最後のラブレター

暁烏雫月

最後のラブレター

 ねぇ、しーくん。しーくんは今、何してるのかな。きっと大好きだった動画を思う存分見たり、何時間も食事忘れてゲームしたりしてるんだろうな。図星でしょ。

 最後に会ってからどれくらいが経ったんだろう。ねぇ、しーくん。私、結婚することになった。念願のウエディングドレスを着て、みんなの前で式を挙げるんだ。綺麗になった私を見たらきっと、しーくんも私に惚れ直すと思う。

 ここで質問です。私の結婚相手はどんな人でしょう。しーくん、当ててみてよ。



 彼との付き合いの始まりは、しーくんと最後に話した日の翌日だったの。真っ赤に泣き腫らした目と泣きすぎて枯れた声。整える余裕もなくてボサボサのままセットしてない髪。おまけに着てたのはしわくちゃの寝巻き。お洒落の「お」の字もない見た目で彼に会った。

 確か両手にゴミ袋を持っていたと思う。だってその日、家庭ゴミの収集日だったし。どんなに悲しくて泣いてもさ、お腹は減るしゴミは出るんだよ。そしたらさ、ご飯食べて、ゴミは収集日に捨てるしかないじゃん。

「おはよう。昨晩、大丈夫だった?」

「おはよう。大丈夫って何が?」

「ほら、すごい物音がしたから。というか声、凄いね。絶対何かあったでしょ」

 しーくんと最後に話した日の夜。私は分かりやすく荒れた。壁を殴って蹴って、部屋中の物を床に投げ捨てて、テーブルや椅子を倒して、これでもかってくらい大きな声で泣き叫んだ。それでも悲しみは消えてくれなかったけど。

 彼は私の隣人さん。だからきっと、荒れていた時の物音も叫び声も全部筒抜けだったたろうな。今思うと恥ずかしい。けど、全部しーくんが悪いんだからね。反省して。

「よかったら飴、舐める?」

「貰う」

 私の声が相当酷かったからだろうな。彼はゴミを捨てたばかりの私にのど飴を一つ差し出した。男性には不釣り合いな「いちごみるく」の甘い甘い飴。三十代の大人がそんな甘い飴を持ってることがおかしくて、思わず笑みが零れる。

 口に放り込んだ「いちごみるく」はやっぱり甘ったるくて。少し舐めれば、歯が当たっただけでほろりとその形を崩す。割れた後に広がるミルクの味が甘味を少しマイルドなものにしてくれた。

「今日はしてないんだね」

 不意に彼がなんてこともないように言うから、一瞬なんのことかわからなかった。彼が言っていたのはいつも右薬指にしていた銀色の指輪のこと。言われてみれば確かに、右薬指にいつもあった違和感がない。

 あれ、私どこにしまったっけ。前日に派手に暴れたものだから指輪の行方も覚えていない。しーくんから貰った大切な指輪なのに、どこにやったのか心当たりがないんだ。

「もしかしたら……」

 言葉を紡ぐのも億劫で、震える指先でゴミ袋を示す。さすがに家庭ゴミの中に入れてない。昨晩大量に壊した雑貨類の袋の方が可能性が高いかな。なんて思ったちょうどその時、ゴミ収集車の音が聞こえてきた。

 彼の反応は早かった。最後にゴミを捨てたのは私だから、目当てのゴミ袋は上の方に乗っかってる。だから、ゴミ袋を覆うネットを退かして、ゴミ収集車が来る前に目当てのゴミ袋を引っ張り出してくれたんだ。

「捨てちゃダメだろ」

「もう要らないから」

「……せめて売ろうか。捨てるのは勿体ない。高価なものだからね」

 しーくんに対して怒りが止まらなくて、指輪も一緒に雑貨類のゴミとしてまとめていたみたい。なんて知ったら怒るかな。けどしーくんには怒る権利なんてないからね。全部しーくんが悪いんだ。

 けど確かに、貰った指輪を捨てるのはちょっと無かったかも。しーくんがいなくなってからは捨てたくなるくらい嫌な指輪だけど、どうせ捨てるなら売って私のために使った方がいい。きっと、何十万もしたんだろうから。

