第29話


 それから15分後。

 アンマンと東京の簡易的な国際電話会議は終了しました。

 菅官房長官は、両目を指で揉みました。ヨルダンの支援はいい。それは国会も承認するだろう。しかしもう一つのオプションはない。それはリスクが大きすぎる、と彼は思います。そんなスタンド・プレーがどこかで露呈したら、我が国の国際的な信頼が揺らぐ可能性もある、と。

 しかし、

「スーさん」

 と、立ち上がって窓の外を見る総理の背中から声がしました。


 首相官邸の官房長官の執務室の窓からは、都心の夜の風景が見えました。アンマンのうらぶれた街並みとは全く異なる、スーパーモダンで洗練された国際都市の眺めでした。

「俺は、やろうと思う」

 高揚感のない声で、総理が言います。

「しかし総理、」と即座に官房長官は応えました。

「いや、スーさんの心配はわかる。でも、いま日本に出来ることは何だ? いつものように金をばら撒いた後、おためごかしに政府専用機で乗りつけて、ターバンを巻いた連中と握手する様子をプレスに撮らせることか? それとも、海自の若い奴らに命令して、命を落とすかもしれない護衛活動に出発させることか? そのどちらもやるべきだと信じられれば、予断なく実施しよう。でも今、このタイミングでしかできないことが、俺にしかできないことがあるんだよ。リスクを抱えても、誰かがやらないといけないのなら。欧米じゃない、日本がそれをやる価値はあると、俺は信じるよ」

 静かに、言葉を噛みしめながら、総理が言いました。振り向いた総理の顔は、やや青ざめていました。緊張とプレッシャーがそうさせていることに、彼の女房役を自認する官房長官はすぐに気づきます。

 損得計算とリスク管理能力を以って、この内閣を守るのが自分の責任とするなら、夢のようなヴィジョンを持ち、周りの罵詈雑言を払いのけながらもそこに邁進するのが、このリーダーの役目なのだ、と今更ながら気づくのです。

「分かりました総理。とにかく時間がありません。限られた時間内に準備できることに、最善を尽くしましょう」



 それから約30時間の後。

 東ヨーロッパ夏時間を採用している、シリア。そのなかでイスラミック・ステートの拠点のひとつであるラッカでは4月28日の19時を回ったところでした。同じタイムゾーンにいるヨルダンの首都アンマンの、馬頭の腕時計も同時刻を指していました。

 日本の東京、永田町では翌29日の午前1時。アメリカ合衆国のワシントンD.C.ではちょうど正午。そして、南アフリカのケープタウンではシリアより1時間早い、18時を迎えたところです。


 物語のクライマックスは、この5ヶ所で同時に進行します。

 まずは登場人物たちのうち、最も南にいる男から登場させましょう。

 アブドゥーラ(アリ)・マダブ・レオは、南アフリカ・ケープタウンの自宅で、ヘッドセットと呼ばれるマイクとヘッドホンのついたデバイスを頭に装着し、左手首に巻いたアップルウォッチから秘密通信アプリを立ち上げ、通話開始のボタンをタップしました。

 時間はラッカでの19時ちょうど。

 アナログの電話回線ならいつくもの基地局からの接続音がするところですが、このデジタルのインターネット回線は、隣の部屋に内線電話をかける感覚で、アフリカ大陸を縦に飛び越え、アラビア半島の付け根の砂漠の街にコネクトしました。

 ヘッドセットから呼び出し音が鳴る中、気持ちがどんどん冷静になってゆく自分を、彼は感じていました。世界のネジを正しい方向に回すのは、情熱などではない。怜悧な理性だと、彼は知っているからです。

 そして、呼び出し音が途切れ、「はい」という男の声が聞こえました。


 その5分前。

 シリアのラッカにある毛大飯店の奥の間に、イスラミック・ステートの若いカリフであるバグデリーダ・イブン・サウードがやってきました。毛は彼を店の玄関先で迎えると、二階の突き当たりにある『奥の間』に通しました。中国文化の象徴である赤と金に彩られた小部屋に、ひとつの長テーブルが置かれていました。テーブルの奥、左右の椅子にはアシムとカリム、双子の博士が向かい合って座っていました。双子たちは足腰の動きが悪いので、常に早めの行動をとるのです。

