第二幕 またね。
「さっむ……さっさとスマホ回収して帰りたい……」
俺はそう独り言をいいながら、自分の教室へ向かっていた。
一日分の授業を終え下校したものの、スマホを教室に忘れたことに気がつきとって返してきたのだ。
「不思議な光景だよな、これ」
壁や階段、見渡す全てがが赤く染まっている。夕方なのだから当然なんだが、違和感がすごい。
昼間見ている光景と全然違うからな。窓の外からはランニングのかけ声がするし、金属バットで球をミートした音が聞こえてくるし。
まぁ、不思議だと思うのは夕日のせいだけじゃないと思う。
あれから二ヶ月が経過した。
何故かといえば、だ。綾代と別れたあの後、高熱でぶっ倒れた。そしてインフル、ノロウイルスを経て麻疹という地獄を味わった。
おかげで期末試験は逃し、冬休みはなくなり、三年の先輩方にはほとんど会えなくなっており、体調も不安がある為部活動にも励めず……地獄の先も散々な未来ばかりだった。
唯一、といっていいかはわからないが、ありがたい事があった。部員やクラスメイトには粛々と受け入れて貰えたことだ。
それは綾代についても同じ。「あほでしょ」と「おかえり」のセットメニューを拝領したぐらいで、その後は普通に接してもらっている。
「はぁ、ひぃ……」
階段を昇りきり、廊下を挟んですぐ目の前に2-C、自分の教室へと足を運ぶ。
若干。そう、若干息が切れる。2ヶ月も寝込んでいたせいで、体力が落ち放題だ。
俺は男子だ。決して階段に屈してなんぞいない。
部活、休まさせられてるけど。屈してない。
引き戸を開けようとして一瞬躊躇った。
静電気とかいうトラップを警戒せねばなるまい。
緩く掴むから痛い思いをする。思いっきり強く早く掴めば、トラップには引っかからない。
「いつっ……!?」
指先に小さな痺れと痛み。
予測可能回避可能なトラップに引っかかってしまった。脳内の綾代が「あほでしょ」と言ってくる。
やかましいっ!どうせあほだよ!
妄想の女子に逆切れしつつ、もう一度引き戸に手をかけた。
「ん? ううひ?」
赤に染め上げられた教室で、髪ゴムをくわえた女子が声を上げた。
「えっ」
思わず間抜けた声が口から漏れる。続けて状況を再確認。
2-Cの札、升目状に配置された机と椅子、カーテンと窓。
そして目の前に、長い髪を結う女子がいる。
「あ、綾代」
「んー! ひょっほあっへ!」
ちょっとまって、と言われたんだと思う。肩をすくめて見せて、その場で待つ。
俺を見て頷いた綾代は、髪を結うのを再開した。
いや、うん、考える暇が出来て助かった。
まさか脳内に居た女子が目の前にいるとは思うまい。普通にびっくりした。
一回だけ深呼吸した後、改めて綾代に視界を向けた。
その綺麗で長い髪を、手馴れた手つきで纏め上げている。
……髪ゴムをくわえた女の子って、すごくこう、女子って感じがする。
髪を束ねる事に馴れた手つきも、その流れる長い髪も、口にくわえた髪ゴムも、机にある小さな鏡も、男にはない事象だ。
しかも今は夕方で、綾代は異性で、今は俺と綾代しかいない教室で。
不覚にも、少しだけ緊張を覚えた。
「はい尻尾かんせーい。んで、どったの悠木。男子どもと一緒に帰ったんじゃないの?」
「ああ、いや……えっと」
ぱっと言葉が出てこない。一瞬だけ、自分がここに何をしにきたかがすっぽ抜けていた。
「……スマホを取りに来た。机の中に突っ込んで、そのまま置きっ放しにしちゃったっぽいんだよね」
「なんだ忘れ物かー。 悠木って結構そそっかしいよね?」
「うっせうっせ! どうせあほだよ!」
そんなやりとりをしつつ、自分の机にたどり着く。
机の中に手を突っ込むと、硬くて薄い物体が指に触れる。
「あった。よかったー……」