 安心してください。しーくんから貰った指輪は売りました。それまで右薬指に大切につけていた指輪は、なんと今回の結婚資金になりました。捨てたんじゃないから文句なんて言ったらダメだよ。



 しーくんはある日、何も言わずにいなくなったよね。別れた日は部屋で荒れて声が枯れた。彼に指輪を見つけてもらった後もそれは変わらなくて。さすがに暴れなくはなったけど、毎日のように大声で泣き叫んでた。

 きっと何も無かったら部屋に閉じこもってだと思う。部屋のどこにもしーくんとの思い出が溢れてて、それが辛かった。

 台所で私が料理してると決まって横からつまみ食いしてたしーくん。寝室には、しーくんが泊まりに来る度に一緒に寝たセミダブルベッドがある。よく一緒にソファに腰かけてテレビを観ていたね。そんな小さな思い出の積み重ねが辛くて、思い出す度に泣いちゃうの。

 それでも仕事には行った。どんなに辛くて悲しくても、死人みたいな顔で仕事に行って、帰ってきたらしーくんとの思い出に泣き叫ぶ。私が廃人にならなかったのは、彼がいたからだ。

「ちょっといいか」

 私が泣き叫んでから一時間としないうちに鳴るチャイム。応じれば決まって彼がいて、その手には料理の入ったタッパーをいくつも抱えてる。泣き顔の私を見るなりそのタッパーを渡してこう言うの。

「夕飯、作りすぎた。食べるの手伝ってくれ」

 新しい料理に挑戦したけど、レシピ通り二人前で作っちゃうから食べきれない。作り置き用に作ったけど予想してたより多く出来て困ってる。美味しくできたからよかったらどうぞ。

 言い訳なんて数え切れないほど。変わらないのは、彼が私に毎日のように夕飯を持ってきてくれたこと。彼の夕飯を食べるうちに少しずつ心の傷が落ち着いてきて、泣き叫ばなくなった。そうなるまでに何ヶ月かかかったけどね。

 私が泣き叫ばなくなると、休日を見計らって彼が家にやってきたの。今度は夜じゃない、夕飯のおすそ分けじゃない。何の用で来たのかと言うと――。

「パフェ食いたいけど一人じゃ気まずい。よかったら付き合ってくれ」

 今思うと友達とか誘えたよなって感じ。けどその時は、夕飯をおすそ分けしてくれたのもあったから「いいよ、なんなら奢るよ」て即答したんだ。しーくんと会わなくなってから初めて、仕事のない休日に外へ出た。

 何ヶ月かぶりに吸った休日の外の空気は澄んでいて、ちょっと冷たいけど気持ちよくて。呼吸するだけで心が洗われるみたい。久しぶりにゆっくりと眺めた青空は、私の心に残っていたもやもやをキレイさっぱり洗い流してくれた。

「今度はこの公園に行きたい」

「ここの水族館、楽しそうだろ?」

 パフェを食べに行ったのをきっかけに、彼は毎週のように私をどこかに連れ出してくれるようになった。もちろん「一人じゃ気まずいから、よかったら付き合ってくれ」の言葉も忘れずに。

 彼が狭い部屋の中から連れ出してくれるようになってようやく、笑えるようになったんだ。しーくんを思い出して泣くこともなくなって、家にいても涙で目が潤むなんてことなくなって。

 もちろん、しーくんを忘れたわけじゃないよ。だけど、しーくんのことを思い出して泣いていてもつまんないなって。ただ思い出して泣いて過ごすだけじゃきっと、しーくんも喜ばないよなって。そう思えるようになった。

 笑えるようになったのはしーくんと最後に会ってから一年くらい経ってから。しーくんがいなくなってボロボロになった心を繕ってくれたのは彼だ。

 大荒れしてからちょうど一年後の時。彼は私を展望台に連れて行ってくれた。綺麗な夜景を前にして、私の手を掴んで笑いかけて言ってくれたの。

「よかったら、僕と付き合いませんか?」

 答えなんて決まってる。けどなかなか口に出せなくて。困った私は、彼に抱きついて頬にキスをした。言葉はなくても気持ちは伝わるでしょ、これなら。

 浮気じゃないよ。しーくんと会わなくなってから一年が経ってたから。それに、最初に私との関係を終わらせたのはしーくんだ。私だって幸せになる権利はある。



 ねぇ、しーくん。最後に会った時のこと覚えてるかな。最後に会ったのはしーくんの部屋だったね。私の右薬指にはしーくんのくれた指輪があって、しーくんはそんな私を潤んだ瞳で見つめているんだ。

