かに、ミスマッチだな、ははは。」
と、彼はからからと笑った。ちょうどその時、もう一人、車いすに乗った男性がやってきて、
「もう杉ちゃん、ごみ収集業者の人をそんなことして呼び止めちゃダメじゃないか。みんな忙しいんだから、迷惑はかけないでよ。」
と、彼に言った。
「ああ、ごめんね、蘭。こいつがな、フォーレのワルツ・カプリスを口ずさんでごみ集めてたから、思わずからかいたくなっちゃったの。」
杉ちゃんと呼ばれた男性は、そういった。
「ワルツ・カプリス?この人がそんなマニアックな曲を知っていたのか。」
蘭と呼ばれた男性は、ちょっと素っ頓狂に言った。
「おう、口ずさんでたよ。楽しいごみ収集業者だね。ちょっとミスマッチなところが、余計に面白いよ。」
と、にこやかに言う杉ちゃん。
「寺さん、そんな事でからかわれるとは、相当な音楽好きなんですねエ。」
同僚は、あきれた顔をして、寺田義男を見ている。
「しかし、フォーレのワルツ・カプリスを口ずさむとは、結構、ピアノを習って長いんじゃないですか?もしかしたら、子どものころからピアノを習っていたんですか?」
蘭は、思わず、寺田義男の顔を見た。
「ええ、まあ。ミーハーな母が、面白い趣味を持っていたらいいって言って、子どもの僕に習わせたんですよ。」
寺田義男は、そう白状する。
「それで、フォーレのワルツ・カプリスを習ったのですか?」
「ええ、あの、ノリのいい曲の雰囲気がどうも好きで、今でも時々自己流で弾いています。」
蘭がまた聞くと、寺田義男はそう言った。という事は、かなりの腕前だ。ワルツ・カプリスという曲は、かなり難しい曲の一つである。
「そうですか。誰かに師事したんですか?」
杉ちゃんではなく、蘭は、そのピアノを弾くごみ集め業者に、すっかり興味を持ってしまった。
「ええ、まあ、もう先生は、高齢でなくなってしまいましたけど、今でもピアノが好きで、仕事が終わった後、良く弾くんです。」
と、義男も答える。同僚が、寺さん、変なやり方で、ほかの人と仲良くなるんだなあという顔つきで、彼を見ていた。
「まあ、自己流なのでへたくそなのはわかっていますけどね。でも、下手は下手なりに、毎年ピアノマラソンにも出場しているんですよ。」
「へえ!ピアノマラソンか!それに出れるってのはたいしたもんだな。今度僕たちも、招待してくれよ。是非、お前さんのワルツ・カプリスを聞かせてもらいたいな。」
義男がそうつづけると、杉ちゃんが言った。ますます嬉しくなった彼は、ありがとうございますと言って、ピアノマラソンの日程と、開催場所を伝えた。丁度、すぐの土曜日だった。同僚が、寺さん、早く次の収集場所に行かないと、と彼を急かすと、杉ちゃんたちもわかってくれたようで、
「おう、引き留めて悪かったな。今度のピアノマラソンのときは、お前さんの演奏を必ず聞かせてもらうからな!じゃあ、また会おうぜ。あばよ!」
と手を振りながら、自宅へ戻っていったのであった。急いで残りのごみを収集車に詰め込んで、義男が車に乗り込むと、同僚は、寺さん、音楽っていうのは、意外なところで役に立つもんですなとからかった。
そしてその数日後の土曜日。寺田義男は、杉ちゃんたちのことなどすっかり忘れて、ピアノマラソンの舞台に立った。
「エントリーナンバー10、静岡県富士市、寺田義男さん。曲は、フォーレ作曲、四つのワルツ・カプリスより、第一番イ長調です。今年も、ピアノマラソンの季節がやってきました。毎年出場できてとてもうれしいです。心を込めて演奏させて頂きます。」