俺は呟きつつ、軽く息を吐き出した。ここになかったらどうしようかと思った。スマホを取り出し、動くかどうか確認する。いやまぁ、壊れてるはずないんだが。
綾代が椅子の背もたれに体重を乗せつつ、こっちに首を向け、
「というか、何でそんなとこにスマホ入れたの?」
「さっき授業終わった後、かなや男子どもと適当に話してたろ」
「うん」
「そん時おまえが俺の机の上に座ってて、しかも綾代のカバンまで置いてあったからだ。スマホを借り置きする場所もなかったんだよ」
という俺の言葉に、綾代は大仰にのけ反りつつ、
「まぁっ! 随分とふてぶてしいやつがいたものね! 普通他人の机の上に腰掛けたりしないわ!」
「おまえだよおまえっ! おまえがって言っただろうがっ」
後、意味不明なキャラ作りはやめてほしい。
「おまえおまえって連呼すんなー。というかあたしのせいにする気?」
綾代が眉根を寄せ、わざとらしく下唇を上げた。
「半分はな。もう半分は忘れた俺の落ち度だ」
「むー」
綾代が今度はわかりやすくふくれっ面をした。が、すぐに目を伏せてつつ軽く頭を下げた。
「ごめん」
「いや、まぁ、俺も、俺も言い方が悪かったな。ごめん」
自分からどもった声が出て余計にどもってしまった。
急に素直に謝られると、テンションが追いつかない。
あれ?
ふとある疑問が頭をかすめた。
「むしろ綾代が何でここにいるんだ? 部活はどうしたんだ?」
「え」
「いや、え、て。まさかおまえも……」
「違いますぅー『も』じゃないですぅー」
綾代が小学生の喧嘩する時みたいな口調で言った。
椅子に肘をかけ、顔だけこちらに向け、一度大きく頷き、
「どこを探しても青い鳥が見つからなくてね、自分の机に居るかなって思って帰ってきたら青い鳥はここに居たの」
「一度見落としたのかよ!? あと予測してる時点でオチが違ぇ!」
「知ってる? 灯台の真下は暗いんだよ?」
「うん。今は昼だからよく見えるってわかるぞ」
「何さ! さっきも悠木が一緒に居れば八目先が見えたのに」
「頼ってくれてありがとう、囲碁は岡目に頼ろうな! で、何を忘れたんだ?」
「スマホ」
「どこに?」
「机の中」
「でしょうね! 最初っから同じ穴の狢ってわかってたよ!」
「なのにノってくれてありがとう!」
「あたぼうよ!」
ヘーイ! と二人でハイタッチ。
まぁ綾代が座っていて、俺は立っているので、綾代だけハイだ。
「ほんで、綾代の方はついでに髪を結いなおしてたって感じか」
「そ。あぁ丁度いいや。後ろから髪を見てみてくれない?」
「りょーかい」
綾代はこっちに振り向いていた顔を正面に戻した。ポニーテールの尻尾の部分が一瞬ふわりと翻る。
「どう? 悠木の大好きなポニテ」
「わざわざ好きとか言わんでいい。あーリアルにポニテ女子が少ないのちょうつらいなー」
「目の前にいるじゃん!」
綾代が微かにこっちに振り向き、半目で見つめてきた。
「少ないのがつらいなー」
「いっぱい居て欲しいんだ……ポニテマイスターの欲望がダダ漏れだよ?」
綾代が今度は心配そうな声を出した。
リアルに哀れんだ顔と相まって、まるで俺がヤバい人の様だった。間違いない。
「誰がポニテマイスターか! いやでも、リアルポニテ女子が少ないのはまことに遺憾であります」
俺はめっちゃ大仰な口調で、大仰に頷いておく。
「まー少ないのはしょうがないよねー。これ色々面倒な髪型だし。んで? 後ろから見てどーなの?」
「あー。 特に問題ないと思う。いつもの……っ」
自分がとんでもない事を口走りそうだって気づいて、寸前で止めた。
いつもの綺麗な髪、とか。言ったら絶対増長する。
「いつもの?」
「いつもの……綾代だ。まぁ、似合ってると思うよ」
結局褒めてしまった。
恥ずかしがって褒めない方が、子供っぽい気がしたから。