 バグデリーダにしたところで、アリとの電話会議は必ず、先方から指定した時間通りに電話がかかってくるため、定刻数分前には会議の場所にいるようにしています。

 カリフは双子の長老に挨拶をしてから、長テーブルの一番奥の椅子に腰掛けました。そこへ毛と若いアラブ人がやってきて、砂糖のたっぷり入った紅茶を注いでゆきました。バグデリーダは軽くうなずき、謝意を伝えます。そして部外者が部屋を出、三人だけが残りました。

 あと1分で定刻の19時。

 カリフも双子の博士も、何も言葉を交わしませんでした。


 昼間、部族の長老たちと行った会議は紛糾しました。アリを一方的に責め、すべての責任を負わせて排除を要求する声が大多数でした。しかしバグデリーダは、アリの知性とネットワークこそが、この砂漠の武闘派集団を世界の大国と対等に渡り合わせる鍵だと知っていました。

 アリはそれに気付いているからこそ居丈高に振る舞い、部族長達をないがしろにするのです。ですが、部族長達はこのイスラミック・ステートの実際の運営を担っているのです。彼らの協力があるからこそ、自分たちは単なるテロリズムの実行部隊から、国家建設に進化できたのです。

 バグデリーダはこの部屋に来るまで、アリにどういう態度で臨むべきか、決めかねていました。ですが、こうして赤と金の異国情緒あふれる小部屋でお茶を飲んでいると、自然と自分の進むべき道が見えてくるようでした。すべての関係者の望みを耳にしつつ、常に未来を見据えて正しい判断を下す。その為に自分がここに存在するのだ、と気づきました。心のなかでバグデリーダは、神に感謝を捧げました。

 そして、19時ちょうど。

 いつも通り時間に極めて正確に、テーブルに置いた彼のスマートフォンが、鳴動し始めました。バグデリーダはスピーカーフォンの通話ボタンをタップします。そして一言、

「はい」

 と答えました。


「俺だ」と、相手であるアリは答えます。

「さて、何から話そうか?」

「建設的な話をしようじゃないか」と、アリは切り出してきました。幼い頃から親交のあったこの男はいつもこうして、どんなピンチにあってもそらした胸をへこませないのです。

「建設的?」

「捕虜収容所の件はこちらのネットワークからも状況が確認できた。非常に残念だ。そしてお前の大臣たちが俺に腹を立てているのも昨日のメールで承知した。

 こちらにはこちらの言い分があるが、そんな水の掛け合いは、俺もお前も望んでいない。だから次に我々は何をすべきか、について話し合おうと言っているのだ」

 アリが切って落とした幕を、バグデリーダは冷静に評価しました。アリはある程度自分の責任を認めている。ここはこれ以上、話をこじらせても仕方がない、と彼は思いました。

「お前のいう水の掛け合いは、決して無駄なことではない。起こってしまった出来事を正確に把握し、再発を防ぐために何が問題だったのかを分析する、という意味である限り。

 だが、まあいいだろう。時間はある。まずはお前の言う『建設的な話』を聞こうじゃないか」

 バグデリーダの前で、双子が示し合わせたようにうなずき合いました。その言葉に、世界のどこにいるか分からないこの国のブレーンは長い口上を述べ始めました。

「この襲撃によって失ったのは、我々の資金源ではない。国際社会における、我々の存在感プレゼンスだ。異国人の人質が生み出せる金額など、我々が生み出している様々なビジネスから見れば、大した金額ではない。それはお前も承知しているはずだ。それより重要なのは、その人質を通じて行われていた様々なルートでの交渉事と、インターネットにおけるインパクトある映像による影響力だ。