と、アナウンサーが、出場票に書かれている自己紹介を読みあげた。義男は、その日だけは、ごみ収集業者の制服ではなく、ちゃんとスーツを着こんで舞台の下手から入場した。また、お客さんの大拍手の中、一礼し、ピアノの前に座って、演奏を開始した。毎年恒例の、フォーレのワルツ・カプリスであるが、気まぐれなワルツ、というタイトル通り、調性が不安定な、華やかなワルツである。舞台に立っているときは、誰かの評価なんか気にしない。その時だけが、大好きな音楽に真摯に向き合える時なんだから。時には、この人は毎年フォーレの作品ばかり弾いてるな、なんて思う客もいるかもしれないけれど、演奏するときはそんな事気にしなかった。
演奏は、大拍手で終わった。義男は、アマチュアの奏者にしては結構な技術がある方で、上がって早とちりをすることもなく、音を外したりもしなかった。
「おう、結構うまい演奏じゃないか。」
と、客席の中で、杉ちゃんこと影山杉三が、隣にいた伊能蘭に話しかける。
「そうだね。僕は、音楽の知識があるわけじゃないけどさ。上手な演奏だとは思うよ。」
蘭も、それは納得した。
「よし、からかいに行こうぜ。」
二人は、義男の演奏が終わると、係員の人に手伝ってもらって、市民会館のホールから出してもらった。
演奏が終わって、義男が楽屋で、あーあ、今年も年に一度のピアノマラソンが終わったなあ、なんて考えていると、
「寺田義男さん、あなたに花束を渡したいと言っている方がおられますが。」
と、係員の女の人が、そう声をかけてきた。おかしいな、今までピアノマラソンには何回も出ているが、花束をもらうなんてのは、一度もないぞ、と、おもったのであるが、とりあえず義男は係の女の人についていく。
「こちらの方々です。」
と、係員は、二人の人物に彼を会わせた。その二人とは、間違いなく杉三と蘭であった。
「よ、お前さんの演奏、本当に上手だったよ。ワルツ・カプリス第一番、ノリノリになって弾いていたじゃないか。」
と、杉三が、にこやかに言った。
「これ、僕たちの応援の気持ちです。受け取ってください。」
蘭は、義男にバスケットに入った花を渡した。
「いやあ、ありがとうございます。花束をもらうなんて、生まれて初めてですよ。もう、ピアノマラソンには、十回くらい出てますけど。」
と、義男は思わずそういうことを言ってしまう。もし、同僚がいたら、寺さん、十年で続けているのに、一度も貰ったことないんですか、何てからかいそうだ。
「ええ、音楽の知識のない僕が見ても、素晴らしい演奏でした。そのままにしておくのは、なんだかもったいないですよ。もし、可能であれば、もう一回習ってみてはいかがですか?」
蘭はそういうことを言い始めた。
「あの、ちょうど、僕の友人に、ピアノの教師をしているものがおりましてね。彼の下へ行って、習ったら如何でしょうか。」
義男は蘭の話にびっくりする。
「ピアノ教師?もしかしたら、高名な音大でも出ている人でしょうかね。そんな方でしたら、一寸恐縮してしまいます。」
すると、杉三が口をはさんだ。
「いやあ、ちっとも恐ろし気な奴じゃないよ。いつもニコニコしている、優しくていい奴だよ。音大なんか行ってないけど、ピアノの腕前はぴか一で、ピアノのサークルなんかもしているよ。」
「そうですか。でも、こんなへたくそすぎる演奏で、その人に笑われたりしませんかね。」
義男がそういうと、ちょうどその時、隣を通りかかった出場者が、義男に声をかけた。
「名案じゃないですか。寺田さんは、演奏技術があって羨ましいなあと思っていたんですが、いつも同じ曲ばかり弾くものですから、飽き飽きしていました。ちょうどいいじゃないですか。その先生に習って、来年は別の曲をやるようにしてください。」
「そうですねエ、、、。」
義男はまだ、迷いがあるようで、ウーンと考えこんだ。
「ぜひ習ってよ。きっとマーシーも新しい生徒が来てくれて喜ぶよ。」
杉ちゃんに急かされて、義男は腕組をする。蘭が、その間に、マーシーこと高野正志の住所と、電話番号を、紙に書いて彼に渡した。その住所を見ると、マーシーの住所は、すぐ近くにある事がわかった。