すると綾代が、背もたれに肘をかけて俺を見やり、
「雑ぅ! 褒め方が雑だ! まぁって何さ! 素直に褒めてよ!」
「出来るか! 普通に恥ずかしいんだって!」
「女子を褒めるのが恥ずかしいって悠木はおこちゃま……ん?」
綾代が目を見開く。その後、すーっと目線を窓の外に移して、
「……ほーん。恥ずかしいんだ。ほーん」
「なんだよ」
「いや別に? ほーん」
ほーんほーんと連呼する機械になる綾代。いや本当になんなんだ。
「あぁ、そういやさ。ここんとこずっとポニテだよな? どういう心境の変化だ?」
ほーんとしか言わなくなったので、とりあえず別の話を振ってみる。
「えぇー……」
「なんだよ」
「……いや、ポニテマイスターとはいえ、そこまであたしの事見てたんだなーって思って」
「違う!」
反射的に大きな声で返してしまった。
そう。ここんとこずっとポニテだったとか、君を『おはようからおやすみまで見つめていた』宣言になってしまう。
「違うの?」
「……ポニテの事だから覚えてただけだ」
「いやそれは引くわー普通に引くわー」
綾代は俺から顔を遠くへと離し、低い声で返してくる。まさにドン引き。
「いや、だってさ! いつも大体髪を下ろしてるかせいぜい後ろで結ってるだけだったろ!」
「まぁそうね。そうだね」
綾代は一回頷いた後視線を上に向け、元に戻しながらもう一回頷いた。
「あれだけ部活で長い時間顔突きつけてんだ。普通気付くって」
「普通、ねぇ」
「そう、普通だ」
多分普通じゃないけど、断言しておく。
「というかだよ。女子が髪を結ったり、ヘアピンしてたりって男にはない事象だろ」
「事象て」
「事象だろ」
「まぁうん。少なくともあたしが今まで見てきた男子にはない事象だね」
綾代は微かに頷きつつ、腕を組んだ。
俺はその組んだ上にある物に視線が誘導される。
普通、腕を組むときは脇に手が入る組み方になる。
でも彼女は手で肘を握っている。まぁその、大きいからね。メロンとか母なる大地とか言われる二つの山がね。邪魔をするからね。
いやしかし、いやしかしだ。決してやましい気持ちだけで見ている訳ではないのだ。
「女子が男性を演じるときに、どうしても女子っぽい仕草って出るじゃんか」
「あぁそれは出るねー。どうしても動きが内側になるんだよなー」
「その内側ってだけだと、具体性にかけちまう。指摘する為には、具体的にどういう仕草をしてるかって記憶する必要があるだろ」
「なるほどねー。言われてみれば当然だった」
うんうんと何度か頷く。そして綾代は真顔のまま自分を指差し、
「ちなみに、あたしから得た女子っぽい仕草って何?」
「……」
腕の組み方、という言葉が脳裏に浮かぶ。普段ならノータイム、普通のトーンで腕組って答えられるのに、躊躇いが生じた。
「腕の組み方だ。男子は普通肘を掴まないだろ」
綾代はただ純粋に知りたくて聞いてきているのだ。例えそれがエロい話だろうが、真面目に答えればいじってくることはない。
「ん?……ってあぁ、そういうこと。確かに胸がないとこの組み方にはならないね」
予想通りいじってこない。だから俺も素直に答えてしまえるのだ。
綾代は今視線を下に、つまり胸を見ている。
故に俺も釣られて視線を向け……てしまったので、握りっぱなしのスマホをポケットにつっこむ仕草で自然に視線をキャンセルした。
もう今日はダメだ。綾代は女子、という認識が頭を支配している。
「うんこれは確かにそう! 他は他は?」
綾代はわざわざ一度立ち上がる。
椅子を俺と正面で話せる向きに変え、座りなおした。
「あー……あぁそうだ。今みたいに座るとき、スカートを手でしっかり抑えるとか」
そうパンツが見えないように……って違う! いやあってるけど! 何で例が胸かパンツなんだ!