 表に出ない様々な交渉事を通じて我々は、世界各国の態度や腹の中を見てきた。我々の存在を認める者たちと、認めない者達を区別できるようになってきた。

 そしてインターネットを通じて放映されたいくつかの映像は我々自身のプロパガンダとして、世界の心ある者たちの意識革命を促してきた。あの映像を見て、我が国に参加してきた者が多いこともお前は知っているはずだ。

 他にも収容所は残っているが、我々の人質ビジネスにおいて重要な部分のある程度は、あの片腕の所長とアイルランド人が請け負っていたのだ。

 だから私は、この一晩、次の作戦について考えていた」


「待ちなさい、息子よ」

 まくし立てるアリに対し、はじめて双子の片割れ、アシムが口を開きました。「お前さんは何か勘違いをしていないか?」

「大いなる勘違いを、な」

 もう片割れのカリムが口をそろえます。

「勘違い?」回線の向こうでアリが不満げな声をあげます。

「我々の目的を、お前さんは履き違えておるのではないか?」

「お前の口ぶりを聞くとまるで、会社を動かしておる社長のようだよ」

 双子の博士は、常にそうであるように、互いに言葉を継ぎながら息を合わせて話します。

「我々の目的は、神の教えに従った国を作る、そのことだよ」

「でも息子よ、お前は世界に我々の国を認めさせることばかり口にする」

「世界が認めようと認めまいと、そんなことはどうでも良い。我々の国が自らの足で立ち上がることが大切だ」

 アシムとカリムの声は渾然一体として、もはやふたりの声を聞き分けることは誰にもできないのでした。


 その15分前。

 ランチタイムのアメリカ合衆国バージニア州ラングレー。

 中央情報局CIA本部の6階にある作戦指揮室シチュエーション・ルーム。暗い部屋のなかに、チュージョ長官をはじめとして、中東課長のアルベルト、主席分析官のキャサリンとマーカスが詰めていました。オープンになっているオンライン回線の向こうには、デビスモンサン空軍基地の無人偵察ドローンのオペレーター、そしてアメリカ国防総省の作戦士官が揃っています。

 彼らはシリアのラッカ上空2,000フィート(約600メートル)を音もなく飛翔する、無人航空機MQ-9リーパーから送られてくるライブ映像を見ていました。もちろん注視するのは視野の中心に存在する毛大飯店のエントランスに入ってゆく客の姿です。


 ほぼ直上から撮影された映像は、その場でアメリカ空軍の誇るスーパーコンピュータで立体解析されます。眼窩の位置、窪み、鼻の形、高さ、頬骨の位置関係などいくつかの座標をもとに、平面写真の人物との照合がリアルタイムで実施されてゆきます。複数あるモニタースクリーンのうち一枚は航空機からのライブ映像ですが、もう一枚はその解析結果を随時表示してゆきます。


 店に入ってゆく人物の数は多くありませんでした。彼らは知る由もありませんでしたが、毛が今日は店を閉店とし、カリフとその連れ以外の来店を断っていたからです。

 だからクルマで送られてきたふたりの老人は、解析対象の写真こそ存在しないまでも、過日の音声通話の中の『双子』だろうと誰もが想像しました。顔面解析アプリはそのふたりの姿を解析し、90%以上の確率でふたりを双子だとレポートしました。

 その双子の老人がおぼつかない足取りで店内に入った10分後、汚れた四輪駆動車が店の前に駐車しました。後部座席から、赤いチェックのカフィーヤ(ターバン)を巻いた、野戦服姿の男が現れました。その姿は、その映像を見る全てのアメリカ人にとって、初めてライブで見るイスラミック・ステートのカリフ、バグデリーダ・イブン・サウードその人でした。が、コンピュータの解析が出るまで、誰も口を開きません。そして一拍の後、解析画面が赤文字でその名を表示し、照合度合いを96%以上とした時、CIAのマーカスが全員を代表して言いました。

