第28話
「ソフエ大使。お気遣いに感謝します」
そう言って、クージョCIA長官は受話器をおきました。やはり今回の日本の
長官はもう一度受話器をあげると、部屋の外にいる秘書に中東課のアルベルト課長とその部下たちを呼ぶように申し付けます。
その数分後、CIAの長官室。
マホガニーの大きなデスクに座る南米系初の長官チュージョの前に、中東課のアルベルト課長とキャサリン、マーカスが立っていました。
「キャシー、もう1度、そちらで掴んだIS国のカリフの動きを教えてくれ」
キャサリンは、簡潔に知り得た事実を報告します。「現地時間明日の19時、ラッカのマオ・グランド・チャイニーズ・レストランに、カリフのバグデリーダと『双子』と呼ばれる長老格の男性が来店するようです。マオ・レストランの場所はすでに特定済み。無人機にて常時監視の態勢にあり、必要あれば随時精密爆撃が可能です」
チュージョ長官は眉を上げ、わずかにおどけた顔をしてみせました。
「たったいま、日本のソフエ大使から連絡があった。日本側のアセットからも、明日の19時にその店にカリフの来店が予約されたとの連絡があったとのことだ」
「カードが揃いましたな」アルベルト課長が話を要約します。
「作戦概要は?」チュージョ長官が問うと、キャサリンが答えます。
「国防総省とは話を詰めました。今回は生け捕りは諦めてください。こちらの人的資源のリスクに釣り合いません。よってドローンからのスマート
チュージョ長官は皮肉げに唇を曲げました。「悪くない」
「ま、ハリウッド映画のようにドラマチックではありませんから、ホワイトハウスの
それを聞いた長官が決断しました。「では、ホワイトハウスには実行許可と結果報告のみを行うこととする」
その言葉を受けて、アルベルト課長が指示を継ぎます。「キャシーは国防総省にGOを出せ。我々はリアルタイムで6階のシチュエーション・ルームで状況をモニターする。マーカスは今回のレポートを取りまとめておけ。ホワイトハウスの報道官がプレスに向けて喋る内容のレジュメと、議会への根回しだ」
CIAの各担当者はそれぞれの持ち場に慌ただしく戻ってゆきました。
馬頭は力なく、アンマンの街をさまよい歩いていました。こうしている間にもタイムリミットは刻一刻と迫っています。が、自分にできることが思い浮かばないのです。日本国政府の官僚として、この地でなすべきことが何ひとつとして。
サドゥのように、組織に属さないフリーランサーなら、あるいは身軽に何かのアクションが取れたかもしれません。しかし、政府中枢とダイレクトに連絡が取れる立場にありながら、その立場と責任のせいで自分は何ひとつ、この地に有益な貢献をなすことができないのです。
コンクリート造りの家々が並ぶアンマンの市街地。丘を越え、谷を進み、彼はあてどなくその埃っぽい街並みを歩いてゆきました。大使館のある高級住宅街を抜けると、街並みの様相は一変します。歩行者用の歩道も途切れがちで、車道の舗装状態もひどく、土がむき出しの地面もいたるところに見受けられます。
「ヨシュザワサン?」
そんな馬頭の背中に、女性の声が掛けられました。「ヨシュザワサン、でしょ?」
日本語の吉沢さん、のイントネーションではなく、『ザ』にアクセントが置かれる奇妙な発音のせいで、当初馬頭にはそれが日本人の苗字だとは理解されませんでした。
馬頭が振り向くとそこに、ブルカを被った中年の女性が立っていました。彼女は振り向いた馬頭の顔を見て、明らかに当惑しました。
「ごめんなさい。人違いでした。知り合いによく似ていたの」
馬頭は声も出せずに薄く微笑むと、その場を立ち去ろうとしました。いま誰かと話をする余裕がなかったのです。
「あなた、日本人ね?」
その馬頭の背中に婦人は変わらず声をかけます。馬頭にはその言葉はわずかな驚きでした。このアンマンの地では、アジア人といえば中国人と韓国人のコミュニティが主であり、日本人というものはほぼ知られていません。だから一目で国籍を言い当てられることは意外だったのです。
馬頭は振り向くと、「いかにも」と答えました。そう言いながら馬頭のなかで、「ヨシュザワサン」が「吉沢さん」であることに思いが至りました。
「やっぱり。あなた、私の知り合いのヨシュザワサンによく似ているわ」
「ヨシュザワサンは日本人なのですね?」
「そうよ。私たち家族に本当に良くしてくれたわ」