本当に今日はもうダメだ。
「おぉ、確かにそれもそうだ! 他は? なんかある?」
「も、もうない。ぱっとは思いつかないよ」
「えぇー」
「えぇーと申されましてもね、ないものはないんです」
まぁスカートに付随する仕草はいっぱいあるが、要するにそれもパンツだ。
「ま、いっか。思い出したら教えてよね」
「りょーかいだ」
俺の返事に、綾代は後頭部に両手を組みながら、にひひっと笑った。
こやつのイ行の笑い方はいかにも子供っぽくて、女性というより女の子って感じで、脳内で化学反応が起きてしまう。
つまり、可愛いとかいう褒め言葉が思いつく。
可愛いのは事実だが、可愛いと認めるのは癪だ。
可愛いと口に出すより癪だ。順序が違うけど、癪なのだ。
それはともあれ、事なきを得た俺は、
「わたくしめがお嬢様がずっとポニテであると把握している理由、わかっていただけましたでしょうか」
などと、恭しく執事の一礼をしながら言った。
「うん、よーくわかった。いつもの人間観察の一環で覚えてたって事ね」
「左様でございます」
「ふーむ。それなら仕方ないってことにしておくよ」
「恐悦至極にございます」
「うむうむ。……んっ」
綾代は二度大きくうなずくと、不意におでこに手を触れた。
「んー。やっぱ慣れてたつもりなんだけど、一日中ポニテにしてると生え際が痛いなぁ」
「あぁ髪が重くて痛いんだっけか」
「そう」
生え際が髪の重さで引っ張られ、痛くなる。ポニテ人口が少ない理由の一つだった。
「じゃあ何でここ最近ポニテにしてるんだ?」
「べっつにー? ただのきまぐれだから」
綾代は頬杖をつきつつ、しっかりこっちを見つめてきた。
ちょっとだけドキっとしたので、思わず目を逸らす。
こいつの目は大きい。
それにはっきりと光を反射……つまりすごく輝いて見えるし、綺麗だからこそ圧を感じる。
「いやいや、それにしちゃ長いだろ?」
「今週はポニテ週間なんですぅー」
綾代はわざとらしい不機嫌な声を上げている。視線を綾代に戻すとと、まだこっちを見上げていた。
「な、なんだよ」
「……ま、いっか。悠木になら教えても大丈夫だろうし」
「え、マジで?」
「うん。大した話でもないしね」
綾代が一度だけ息を吸った。たったそれだけだが、周囲の雰囲気が変わった気がした。
舞台上で、暗転から急にスポットライトが当たり、語り手が見える瞬間のような、雰囲気の変化。
その語り手である綾代は、俺の方をしっかり見据え、でも俺とは目が合わない。どこか遠くを見ているような目をし、語り始めた。
「友達が病気で、学園に来なくなったの。すぐ戻ってくるって思ってたのに、いくら待っても戻ってこなくてさ」
言葉を挟みたかったけど、出来ない。息を呑まされて、言葉を発せられなかったのだ。
「……皆口を揃えて言ってた。『明日になれば来るさ』って。でも『明日になれば来るさ』って言うのが段々日常化してった。終いには誰も『明日になれば来るさ』とすら言わなくなった」
一切のよどみなく、綾代は話す。
「そいつが来なくなって3週間目くらいの時、思った。あ、これこのまま二度と話すこともなくなるやつだって」
二度と。大げさな話だって思った。すると綾代は俺に目を合わせ、
「……今大げさだなって思ったでしょ」
「いや、そんなことは」
「別にいいよ。あたしだって他の人から聞いたら、大げさだって思っただろうからね」
綾代はまた遠い目をし、語り手へと戻る。
「小1から小2の時にね。すっごい仲いい友達が居たんけど、3年になってクラスが別になって、ぱったりと遊ばなくなった。最後に遊んだのがいつだったのか、全然覚えてないんだよね」
「……俺にもいたな、そういう奴」
「あぁ、悠木にもいたんだ」
「いたよ」