「ビンゴ。死のレストランへ、ようこそ」


 その四分後。

 既に深夜1時。寝静まった日本の東京。永田町の首相官邸の総理執務室に、4人の男性が集まっていました。首相である安倍、官房長官の菅、そしてふたりの筆頭秘書2名。

 彼らはその部屋に設えてある応接テーブルに座っています。その中心には一台のノートパソコンが置かれ、そこからケーブルで繋がった細いマイクロフォンが自立していました。そしてPCの画面は壁の液晶モニターに複製されています。

 午前1時5分。

 約束通りの時間にPCの暗号化通信アプリに、着信がありました。安倍の秘書官が、マウスを操作してその着信をオンにしました。

「こんばんは、総理。そして官房長官」

 と、ヨルダンにいる馬頭の声が聞こえます。そして一拍遅れて、馬頭の顔がモニターに映し出されました。ヨルダンの日本大使館の会議室に置かれたPCからの映像は、彼の顔を下からややあおりがちに映しているため、普段より馬頭が太って見えました。

「よく聞こえているよ」総理が答えます。

「了解です。こちらでは夜が始まったばかりです。おそらくラッカでも、会議が始まっているでしょう。総理のご準備がよろしければ、早速始めますが、いかがでしょうか?」

 安倍は既にノーネクタイでしたが、ポロシャツの下に汗をかいていました。襟首のボタンをひとつ外そうとして、それがかけられていないことに彼は気づきました。落ち着け、と彼は自分自身を鼓舞します。長州藩士の意地の見せ所だ、と彼は思います。そして今の自分にできる精一杯の声で、

「私は大丈夫だ。やってくれ」

 と答えました。


 ヨルダンの首都アンマンにいる馬頭拓郎は、その総理の声が思いのほか落ち着いていることに安心しました。やはり歴代史上最長期間、日本国の国家元首を務めるだけのことはある、肝の座った男だと感銘を受けました。この試みはうまく行くかもしれない、と彼は思いました。

「では、かけてみます」

 馬頭はそういうと、パソコンとケーブルで接続された自分のスマートフォンの秘密通信アプリの指定された番号に架電する、赤いボタンをタップしました。

 一定のトーン信号が3回鳴り、その後普通の電話のように呼び出し音が聞こえました。

 その音は東京の首相官邸、総理執務室にも同時に聞こえています。

 呼び出し音は、一度、

 二度、

 三度、

 四度、と鳴ります。

 その一回一回が、緊張の筋を絞るように関係者全員に染み込みます。

 5回、

 6回、

 ペシミストの菅官房長官があきらめを感じた瞬間、ガチャリと音がして、回線がつながりました。

「مساء الخير」と、馬頭はアラビア語で挨拶しました。


「博士おふたりこそ、誤解している。俺の目指すところはあなたがたと少しも違わない」

 アリは苛立ちを隠し、つとめて平静な声音で話しました。「ただ、そこに存在しているとあなたがたがいう国という奴は、アメリカの気まぐれでいつ何時破壊されるか分からないものだ。だから俺はそれを守るために戦っているのです」

「待て、アリ」と、バグデリーダが言います。

「俺はお前の神への忠心を一度も疑ったことがない。お前が誰より敬虔な神の僕(しもべ)であることは、俺が一番よく知っている。だがアリよ。お前は常に姿を見せず、この地の砂と風から遠いところにいすぎる。だからお前の考える正義と神への貢献は、ここからだとその行く末がよく見えないのだ」

 アリは、窓の外を見やります。白い邸宅の並ぶ山の斜面。見下ろす向こうには美しい入江が見えました。あの乾いた砂漠は、彼にとってもはや帰るべき場所ではなくなっていたのです。