「俺、日菜にはウエディングドレスを着てほしい」

「なにそれ」

「日菜のウエディングドレス姿見たい。ダメ?」

「予算次第ね」

「冷たいなー、もう」

 その日、結婚式をするかしないかって話になった。私は式に興味なんてなかったけど、しーくんはどうしてか興味深々。加えて私のドレス姿が見たいなんて言い出してさ。幸せいっぱいだったよね。

 平凡な夢を見た。テレビや雑誌で目にする白いウエディングドレス。教会で私と一緒に歩くしーくんのタキシード姿。その全てが目を閉じればすぐに思い浮かぶ。それもそうだよね。右薬指の指輪がその証なんだもん。

 夢は叶うって信じてた。そう遠くない未来、しーくんと一緒に生活するんだと思ってた。私の残りの人生全てをしーくんにあげる。そんな約束を交わしたはずだった。

 あの日、私がしーくんの家に泊まりに行った。朝になったらしーくんが車で私を送ってくれる。しーくんの家に泊まる時はそれがお約束。家まで送ってもらった時は、それが最後の会話になるなんて夢にも思わなかった。

「じゃあ、帰ったら連絡するわ」

「うん」

「愛してるよ、日菜」

 別れる直前、しーくんは私を力いっぱい抱きしめる。「愛してる」の言葉もその温もりも抱きしめる強さも、何もかもがいつも通り。だから、数時間としないうちに「ただいま、家に着いたよ」て連絡が来るんだと思ってた。

 でも結局、帰宅の連絡は来なかった。何度も何度もスマホを再起動させたりアプリの更新情報を確認したりしたけど、しーくんからの通知はいつまで経っても来ない。代わりに、夜遅くになってしーくんのお母さんから連絡が来た。

「日菜ちゃん。落ち着いて聞いてほしいの。実は……」

 しーくん。お母様はね、最後の最後まで私のことを心配してくださった。一番泣きたいのはお母様のはずなのにね。必死に涙をこらえて、何が起きたのか話してくれた。お母様は何も悪いことしてないのに「ごめんね」って震えた声で何度も何度も言いながら。

 しーくんがいなくなってから、たくさん考えた。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこと。数え切れないほどの思い出は全部を無かったことになんか出来ない。それだけの時間を一緒に過ごしてきたから。

 もう戻らない。しーくんはある日突然、私の前からいなくなった。一緒に暮らすことも二人で夢見た結婚式も永遠に叶わない。残ったのは、振り返るには苦しい二人の思い出ばかり。

「日菜。僕と結婚してください」

 彼のプロポーズはしーくんよりスマートだった。決めゼリフで噛むことなく、オシャレなレストランでしてくれた。だけどね、すぐに「はい」とは言えなかったの。しーくんのことを思い出したから。

 しーくんは私の右薬指に指輪をくれた。次は左薬指だって約束して、お互いの両親に挨拶までして。あの日だってしーくんの家で朝から打ち合わせをしてたんだ。両家顔合わせで失敗しないためにどうしようって話してたんだ。

「……返事は、ひとつ、話を聞いてもらってからでもいいかな?」

「もちろん。なんでも聞くよ」

 彼は私が即答しないことを少しも責めなかった。穏やかに微笑んで私を見つめる。しーくんがいなくなってから三年が経とうとしていた。三年経っても忘れられないんだ、しーくんのこと。

 私がする話が何か、もうわかるよね。予想してる通りだよ。彼に、しーくんのことを話そうとしたの。私が抱いてる思いも、最初の頃毎日泣き叫んでいた理由も、全てを彼に知ってほしくて。

「婚約者がいたの。お互いの家に挨拶して、次は両家顔合わせって時だった。打ち合わせして、私を家まで送ってくれて、その後あの人も自分の家に帰るの。いつもは帰ったら連絡が来るのに、その日は連絡が来なかった」