「もし、個人的に師事するのが躊躇するんだったら、マーシーが主催するピアノのサークルに行ってみたらいかが?おい、蘭。そのサークルの開催場所も書いてやれ。」
杉ちゃんがそういうので、ああそうだねと蘭は、急いでその開催場所である、田子浦公民館の住所も紙に書いて彼に差し出した。
「はあ、結構活発に活動しているんですね。どんな人が来ているんでしょう。」
「ああ、そこらへんは分かりませんが、ピアノが好きな人であればだれでも参加できるそうですよ。まあ技術的にはどうなのか、は分かりませんが、皆さん結構な大曲をやるとか。」
義男がそういうと、蘭はそう説明した。
「そうですか。大曲というと、ちょっと躊躇してしまうような。」
義男が言うと、
「だって、お前さんのワルツ・カプリスだって結構な大曲じゃないか!」
と、杉三がカラカラと笑った。
「そうですか。ありがとうございます。よくわからないですけど、とりあえず行ってみようかとは思います。」
と、義男はとりあえずそういってみた。
「よし、よかった!これで、お前さんの音楽生活はもっと充実したものになったな。よかったよかった、成果を讃え、君の瞳に乾杯!」
杉三が、いつの間にか持ってきた缶ジュースを開けて、義男に渡した。
ピアノマラソンが終了して数週間後、義男は、田子浦公民館に行ってみる。受付に何か御用ですかと聞かれて、ピアノサークルがここで行われていると聞いたがというと、こちらですといって、すぐに小さな部屋に通してくれた。そこは、練習室と書かれている部屋で、六畳くらいの小さな部屋に、グランドピアノが一台でんと置いてあり、響板も備えた部屋である。
「こんにちは、、、。」
義男が、ドアを開けて、しどろもどろに挨拶すると、一人の男性が椅子から立ちあがった。
「どうも今日は。蘭から、連絡はいただきました。寺田義男さん。宜しくお願いします。」
という事は、この人がマーシーこと、高野正志先生なのか。予想通り、渡された名刺には、高野正志と書いてあった。ただその名刺には、ピアニストという肩書は書かれていなかった。
「今日は、何を弾いてくれるんですか?」
と、後の席の方で、別の男性が、そういうことを言った。義男は、曲の名前をどうしても言えなかった。
「おっけです。じゃあ、練習会を始めましょう。じゃあ、さっそく、新人さんに弾いてもらおうかな。」
と、マーシーがみんなをまとめるように言った。メンバーは、五人いた。男性ばかりなのかなと思ったが、一人だけ、女性がいた。年は自分と同じくらいか。背は小さくて、かわいらしい感じの人だ。彼女は、義男を見て、にこやかに笑って、軽く会釈した。
「よし、じゃあ、新人さん。自己紹介をして、演奏をお願いします。」
と、マーシーに言われて義男は、ピアノの前に立つ。
「初めまして、富士市内に住んでおります。寺田義男です。職業は、」
と言いかけたが、黙ってしまう。ごみの収集業者何て言えるだろうか。笑われてしまうのではないか。
「職業は、公務員です。今日の演奏曲は、フォーレのワルツ・カプリスです。」
彼は、そういってピアノを弾き始めた。弾くには弾いてみるのだが、あのピアノマラソンのときよりももっと緊張しているような気がする。それでは、いけないと思うのだが、なぜか指も思い通りにいかない。ずっとへたくそな演奏だった。でも、なんとか、ワルツ・カプリスを、最後まで弾ききった。
ああ、もうだめだ!と思うけど、すぐに大拍手。ほかの男性たちは、これは大物が来たぞ!と声をあげた。そんな大物じゃないんだけどなあ、と思いながら、義男は席に戻る。
「それでは、次は、丹羽多美子さん。演奏をどうそ。」
と、マーシーが言った。多美子さんと呼ばれた女性は、すぐに立ち上がって、ピアノの前に言った。
「えーと、丹羽多美子です。よろしくお願いします。曲は、ショパンのワルツ、第十番です。」