「お前は俺をそこに呼び出そうというのか?」

「時には顔を合わせ、同じ空気を吸わないと、いつか道のたがえる日が来ると言っているのだ」

 そう、バグデリーダが言った瞬間、その部屋のどこかから、電話の音が鳴り響きました。

 ヘッドセットのイヤフォンからその音を聞いたアリは尋ねます。

「何事だ?」


「何事だ?」と、電話の向こうでアリが言いましたが、部屋にいるバグデリーダも同じ気持ちでした。

「俺にもわからん」バグデリーダは答えます。「どこかで電話が鳴っている」

「電話? どういう意味だ?」

「分からん…」

 そう言いながら辺りを見回すと、どうやら電話は自分のすぐ目の前で鳴っているようなのでした。しかし目の前にはテーブルとお茶しかありません。

 が、そのテーブルに引き出しがついていることをバグデリーダは見つけました。その引き出しを開くと、一台のiPhoneが置かれていました。そのiPhoneに電話の着信があったのです。

 彼はそのスマートフォンを引き出しから取り出すと、テーブルの上に置きました。


 誰かが、自分たちがここに来ることを知っていて、あらかじめ電話をおいたに違いない、と悟りました。あるいはこの電話に出た瞬間、このスマートフォン自体が爆発するのかもしれない。背中に汗がどっとあふれ、胃の縁がギュッと縮みました。目の前の双子はそれに動ずることもなく、黙って座っています。

「電話に出なさい、息子よ」

「不幸の訪れる電話ではないぞ」

 ふたりが口を揃えて言います。

 バグデリーダはその画面の、グリーンの通話ボタンをタップしました。

「こんばんは」

 と、テーブルの電話がいきなりアラビア語で話し出しました。バグデリーダは答えません。すると、電話の向こうの男は勝手に話を始めました。

「こんばんは。私はタクロウ・バトウ。日本国外務省職員です。あなたはバグデリーダ・イブン・サウードさんですね?」

 バグデリーダはなおも言葉を返しませんでした。部屋に奇妙な沈黙が流れます。

「私達の国の同胞、コウゾウ・ヨシムラ氏は無事にこちらで保護しております。ヨーシュ・サドゥ氏は残念でした。あなたがたはご存知ないかもしれないが、彼は西欧文明とあなたがたイスラム世界を中立な立場でつなぐため活動していたのです」

「それは我々の預かり知らぬことだ」と、バグデリーダはわずかに腹を立てて答えました。「彼は神の公正な裁きのもと、この世を去ったのだ」

 電話の向こうの異邦人はしばし、沈黙しました。それから再び、言葉を継ぎます。

「あなたがたにはあなたがたの考え方がある。それは尊重しましょう。私はあなたに贖罪を求めるために電話をしているのではないのです」

 バグデリーダはそれには答えませんでした。

「ところで、英語は話せますか?」

 バグデリーダはそれにも答えませんでした。実を言えば彼はケンブリッジ仕込みのクィーンズ・イングリッシュを流暢に操れたのですが、異国人にそんな情報を与える必要はありません。そして馬頭もバグデリーダと同じ大学の卒業生でした。年も近いふたりは、学舎の中ですれ違うこともあったのですが、運命はその時も今も、ふたりにそれを教えはしなかったのです。


 返事に答えないことは、折り込み済みでした。

 馬頭は自分のデスクのパソコンのマイクに向かって、目を閉じて話しかけました。

「我が日本国の首相がここであなたと話をするために同席しています。安倍首相は残念ながらアラビア語が出来ません。よってあなたが英語が話せることを期待して、英語で登場いただきます」

 馬頭のその紹介に続いて、東京の安部が話を継ぎました。

「こんばんは。日本国総理大臣の安部です。イスラミック・ステートのリーダーたるあなたとこうして直接の会話ができることに驚いています。インターネットの脅威ですな。しかしあなたは私とそんな世間話をしたくはないでしょうから、早速用件に入ります。

 先ほど我が国の者が申し上げたように、我々は同胞が貴国に処刑されたことをまだ受け入れられません。ですがそれを乗り越えて我が国は、帰国と西欧諸国の間に立ち、これ以上の流血を避けるための交渉人になることを、決意しました。