「あの指輪の送り主、だよね」

 そうだ、彼は知ってる。私が捨てようとしたしーくんからの指輪をゴミ袋から見つけてくれたのは彼だった。それまでただの隣人だった彼が今、親しい人として目の前に座ってる。それがどれほど凄いことなのか、しーくんがいなくなった今は痛いほどよくわかる。

「私を送った帰りにね。交通事故に遭ったんだって。運悪くトラックに突っ込まれたんだって。即死だったって」

「そうだったんだ……」

「大好きなの。申し出を今すぐ受けたいくらい。だけど、素直に喜べない。貴方も、しーくんみたいにある日突然いなくなったら、私――」

 即死だったのがせめてもの救い。そう言われた。死んだしーくんの体は原型をとどめてなかったんだって。最初に死体を見たお母様はしーくんだってすぐには気付けなくて、気付いたら気付いたで涙が止まらなかったらしい。

 私は怖いんだ。愛する人を失うのが怖い。一度、しーくんを失っているからこそ、余計に怖い。もう愛する人を失いたくない。そう思うからこそ、返事を躊躇う。

「なるようにしかならない。大丈夫。まずはそう、信じなきゃ」

 彼は私の手を優しく包み込んで笑いかけた。

 何度この人に励まされただろう。しーくんを失って毎日泣いていた時、夕飯を届けてくれた。気が滅入りそうな時、外に連れ出してくれた。付き合ってからは、しーくん以上に私を大切にしてくれた。

 きっとこの人なら大丈夫。ねぇ、しーくん。しーくんのことは忘れない。だけど……彼と結婚してもいいかな。心の中で問いかけても、しーくんは返事をしてくれなかった。当たり前だけど、どんなに問いかけても返ってくるのは私自身の言葉ばかり。

「……私でいいのなら、これからも、よろしくお願いします」

 掠れ声の返事をクラッカーの音が祝福してくれた。



 明日、結婚式を挙げます。しーくんが夢見てたウエディングドレス、着ることになったよ。白い綺麗なウエディングドレスに身を包んで、教会で式を挙げるの。

 私がしーくん以外と結婚するなんて驚いたでしょ。けど嘘じゃないよ。今度は計画じゃなくて本当に結婚する。だからね、しーくん。明日、空からでいいから結婚式を見ていてくれないかな。

 忘れたわけじゃないんだよ。今でも好きだよ。その気持ちに嘘はない。けど、しーくんはいなくなっちゃったじゃない。会えなくて、話せなくて、予定してた結婚も無くなって。そんな時に私を支えてくれたのが彼なんだ。

 ごめんね。私、しーくんより好きな人が出来ちゃった。しーくんはまだ、私のことを好きなままなのかな。今の私を見たらなんて言うんだろう。きっと優しいしーくんのことだから「日菜が笑ってくれればそれでいい」とか言うのかな。

 安心して。今度は幸せになるよ。しーくんの思い出を抱えたままだけど、彼と素敵な家庭を築こうと思うの。許して、くれるよね。

 今度お墓参りに行くね。四年も会いに行けなかった弱い私を許してください。しーくんのことを受け入れるのに時間がかかったの。今ならきっと、お墓を前にしても笑顔で話せると思うから。

 ゲームばっかりしちゃダメだよ。いつかそっちに行く日が来るだろうから、それまで待っててね。あの日、しーくんを愛した日々に嘘偽りはない。本当は、叶うなら、四年前にしーくんと結婚したかったな。

 ずっとずっと大好きだったしーくん。今までありがとう。私、もう行かなくちゃ。いい加減にしーくんから卒業しなくちゃ。最後まで手元に残してた写真とも明日でお別れだ。

「日菜。ちょっと来てよ。流れ星だ」

 彼が私を呼んでる。行かなくちゃ。しーくん、結婚出来なくてごめんね。裏切ってごめんね。一緒に過ごした日々はこれからも忘れないよ。

 彼に言われて窓の外を見たら、流れ星がいくつも空を駆けている。なんでかな。流れ星はしーくんからの結婚祝いのように思えた。どうかしーくんも、あっちで幸せになりますように。

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