と言って、彼女はピアノの前に座り、演奏を開始した。先ほどの、義男の演奏に比べたら、比べ物にならないほど演奏技術はなかったが、なぜか、音色はとてもきれいなような気がする。繰り返し記号の読み方など、一寸間違っているところがあったが、それでも音楽の素質はありそうだ。演奏が終わると、丹羽多美子は立ちあがって軽く一礼した。義男は、そっと拍手を送って彼女にエールを送った。
「ありがとうございます。」
そういって席に戻る多美子。
そのあと、ほかのメンバーの演奏を聞いたが、皆、ベートーベンのソナタとか、そういう古典派の曲ばかりで、フォーレとかドビュッシーのような現代音楽をやったものは一人もいなかった。確かに長い曲をやる人はいるが、古典派の曲なんて、ある程度パターンが決まっていて、おもしろくないなと思うのが、正直な感想だ。でも、義男は、その事を口に出しては言わなかった。そうしたら、サークルをぶち壊してしまいそうな気がするので。
とりあえず、演奏は全員終わって、サークルはお開きになった。皆、車に乗ったり歩いて行ったりして、自宅に帰っていく。義男がマーシーに挨拶をして、もう帰り支度をしていると、彼女、丹羽多美子が声をかけてきた。
「初めまして、私、丹羽多美子。演奏、素敵でしたよ。あなたはどこで習ってたの?」
「いや、たいしたことありません。誰かに習っているとか、そういうことはありませんので。」
義男は正直に答えた。
「まあ、そうには見えないわねエ。誰か偉い人に、習っているかも知れないなと思ったのよ。」
と、多美子さんはそういう。
「実は私も独学なのよ。子供のころにちょっと習って、教えてもらっただけ。でも、ピアノを忘れられなくて、また弾いてる。」
「そうですか。僕もそういうようなものですよ。だから本当にへたくそで。」
義男が言うと、多美子さんは、一緒に帰りましょ、と促した。お宅はどこかというと、新富士駅近くだという。田子浦コミュニティバスで帰るというので、義男も一緒に乗っていくことにした。
二人は、公民館の前のバス停でバスを待った。数分後にバスはやってきた。二人はバスに乗り込んで、隣同士の席に座った。
「えーと、名前は寺田義男さんって言ってたわね。何時からピアノを習い始めたの?」
と、多美子さんは聞く。
「ええ、五歳からです。学生の時にちょっとやめてたけど、大人になったら、また始めて。独学でやってるんで、本当にへたくそですよね。」
「いいえ、そんな事ありません。素敵でしたよ。あたし、フォーレの曲何てとても弾けませんもの。確か、お仕事は公務員だって言ってましたねエ。」
丹羽さんは勝手にそんな話を始めた。確かに、ごみ収集車で働くなんて、とても言えない。義男が縮こまって黙っていると、
「それなら、しあわせな生活していらっしゃるんでしょうね。あたしは、本当に落ちこぼれなんですよ。学校を出て、就職先が見つからなくって。今は、家事手伝いなんです。」
と、言うのである。それは意外だった。
「でも、ピアノはやり続けたくて、親からもらっているわずかなお金でピアノのサークルに参加してるんです。」
という彼女。そうか、彼女も何か事情があるのか、という事に気が付くと、義男は、なにか丹羽さんとの距離が近くなったような気がした。
「そうですか。それではお辛いでしょう。」
と、義男が言うと、
「ええ、そうなんです。みんなからは働けってうるさいし。そんなことできたらとっくにしてます。だから時折家を出て、ほかのところで練習させてもらったりして。」
と、明るく答える丹羽さん。
「ああ、音楽スタジオでも借りるんですか?」
義男が聞くと、
「いいえ、スタジオじゃなくて、ある施設です。あたしみたいに居場所を亡くした人たちがたくさん着ていて。あ、そうだ!」
不意に何かがひらめいたらしい。丹羽さんは、急いで手帳を破り、なにかを書きだした。
「あなたの演奏、ぜひ、水穂さんに聞かせたら、きっとほめてくださるわ。ぜひ、来週の日曜に、来てくださらない?」