 貴国にその意思があるのなら、まずはシリア政府に、貴国への攻撃を控えるよう要請することができます。そしてその後ろ盾たるアメリカ合衆国にも、我々は交渉をする用意があります」

 そこで安倍は言葉を切りました。


 全ては馬頭の描いたシナリオです。

 この施設はおそらくそう遠くない将来、米軍の攻撃を受けるでしょう。あるいは一発のミサイルで木っ端微塵に吹き飛ぶかもしれないし、突入部隊の急襲を受け、彼らは捕縛されるかもしれません。

 ですがそれまでの間、この国のリーダーと直接話をするチャンスがあることに馬頭は気づいたのです。あのヨルダン郊外の緑の畑に囲まれた部族の長、ムハマンドの配下の男がこのレストランの給仕の仕事をしています。ムハマンドを通じ、その男にスマートフォンを購入させ、この秘密通話アプリをインストールさせて、この部屋のテーブルの引き出しにしまわせました。わずか24時間のなか、超特急の仕事でした。

 この国のリーダーと、我が国のリーダーが言葉を交わす。西欧諸国の誰もがなしえなかったコミュニケーションを行い、そこに意思疎通の可能性があるのかを探る。大胆にして核心を突く発想でした。


「…お前たちは、」

 長い沈黙の果てに、安倍の執務室のスピーカーから、イギリス訛りの英語が返ってきました。「何も、知らない」

 安部がその言葉にたたみかけます。「知らなくても、行動することが出来る。知らないからこそ、過去の因縁に囚われずに、未来を思える。私はそう感じています」

「虚言だ。お前に何が出来るというのだ? お前に何も出来はしない。お前のような異教徒に、我々の行おうとしている神のわざは、少しも理解しえないものだ」

「それを拒絶してしまったら、あらゆる文明は未来永劫分かり合えない」

 安倍の背中は、汗でびっしょり濡れていました。しかしここで引き下がるわけには行かない、何か、形のあるものをこの男から引き出すまで、諦めるわけには行かないのだ、と彼は強く思うのです。

「私たちと話し合ってみませんか? 貴国の人民に安らかな生活を与えることができるのは、あなたの決断ひとつなのです」


「デビス・オペレート。準備はどうか?」

「こちらデビス・オペレート。準備完了。繰り返す、準備完了」

 その頃、CIAのシチュエーション・ルームでは、国防総省とデビスモンサン空軍基地で交わされるコミュニケーションを聞くこと以外にできることがありませんでした。

 既に作戦は発動されました。

 ターゲットの存在が確認されて、所定の建築物は完全にロック・オンされています。作戦の指揮管理は国防総省の士官の手に委ねられ、法に則った手順プロシージャに従って、正しく攻撃準備が進んでゆきます。作戦では、ターゲットが建物に完全に入館したのを確認してから5分後に、精密爆撃による狙撃攻撃が実施される予定です。

 壁のモニタにはその実行時刻までのカウントダウンが表示されました。60秒前からカウントし、想像以上にのろのろと、その数値は減少してゆきます。マーカスは生唾を飲み込み、キャサリンは親指の甘皮を引っかいていました。

 数字が一桁台になると、国防総省の作戦士官が

「最終ロック解除。発射準備」

 と告げました。

「最終ロック解除確認。発射準備よし」と、ドローンオペレーターは答えます。

 そしてカウントダウンの数値がゼロになりました。

 デビスモンサン空軍基地のドローンオペレーターは、右手に握った操縦桿のトリガーを引き絞りました。


 同時刻。

 シリア、ラッカ上空600メートルを対地速度毎時300キロで飛翔しているMQ-9リーパー無人航空機。

 その主翼の下に架装されている2機のミサイルのうちのひとつに、電気信号が送られました。その信号は細いケーブルを伝って、瞬時にミサイルのロケット・モーターの発火信管に着信しました。が、そこで起こるべきロケットの点火がなされませんでした。点火線に着火すべき装置が動きを止めていたのです。