その言葉に、馬頭はまた、まだ見ぬ同胞の善意を感じました。「あなたは?」
「私はシリアから来たの。名前はサナ。このアパートメントに住んでいるわ」と言ってサナは自分の肩越しに突き出した親指で、背後のビルを示しました。「お茶でも飲んでゆきなさい。あなた、思い詰めた顔をしているわ」
甘いお茶の入ったティーカップを、両手で包み込むようにして持ち、馬頭はサナのキッチンのテーブルで彼女と向き合っていました。彼女は聞きもしないのに、これまでの来し方を話していました。誰かの話を聞いている場合ではないはずなのに、何故か馬頭は彼女の言うままにここに導かれ、黙って話を聞いていたのです。
「それで、政府軍が私たちの町にやってきて解放されたと思ったのに、逆に町は戦場になってしまったのよ。イスラミック・ステートの奴らと政府軍は、互いに相手を叩き潰すことしか考えなかったから、町の安全などすこしも配慮されなかった。それで私たち家族はここへ逃げてきた、という訳なの」
彼らは戦争難民なのだ、と馬頭は気づきました。難民は郊外のキャンプにいるだけでなく、こうして都市のアパートメントに住み、テレビとシャワーのある暮らしを送る人たちもいるのです。
「どうしてアンマンに?」
「ここに私たちを受け入れてくれる知り合いのホスト・ファミリーがいたからよ。だから住居は確保できたけれど、仕事がすこしもなかったの」
「シリア政府が難民保護の政策として、職業斡旋をしていると聞きましたが?」
「それは建前よ。実際は私たちは地元住民に嫉妬されているの。初期移民が政府に優遇されていたせいでね。そんな時私たちを助けてくれたのが、ヨシュザワサンだったのよ」
「その方は何者なのですか?」
「彼は国連の職員よ。時々私たち難民の住居を訪ねては、給付金を支給してくれるの。娘2人と息子1人、夫と私で食べさせてゆくのは本当に大変なのよ。生まれた土地を離れ、他人の国で差別されながら生きるというのがこんなに苦しいことだとは知らなかった。
自らの国、生まれた土地、そしてそこに住むおじいさんや、おばさんや、妹たち。そして友だち。私を形作るものは、お金や名声なんかじゃない。そんな目に見えないものなのよ。
ヨシュザワサンは私のそんな話を黙って聞いて、私達のために仕事まで探してくれた。全く何の縁もない彼が私たちの元に来てくれたのは、神様の思し召し以外の何物でもないわ」
馬頭はそれを聞きながら、心のなかでサドゥが微笑むのを感じました。
そしてヨシュザワサンの息吹が挫けそうな自分の魂にフレッシュな風を送ってくれるのを感じました。
そうだ。まだ自分にできること、しなくてはならないことはある、と確信が訪れました。このヨルダンだからできること。そこに日本が関わることができること。それが一条の光のように見えてきました。
「サナ」と彼は言います。「私たち日本は、この国にもっと力を貸すことができるかもしれない。そしてあなたの故郷が1日でも早く鎮まるために、なすべきことをなさなくてはいけないんだと思う」
そう言って馬頭はお茶の礼を告げると、足早にサナのアパートメントを出てゆきました。
「期待しているわ」
慌てて階段を降りる馬頭の背中に、ドアから半身を出してサナが言います。馬頭は振り返り、片手を上げてその声に答えました。
先ほどまでふたりが話し込んでいたキッチンのテーブルの脇には、背の高い男性が立っておられました。爪先の尖った皮の靴。長く白い清潔なシャワールの裾。鳥の模様の入った青いシャツ、顎を覆うひげと、深い眼窩から見える、青い瞳。その方はやはり何も言わずに、静かに微笑んで立っておられたのです。
その時菅官房長官は、自室で安倍総理とふたりきりで話をしていました。首相官邸での長い会議が終わり、東京は夜の9時を迎えていました。官房長官の執務室にわざわざ総理がくることは異例です。が、疲れる会議の後、官房長官のフレッシュな川根茶を飲みたくなると、総理がここへ訪ねてきます。
中東の人質問題はひと段落し、目下の課題は極東アジアの隣国との些細な外交上の口論でした。部屋の外ではけっして口にできないような汚い言葉で、総理は隣国とその向こうにいる独裁国家を悪様に罵っていました。それもまたこの人のストレス解消法なのだ、と菅官房長官は総理をたしなめることなく、黙って話を聞いていました。