「そっかそっか」
軽い調子で綾代は頷いた。
静かで、少しだけ冷たい空気が広がっている気がした。雨に濡れた服を着ていて寒いけど、自分の部屋には居る。そういう冷たさ。
「……小4~5年の時もね、仲のいい友達が居たんだよ。同じ学校じゃなくてさ、公園に行くと会える友達。でも、なんとなく公園に行く機会がなくなって……」
綾代は目を閉じ、一呼吸の間を置いて、
「だから。最後に遊んだの、いつだったか全然覚えてないんだよね」
と言った。
綾代は目だけ動かし、俺を目を合わせる。
「……悠木は思い出せる? 最後に缶蹴りした時、誰かの家で遊んだ時。じゃんけんでもいいよ。最後って思い出せる?」
「……いや、思い出せないな」
ジャンケンは思い出せるだろって思った。思ったんだけど、ぱっと思い出すことは出来なかった。
しかも合っているか自信がない。
「あたしはさ。その最後に遊んだ時、日が暮れるから帰ろうって別れた時、これが最後だ、なんて微塵も考えなかった。何の確証もなしに、次があるって信じてた」
窓の外に見える、赤い夕日。少しずつ、確実に沈んでいく夕日。
これから夜になる。当たり前だ。日が沈むから。
「だからきっとあの時、病気の友人と別れた時、あたしは――」
段々と綾代が見えなくなっていく。表情も見えなくなっていく。
「その時もあたしは。またね、って言って別れたんだと思う」
日が沈みきった。夕日は、もう見えない。
「いやなんで電気つけないのよ」
「えぇー……」
スンって感じで元に綾代に戻っていた。怖い。
「というかお前がそれ言うのか?」
「言う! ……いや言わないわ、やっぱり」
「どっちだよ、なんなんだよ」
ため息をつくと、体が弛緩していく事に気が付く。
いつの間にか緊張してたらしい。
綾代は俺の傍から離れ、入り口付近のスイッチを押す。
「うっ」
かすかに目がくらんだ。
暗いところにずっと居たせいで、明かりがメチャクチャ眩しい。
綾代は呻いた俺を見て笑いつつ、俺のいる席まで戻ってきた。
「あたしさ。またね、って凄ーく幸せな言葉だなーって思うよ。だってさ、楽しいかったからまた遊ぼうって思うわけじゃん? だからまたねって言うわけさ」
綾代の口調は、まるで子供みたいだった。
机一つ分くらい離れた場所で、背中で手を組んで、身体を屈め、上目遣いでこちらを見ている。
俺は思わず目をそらす。
「そう、だな。楽しくなきゃ、またなんて思わないもんな」
目が合ってる事を恥ずかしがっていたら、頭で考える暇もなく、口が勝手に動いてしまった。
素直な言葉を引き出された。
「うん。そんでさ、その楽しいが次も絶対あるって思うっしょ?」
綾代が一歩距離を詰めてくる。綾代の笑顔が、少しだけ陰っていく。
「……うん、そう思うよ。特別な日じゃないからな」
「そう、特別じゃない。日常だから、いちいち覚えてなんかないよね」
さらにもう一歩詰めて来る。気が付くと、綾代から表情がなくなっていた。
「さっきも言ったけど、その病気の友達にもね、またねって言って別れたんだと思う。最後会った日はは印象的な日だったから、流石に別れた場所すら覚えてるけどさ。でもとにかくね。明日会えるって思ったよ。何の確証もなしに」
綾代の目が俺を射抜く。
なるほど。目で射抜かれるって言葉の意味がわかった気がする。
目を逸らせない。まばたきも出来ない。
「……メッセもしたけど返事が来ない、さりとてわざわざ家に押しかける勇気もなかった。だからちょっとした願掛けをする事にしたんだよ」
「……願掛け?」
「そ。願掛け。その願掛けがこのポニテ」
「ん? え、どういうことだ?」
「そいつが好きなポニーテールにしておけば帰って来るだろうって思ったんだよ。なんとなく」
え?