 デビスモンサン空軍基地のドローンオペレーターは焦りました。二度、三度と、トリガーを引き絞ります。が、彼の意図したように、ロケットミサイルが発射されないのです。国防総省の作戦士官が何かを叫んでいますが、焦った彼にはその声も届きません。

 ドローンオペレーターには知る由もありませんでした。

 そのMQ-9リーパー無人航空機の胴体の上に、ひとりの人が立っておられるなどということは。

 時速600キロで飛翔するその航空機の上に立ちながら、その人の白いシャワールは長閑のどかにしかはためきません。鳥の模様の入った青いシャツと白く伸びた髭。その方は目を細めて、優雅にそこに立っておられたのです。両手を胸の前で組んでいましたが、右手を前に出し、人差し指で足元の機体の脇を指差していました。その指の向かう先に、主翼下のパイロンに懸架されたロケット・ミサイルが発射されずに止まっていたのです。


「お前たちは、恥知らずなまでに無知だな。そして見事なまでに愚かだ」

 馬頭のパソコンのスピーカーから、新たな男の声がしました。その声は少しかすれ、まるでスピーカーから聞こえるようでした。

「そうか。お前たちか。あの捕虜収容所の情報をどこからか仕入れ、アメリカを動かしたのはお前たち極東の人間なのだな?」

「何を言っているのですか? あなたは誰だ?」総理の動揺した声が聞こえます。

「俺が誰であるかは問題ではない。俺はこの茶番を見透かしている者だ。無知で愚かなお前たちにしては、良くやったと褒めてやろう。そうか、お前たちはこのレストランの場所まで掴んでいるのだものな。なるほど。さぞかし自分たちが全てをコントロールする、神にでもなったつもりなのだろうな」

 そう言って、新たな男は笑います。


 その時、あの方の指がすっと離れました。

 と、せき止められていた電気信号が、発火装置に至るのです。その瞬間、ロケット・モーターは命を与えられ、飛行機の懸架装置から自由になりました。ほんの1秒ほど、宙を自由落下した後、ロケット・モーターから猛烈な炎をふきだします。そした矢のように、ロケット・ミサイルはセットされた目標に向かって飛翔し始めました。


「おい、バグデリーダ」

 と、スピーカーからアリの声が聞こえました。「俺はどうやら、お前に別れを言わなければいけないようだぞ」

「なんのことだ?」

「そこはもう、米軍の攻撃目標になっている、と言っているのだ。この黄色い猿達がチョコマカと歩き回って、親分のアメリカに告げ口したのだ」

 バグデリーダは顔を引きつらせました。そんな馬鹿な、と思いつつ、それを否定できないと直感が告げるのです。双子は悲しげに首を振りました。

「おい、日本人達よ。これで終わりだと思うなよ。いいか、いまこの瞬間に、のだ。お前たちがその極東の島国で、安寧に暮らしていられる時は終わったの…」

 アリが呪詛を最後まで言い切る前に、ロケット・ミサイルは毛大飯店の屋上に達しました。時速1,200キロでコンクリート作りのビルの外壁を難なく貫通し、そのまま三階の床を突破しました。そして信管に火が着き、丁度バグデリーダと双子のいた2階の部屋で1キロの炸薬が爆発しました。炸薬はロケット・ミサイル内部構造や外壁を音速に近いスピードで吹き飛ばし、そこにある家具や赤い壁、そして何よりも柔らかな人間を瞬時にバラバラに引き裂きました。そこにいた3人の人間が最後の瞬間に感じたのは、ロケット・ミサイルが爆発するときに放つ、真白な光でした。

 が、その光は神様によって与えられた、福音の輝きだったのかもしれません。


 馬頭と、菅、そして南アフリカにいるアリの携帯電話は全て、その瞬間に不通となりました。

 アメリカ合衆国では、何人かのスーツを着た男たちと女たちが握手し、デビスモンサン空軍基地のドローンオペレーターはひとつ大きく息を吐くと、機体の故障についてのレポートをどうまとめようか考え始めました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る