その時、管のデスクに置いてあったスマホが震えます。LINEの着信。アプリを立ち上げると、アンマンの外務省の馬頭からメッセージ。秘匿回線で電話ができるか、と問うてきました。官房長官は最近覚えたばかりのサムズアップのスタンプを返信し、こちらからかけると連絡しました。
馬頭はアンマンの日本大使館の自室に戻っています。堅物の官房長官から、年甲斐もないLINEスタンプの直後、デスクの電話がなりました。
「私だ」
とデジタル暗号化回線のクリアな音質で、日本の永田町の官房長官が話しかけました。
「祖父江大使への連絡は無事に終わったかな?」
馬頭は肯定の相槌の後、言いました。「官房長官の言うとおり、見事に寄り切られましたが」
菅は笑って答えました。
「あの人の置かれた立場も分かってやれ。で、君が私と話したがるということは、報復の連鎖を断ち切る何らかのアイデアが出た、ということだな?」
相変わらずの切っ先の鋭さで、官房長官はいきなり単刀直入です。「偶然総理もここにおられる。こちらはスピーカーフォンになっている」
馬頭は驚き、舌を巻きました。
「総理…。ご無沙汰しております」
「元気だったか、馬頭課長。今回はお手柄だったな」
「恐れ入ります」
そして官房長官が馬頭に話の本題を促しました。
馬頭は腹に力を込め、永田町の空気に染まらぬこの地の乾いた風を、そのまま通話口に送り込んだのです。
「ここヨルダンでは、近隣諸国からの難民が多数在住しています。イラク、イラン、シリアなど、問題を抱えた国々から逃げ延びてきた人々です」
日本ではあまり知られることのない難民事情を、馬頭はかいつまんで話しました。先ほどサラのアパートメントで感じた印象を、なるべくそのままに。
「ですが、ヨルダンには大きな問題があります。この国には石油が出ない、ということです。近隣諸国がこの乾いた大地で目立った一次産業もなくやっていけるのは、なによりも石油が産出されるからです。でもこのヨルダンにはそれがありません。その結果、この国の社会インフラは他国に比べてとても貧相です。でも、石油が出ないからこそ、この国が中東諸国で得たユニークなポジションがあります。それはどの国にも属さず、中立の立場にいられる、ということです」
黙って聞いていた官房長官が口を挟みます。
「つまり君は、産油国でないヨルダンを我が国が経済的に支援することで、中東地域の和平に貢献する糸口が見つけられるのではないか、と言いたいのだな?」
提案の要点を向こうから言ってもらえることで、馬頭の精神的負担はずいぶん減りました。さすがの官房長官です。
「そう、それも中東の難民支援は喫緊の課題です。イスラミック・ステートは紛争を起こしては難民を生み出し、その人たちを欧州に密入国させることでその難民からも金銭を巻き上げています。その彼らの資金源の一部を断つ意味でも、この取り組みは重要です」
「なるほど」と、馬頭の電話に総理の声が聞こえました。総理を前に何度も状況説明を行った経験はありますが、こうして総理に直接自分の思いをぶつけるのは初めての経験でした。しかもこんな遠隔地から、か細い電話のライン越しに。
「それで馬頭君、君はどうしたいと? ありていに言えば、カネか、ヒトか?」
「総理。キチンとした書類もなくこのようなご提案を差し上げることをお許しください。ご質問にお答えするなら、双方ともが必要です。
国際支援にはまず、何にでも姿を変えられる金が重要です。それは相手国でハコモノになったり、サービスになったりします。けれども金には顔がありません。金は無記名だからこそ役に立つ場合があるからです。だからこそ、金にできないことを人がやるべきだと私は信じます。私のような日本とこの地域をつなぐ人間にも、できること、やらねばならないことはたくさんあります。けれども総理、できれば私はいつの日か、総理ご自身がこの地を訪れ、この国の首相や王族と顔を合わせて話をし、手を握り合っていただきたいと考えます。その時我々が支援してきた金に初めて名前がつき、その金額以上の価値が生まれるのです」
馬頭は、いまだかつて総理に対し、こんなに即興で長い話をしたことがありませんでした。しかし、置かれた状況が彼を駆り立てていました。いま説得しなければ、もう次はないのです。タイムリミットまで、あと24時間。
「その上で総理、もうひとつ、総理にしかお願いできないオプションがありますーー」
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