或る非行少女について

哲学徒

第1話

私がその少女と出会ったのは、十年前のことだった。その頃の彼女は、まるで躾のなっていない狂暴な野良犬だった。身なりも構わず、服はシワだらけ髪もボサボサで目やにがいつもついていた。


「こんにちは」


私はできるだけ穏やかな声で挨拶をした。彼女はそっぽを向いた。


「お名前教えてくれるかな?」


彼女は口を真一文字に結んだ。自分から進んで来た訳でもないクライエントの対応はいつもこうだ。困った。


「ごめんなさい、人に名前聞くときは先に自分の名前を言わないとダメだったね。」


無言。


「私の名前は猫口歩(ねこくちあゆむ)です。みんなからは猫先生とか、猫ちゃんとか呼ばれてます。」


無言。


「私の名前は言ったから、あなたのお名前も教えてくれる?」


無言。


ああ、これだからこの仕事は嫌だ。ベテランの先生こそこういう仕事をすべきなのに、若手の私にばっかりこんなに面倒なことを押し付けて。


「猫?」


「そう、猫口。珍しいでしょ」


やった!なんとか会話の糸口が掴めた。どうにかしてこのまま会話を続けて・・・


「へえ。」


会話終了。ダメだ。やっぱり私は才能がないんだ。


気まずい時間はあまりにもゆっくりと過ぎていった。私はボールペンの溝を何度も撫でて、彼女の顔を見た。 彼女は向こうの窓をぼんやり見ていて、向かい合っているのに視線は全く合わなかった。


彼女の顔はふっくらと健康そうで、暖房のせいかほんのり頬が赤くなっていて、普通の女の子に見えた。もう少し眉毛や髪型に気を配れば美人になるかもしれない。


栗哉絵美(くりやえみ)、13歳。中学に上がってから問題行動が増え、親や教師やスクールカウンセラーの手にも負えないので外部のカウンセリングルーム(つまりここ)に紹介された。問題行動は、主に暴力、暴言、周囲との軋轢など。暴力とはいえ警察ざたにならない程度に加減してあるらしく、そっちは頼りにくい。誰の言うこともまともに聞かないという。


そんな子が私の言うことを聞くとは思えないのだが。この部屋の時計の針は、1秒進むのに10分かかるようだ。

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或る非行少女について 哲学徒 @tetsugakuto

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