なんだそれは。
でも、声に出せない。
「ま、その好きなポニテを見せる訳でもないから餌にもならないよね。我ながら何にどうお願いしてるかわかんなかったけどさ、これが正しいって思ったんだ」
綾代がまた一歩詰めて来た。
近い。
上目遣いだから届かないけど、姿勢を正せばキスが出来そうな距離。
「これが、正しいって思ったんだよ」
目を逸らせない。
だって、それは、つまり、その友達っていうのは、そのポニテは。
「な、なぁ、その友達って、まさか」
俺の口から出た疑問はまるで形にならない。
だってそんなの、そんなはずが、いやだって仲良くしてもらってるとは思って、思ってはいたけど。いたけど!
そういう心配っていうか、そこまでの心配っていうか、その、なんだ! なんだ?
そんな俺を知ってか知らずか、綾代が口を開く。
「って言ったら嬉しい? ねぇ、どうどうどうっ? ねぇ!」
唐突にやかましいうるさい明るすぎる音が聞こえた。
「あ?」
いや、音じゃない。声か! え、目の前の、え、綾代から出てる?
「あぁ!? え、おまっ、演技かよ!? ウソかよ!?」
「あっはっはっはっは! こーんなに上手くいくとは思わなかった! くふ、悠木すげー顔してた! めっちゃアホ面!」
両手をパンパン鳴らしながら爆笑する綾代。
「てめ、ちきしょうが! なんてことしやがる!」
「あはははっ!ってことはさ、てことはだよっ? 結構嬉しかったってことかにゃ-? くふふ、普段邪険にしてるあたしにドキっとさせられるって、ねぇどんな気持ち? ねぇどんな気持ち?」
口角がにゅっと上がっている。
いたずらが成功して心底嬉しそうにしている、小悪魔の笑み。小悪魔スマイル。
「うっせうっせ! こんな時に持ち前の演技力を発揮するんじゃねえよ!」
「くふふ、褒められた! 嬉しい!」
バンザイしながらくるくる回転する綾代。
「褒めてない!」
「はいはい、そういうことにしといてあげんにゃい!?」
綾代から可愛い悲鳴があがった。
椅子や机に尻をぶつけたのだ。席の近くで動き回れば当然だ。
「お、おいっ、大丈夫か!?」
「ぜんっぜん、大丈夫じゃない! めっちゃ……めちゃくちゃ痛い……」
「おいおい……」
ぶつかっただけで大げさな、とは思うのだが、涙目だった。マジで痛いらしい。
仕方ないので綾代の痛みが引くまで待つ。
その間に、ぐちゃぐちゃになった机を元に戻しておく。
綾代の手鏡は机から落ちずに済んでいた。
というか何で手鏡なんだ? スマホじゃダメなんだろうか。
「あーっ……ホント痛かった……わかってたけど、お尻側の足の付け根って急所なんだね……痛い……痛かった」
綾代が地獄の感想を述べていた。ハンカチで涙を拭いてぬぐっている。
ほんとぉぉぉぉに、痛かったらしい。
「はぁ。天罰ってやつだぞ。世の中やっていいことと悪いことがあるからな」
「わかってますぅ……今のはやりすぎましたと思います。でもですね!」
人差し指を立てつつ、眉根をしっかり寄せて俺を睨んできた。
「話はウソじゃない。帰ってこないの、マジで怖かったんだからね」
綾代の言葉が耳に入った瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられる痛みを感じた。
首から背中にかけて、急に体温が下がった感覚を覚えた。
綾代の口から出た声は恐ろしい程低く、切実な言葉だった。
つまり、マジ。
「ごめん」
「……。あたしもごめん。メッセ返せなかったのってホントにしんどかったからでしょ? 身体」
綾代は俺から距離を取りつつ、俯いた。しょんぼりした声色。
「……うん。それとまぁ、症状が良くなった後すぐ返そうと思ったんだが、その、なんか気まずくてな」
「それってあれでしょ。一週間風邪で寝込んだ時、別に何も悪い事してないのに何故か教室に入りにくいって奴」
「それ!」
俺は思わず人差し指を立てた。以心伝心……ではない。適当な言葉が思いつかないけど、なんか嬉しい。
「あぁ合ってるんだ。あたしにはわかんないんだよなーその感覚」
「……マジか」
「マジ。何も悪い事してないし、教室はあたしが居る権利があるところです。何に怯えてるのかよくわかんないです」
うわぁ、めちゃつよメンタルな人が目の前にいる。
唯我独尊。いやマイペースか?
