始まった杞憂

吟野慶隆

始まった杞憂

「もし、空が落ちてきたら、おれなんか、たちまちのうちに下敷きになって、死んでしまうだろう。それが心配なんだ。最近は、ろくに夜も眠れないし、ろくに食べ物も喉を通らない」

 幼稚園時代からの付き合いであり、社会人となった今もなお、親友である賓野が、そんなことを言い出したので、僥野は思わず、「はあ?」と言いそうになった。

「待ってくれ。お前が、『はあ?』と思うのもわかる」口ではなく、顔に出てしまっていたらしい。「だが、からかっているわけじゃない。本当なんだ。本当に、空が落ちてきやしないか、っていうのが心配なんだ」

 二人は、僥野が暮らしている実家の近くにある公園の、隅に設置されている休憩所にいた。休憩所、といっても、たいしたエリアではなく、四角い木製のテーブルが一つと、それを挟むようにして細長いベンチが二つあるだけの、簡素な場所だ。

「空が落ちてきやしないか、ねえ……」

 僥野は思わず、自分の頭上に視線を遣った。今日は快晴で、雲一つない、鮮やかに青い空が広がっている。

 顔を元の向きに戻した。「どうして、そんな心配を抱くようになったんだ?」

「うーん……」賓野は腕を組んだ。「自分でも、はっきりとはわからないんだが……心当たりがあるとすれば、たぶん──」

 それからしばらくの間、僥野は、賓野との会話を続け、彼の抱えている心配を解消しよう、と試みた。

 数分後、賓野は、「ありがとよ」と言って、ふうー、と溜め息を吐いた。「たしかに、お前の言うとおりだ。なんだか、安心してきた」ふふ、と笑顔になった。「そうだよな。空が落ちてくるなんて、ありえない」

「釈然としてくれたならよかった」僥野は、にこ、と破顔した。

 次の瞬間、どおおおおん、という音が、あたりに響き渡った。彼は驚いて、それの聞こえてきたほうに視線を向けた。

 そこは、公園に設置されているジャングルジムだった。普段は、直方体の形をしているが、今や、ぺちゃんこにひしゃげてしまっている。

 その上には、謎の、大きな塊が乗っかっていた。色は真っ青で、表面は凸凹している。それが、遊具を押し潰しているのだ。

「……何、あれは」

 賓野が、ぼそり、と呟いた。独り言なのかこちらへの問いかけなのかはわからないが、後者だったところで、答えられやしない。

 僥野は、ふと、上空に視線を遣った。

 真っ青な空の一部、ちょうど、ジャングルジムの真上にあたるくらいの所に、図形が浮かんでいた。歪んだ円のような形をしており、真っ黒に塗り潰されている。微動だにせず、その場に留まっていた。どう見ても、雲や飛行物の類いではない。

「……まさか」賓野は、ぼそり、と呟いた。「空が、落ちてきたんじゃあ……」

 次の瞬間、ぴしっ、という、何かが罅割れるかのような音が、頭上から聞こえてきた。その後、ぴし、ぴしぴし、ぴしぴしぴしぴし、と、鳴り始めた。同時に、空に、ジグザグな黒い線が、例の歪んだ円を中心として、放射状に伸び始めた。

 さらには、あちこちの、線で囲まれた箇所が、べきべき、がらがら、などという音を轟かせて、空から、ぽろり、と外れ出した。それらは、巨大な塊となって、地面めがけて落ちていった。

「やばい!」僥野はそう叫ぶと、がた、と立ち上がった。「逃げるぞ!」

 彼はその後、休憩所を離れると、公園の出入り口めがけて、全力疾走し始めた。その間にも、空の破片は、次々と降ってきていた。池に落下して、ぼちゃあん、と水飛沫を立てたり、駐車場に落下して、どぐしゃあん、と自動車を押し潰したり、レジャーシートを敷いて昼寝をしている家族連れの所に落下して、ぐちゃあん、と圧死させたりしていた。

「おい、僥野!」後ろから、賓野が、こちらを追いかけ、走ってきていた。「逃げるって言ったって、当てはあるのか?!」

「ある!」半ば怒鳴るようにして返事をした。「おれの実家の庭には、地下シェルターが設置されている! 昔、冷戦のころ、ひい爺さんが設置したやつでね! 核兵器攻撃にも耐えられるほどの頑丈さだ! とりあえず、そこに避難しよう!

 賓野、せっかくだから、お前も一緒に来い! 母さんと父さんは、今日、旅行で留守だから、遠慮することはない!」

「ありがとよ!」

 その後、二人は公園を出ると、僥野の実家目指して全力疾走した。目的地には、ものの数分で到着することができた。

 僥野は、門をくぐるとすぐ、庭へ向かった。地下シェルターへの入り口が設置されている地点に着くと、扉を、がちゃり、と開けた。

 その間にも、空の破片は次々と降り注いできていた。右方から、どんがらがっしゃあん、という音がしたので、視線を遣ると、家のリビングに、大きな青い塊が鎮座しているのが見えた。屋根にぶつかり、そのままそれを突き破って落ちてきたに違いなかった。

「賓野! 先に入れ!」

「わかった!」

 賓野はそう返事をすると、入り口に付いている梯子を、かんかんかん、と下り始めた。直後、後を追うようにして、僥野も中に入り、急いで蓋を閉めた。

「真っ暗だぞ!」賓野が叫んだ。

「落ち着け! ちゃんと照明はある」

 僥野はそう言うと、壁を手探った。十秒としないうちに、照明のスイッチを見つけることができた。すぐさま、かちり、と押す。

 マンションの一室、といった雰囲気の部屋だった。天井や壁には白い壁紙が、床にはフローリングが貼られている。二段ベッドやソファー、キッチンやシャワールームなんかもあった。言われなければ、とても地下シェルター内だとは思わないだろう。

「へえー……すごいなあ……」賓野は、きょろきょろ、とあたりを見回していた。

 空の崩落は、まだ続いているらしい。断続的に、どおん、というような大きな音が轟いては、ずしん、と部屋じゅうが揺れた。地下にあるせいで、振動がダイレクトに伝わってきてしまっているらしい。

「ん……?」賓野は、視線を天井に向けたところで、眉を顰めた。「あれは……」

 僥野もつられて、そちらに視線を遣った。

 天井のあちこちを、ジグザグな罅が走っていた。ところどころ、壁紙が捲れ、コンクリートが剥き出しになっている。ずしん、と、振動が部屋に伝わるたびに、ぱらぱらぱら、と、何かしらの粉末が落ちてきた。

「おいおい……」賓野は不安そうな表情になった。「避難させてもらっている身で、こんなことを言うのもなんだが……大丈夫なのか、このシェルター? 天井、崩れないだろうな?」

「何を言うかと思えば……」僥野は、はっはっはっ、と笑った。「大丈夫に決まっているさ。何せ、核兵器攻撃にも耐えられる、って触れ込みだったらしいからな。たしかに、見た限りではかなり老朽化しているが、このくらい、なんともないはずだ」

「そうか。それならいいんだ」そう言って賓野も、はっはっはっ、と笑った。

 直後、どおおおおおおん、と、ひときわ大きい音が鼓膜を劈いた。空から巨大な破片が落ちてきて、付近の地面に衝突したに違いなかった。

 次の瞬間、どがらがらがら、と天井が崩落してきて、僥野たちはあっという間に圧死した。


   〈了〉

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