と言って、そのページを彼に渡す。水穂さんという人物は誰なのだろう。その名は男性でも女性でも、どちらもとれる名前であることは、義男も知っていた。渡されたページには、製鉄所の住所と電話番号が書かれていた。
「ねえ、お願い。ぜひ来て頂戴よ。水穂さんにあなたのワルツ・カプリス、聞かせてあげたいの。一時に待っているから、この住所をタクシーの運転手さんなんかに見せれば、すぐに連れて行ってくれるわ。」
彼女がそういったとき、バスのアナウンスが、次は新富士駅前と告げた。バスは、新富士駅の北口で止まった。彼女は当然のごとく椅子から立ち上がって、じゃあ、待っているわね、と肩をたたいて、
バスを降りた。義男は、待って、と言おうと思ったが、バスが走り出してしまったので、それはできなかった。
散々迷ったが、義男は彼女の言う通りにしたほうがいいと思った。なので、タクシー会社に電話し、家の前に来たタクシーの運転手に、彼女が言った住所を告げると、すぐにわかってくれたようで、彼をそこへ連れて行ってくれた。
製鉄所という建物は、日本旅館のような建物だった。とりあえず、こんにちはと言って、インターフォンのない、製鉄所の玄関扉を開けると、丹羽さんが出てきて、待ってたわ、こっちよ、と言って、吉義男を招き入れる。
「こっちよ。一番奥の四畳半よ。」
と、彼女は、彼の手を弾いて、四畳半に向かっていった。そして、水穂さん、この前話していたお客さんが来たわよ、と、言いながら、ふすまを開ける。
すると、中には、浴衣に茶羽織を着た、男性が座っていた。美しいという言葉がぴったりな、本当にきれいな人であったので、義男は、失望した。ああ、こんなにきれいな人がいたのか。丹羽さん、こんなこと言って、申し訳ないけど、裏切りものと叫びたいです!と、義男は心の中で思った。
「水穂さん、この人、寺田義男さん。ピアノがとても上手なんで、一寸聞いてあげて頂戴よ。お仕事は、えーと、公務員をしているんですって。」
丹羽さんがそういうことを言っているが、義男は裏切られた気持ちが勝って、もう、本当の事を言ってもいいじゃないか!という気がして、でかい声で言った。
「違います!俺はただの、ごみ集めをしています!」
水穂さんは驚くだろうと思った。きっとこんな汚い男を早く追い出してとか、そういうことを言うと思った。しかし、彼は、にこやかにわらって、義男を見て、
「いいえ、大丈夫です。僕の方が、もっと、汚い立場ですから。」
といった。そんな馬鹿な、ごみ集めの仕事より汚い仕事をしているのか、それは何だろう、下水管の工事とか、バキュームカーでも動かしていたとか?
「水穂さん、わざわざ人種差別を誘発するような発言しなくても。」
丹羽さんはそう言っている。人種差別と言って、思い当たる節があった。そういえば、日本も、安全なところではない。昔は、そういう人種差別があった。
「水穂さんは、素晴らしいピアニストじゃないの。人種差別に耐え続けた人じゃないの。それに、もう部落民の差別は、終わっていると、あたしは聞いたけど。」
と丹羽さんは言っているが、部落民の差別は終わっていないことは、義男も知っている。彼の後ろにある、小さな本箱に、レオポルト・ゴドフスキーという文字が見える。世界一難しいといわれる作曲家だ。水穂さんが、人種差別のなか、それをずっとやり続けたことが分かるほど、ボロボロの楽譜だ。
「だから、僕の方が、あなたより立場は高くありません。どうぞ、聞かせてくださいませ。」
そういう水穂さんに、義男は覚悟を決めた。そして、立ちあがってピアノの前に座った。ワルツ・カプリスが、今度こそうまく弾けるようにと願いながら。
杉ちゃんとワルツ・カプリス 増田朋美 @masubuchi4996
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