「ま、それは置いておくとして、だ」
綾代がじっと俺の方を見つめ、再び距離を詰めて来る。
「な、なんだよ」
「うん。一個言い忘れてた。いや言ったけど、言い方がまずかった、かな」
「何の話だ?」
「挨拶だよ挨拶。帰ってきた人にかける言葉だよ」
俺の目の前で綾代が笑う。子供っぽい、イ行の笑い方をして。
「悠木、おかえうあぁ!?」
「おあっ!? な、なんだ!?」
ヴーッ。
綾代が何か言い切る前に、低い振動音が聞こえた。スマホの着信か?
綾代から目を離し、自分のスマホを取り出し画面を見る。が、通知なし。
「綾代、お前の方じゃないか?」
「あぁ、悠木じゃないんだ。あたしのスマホはー……っと」
綾代はごそごそと巾着袋の中身を漁り始めた。
その綾代の横顔というか、困り顔というか、とにかく顔を見て思う。
なんだ、まぁ、あれだ。
邪魔された事に、ほんの少しだけイラっとした。ほんの少しだが。
綾代は巾着袋から目当てのスマホ取り出した。
そして、画面を見た瞬間、彼女の身体がぴたりと停止した。
これ知ってる。頭の中真っ白になった時の反応だ。
つまりこれは、ヤバい事が書いてある。
すると綾代がスマホの画面を見たまま言う。
「メッセ主は我らが友人、七瀬かなさんです。読み上げます。『……いい舞台を見せてもらった』」
「は?」
「『オチが見られなくて残念だが、時間切れだ。部活が始められない』」
「……オチ?」
全身の体温が一気に下がった。
すげぇ! 肝が冷えるとか言うけど、ホントに冷えるんだな! ははっ!
「……なぁ、綾代。ってことはさ」
ヴーッ。ヴーッ。
再び低い振動音。しかも何度もバイブレーションするので、通話だと思う。
綾代が高速でスワイプして通話に出る。
「はい、こちら綾代クリニックです」
「いや意味わかんねぇよ!?」
発信者の変わりに、よくわからない綾代のボケに突っ込みを入れておく。
いや多分、綾代も混乱しているんだと思う。だって真顔だもの。
綾代は二言三言話した後、耳から離しスマホをタップした。
「かなが、ハンズフリーにしろって」
「えぇー……俺にも話があるのか」
『あーあー、悠木、聞こえるか』
綾代のスマホから、件の七瀬かなの声が聞こえた。
「聞こえるけど……なぁ、俺逃げてもいいか?」
『別に構わんが後悔しても知らんぞ。メッセで済まそうかと思ったんだが、事態は思ったよりも切迫しているんだ』
「何の話だ?」
『既にわたし以外の目撃者が出てしまっているという事だよ』
俺と綾代は顔を見合わせる。おそらく、俺も綾代と同じ表情をしているだろう。
ヤバい、と。
綾代がとてもゆっくりとスマホへ視線を戻しつつ、声を絞り出した。
「……ねぇ舞台とか目撃者って、聞きたくはないんだけど」
『綾代の声はよく通るからなぁ。周囲が静かだったから盗み聞きする必要もなかった』
「えっとね、かなさん? 落ち着いてくださいまし。多分それ誤解ですの、気のせいですわよ?」
落ち着くのは綾代の方とは思うけど、早く先を聞きたい。楽になりたい。
『現実を見ろポニテ願掛け』
「「あぁー……」」
人は諦めると空を仰ぐという。俺と綾代は今、世界の誰よりも空を仰いでいる。
『ポニテ願掛けはわたしに感謝した方がいいぞ』
綾代がゆでただけのニンジンとたまねぎを同時に噛み潰したような顔をした。甘さが苦手で、気持ち悪くなるらしい。
「それを名前で呼ぶ時点で感謝する要素がないんですけど?」
『いや感謝すべきだ。何かまたいい雰囲気になるというか、大人の階段を上りそうだったので通行止めを作ったんだぞ』
「ありがとうもう手遅れだったから意味がないよね!?」
綾代がどんどんヒートアップしていく。
『え、既に通っちゃった後なのか!?』
「違う!! 既に他に見つかってるのが手遅れって言ってんの!!」
ついに綾代がキレた。よく通る声で叫ばれると鼓膜がヤバい。
『安心しろ。見たのは話が通じる者達ばかりだ。いいから早く来い。我らが友、朝霞先輩と姫宮の防衛線を突破されると、さらに被害が拡大するぞ』
「くっ……」
綾代が歯噛みをしている。おぉ、ホントに歯を食いしばってる。
違う、驚いてる場合じゃない。
「俺は防衛線作る前に、もっと早く戦を止めてほしかったんだが」
『そうは言ってもな。本当に真面目で大事な話だっただろう?』
「うっ、それは……」
事実だった。特に、綾代にとっては。
『話を聞いてしまった事は謝る。今度ちゃんと謝らせて欲しい。出来れば二つ』
「二つ?」
『防衛線が突破された。新たに被害が広がった可能性がある』
「「えっ」」
俺は綾代と声がハモった。そして顔を見合わせる。
こりゃ間違いなく、俺は綾代と同じ表情をしているだろう。
だってさ、今度ははっきりと、顔に文字が書いてあるんだもんね。
ヤバいと。
『パンデミックが起こる前に早く部室に来い。通信を終わる』
間の抜けた通話の終了音と共に、かなの声が聞こえなくなった。
「……綾代は早く部室へ行け。俺は部室と反対方向の階段から降りて帰るわ」
俺は綾代の顔を見ずに言った。スマホがポケットに入っている事を確認して、カバンを背負う。
「うん、わかった。……なんかその、ごめんね」
「いいよ。謝んのは俺も一緒し……でも止める訳にもいかなかったじゃんか。必要な話だったろ」
「うん、まぁ、そうなんだけどね……あー学生って恐ろしいなー」
綾代の声の方から、ごそごそと音がする。
多分、スマホやら手鏡やらを巾着袋に入れてるんだと思う。
「学生が何言ってんだ?」
「青い春は実在するんだなと思ってねぇ。はっきり言って教室でする会話じゃなかったよね?」
「あー。会話を止められない辺りが青い春的なアレソレってことか?」
「そうそう、って話してる場合じゃなかった! んじゃあたし行くね!」
「あぁ。気をつけて行けよ。色んな意味で」
「悠木もね!」
綾代が俺と逆方向の教室の入り口に向かった。俺も綾代とは逆の入り口に向かう。
「っと、そうだ。悠木!」
入り口をくぐろうとしたところで、綾代に呼び止められた。
「またね!」
とびっきり可愛い笑顔で、綾代が言った。
俺は少しだけ笑って、小さく息を吸って、ちょっとだけ言葉が届くよう意識して。
綾代と同じ言葉を返す。少しだけ、はっきりと返す。
「あぁ、またな」
小さく手を振る綾代に、俺も小さく手を振った。
ポニテ少女にまたねと言われる リノスブロック @linosblock
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