第27話
ケープタウン。
15世紀のポルトガル人の冒険家、バーソロミュー・ディアスによって発見されたアフリカ大陸最南端の地。そこにある岬はのちに『希望峰』と名付けられ、ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な貿易航路の拠点となりました。
常に南からの風にさらされているこの地にあって、ケープ半島がその風を遮り、フォールス湾に面した半島の北側は温暖で風光明美なリゾート地としての開発が進んでいます。山間の斜面を切り開いた眺めの良い高級住宅街。どの家も広い庭とドライブウェイを持ち、街の高額所得の屋敷や欧州の会社経営者の別荘が並んでいます。
その中にある一軒の瀟洒な邸宅。
登記上では、ビットオエイシス社の南ア支店となっていますが、実質はそのオウナーであるとあるアラブ人の住居となっていました。その主人は、髭を伸ばしヒジャブ(ターバン)を巻くアラブの風習と全く異なる容貌をしています。短髪で髭も剃り上げ、一見するとウォール街の証券取引所に勤務するアメリカ人のように見えました。
彼はここで、世界を動かすネジを巻く仕事をしています。たったひとりで。
何人もの人々を使役してはいますが、その事業の根幹は彼、たったひとりの頭脳によって成り立っているのです。知力の限りを尽くして、インターネットの中からリアルな世界が彼の望む姿になるよう、しっかりとネジを巻いているのです。
彼の名は、アブドゥーラ(アリ)・マダブ・レオ。
彼はフォールス湾を望む邸宅のバルコニーで、北欧製のスマートフォンの画面を見ていました。
そこには彼の携わっている世界を変えるビジネスのパートナーである、砂漠の友人からの暗号通信のメールが開かれていました。
バグデリーダ:
アリへ。
チャットも電話も何故出ない?
とりあえずメールするが、このような不躾な態度は改めるべきだ。
さて、君に重要な連絡だ。
君の管理していたムスマールの捕虜収容所が襲撃された。収容所は全滅し、話は付近の住民からの伝聞だ。
ヘリからの航空攻撃による強襲だったとのこと。間違いなくアメリカ人達の仕業だろう。
君の大切な捕虜は全てさらわれてしまった。君の立てた壮大な資金調達計画は、全て水泡に帰してしまったというわけだ。
そして君の嫌う大臣達は、ひどく腹を立てている。最早アシムとカリムの双子博士も止められない。
どうするつもりだ?
早急に連絡を。
あなたに平安の訪れることを。
その文面を見たアリは、身体じゅうの血が一瞬にして沸き立ち、思わずスマートフォンを地面に叩きつけそうになりました。そして必死に自制しました。
こんなことで腹を立てるようでは、“大臣”などと自称する砂漠の族長達と大差なくなるからです。彼は落ち着いてスマホをテーブルに置くと、使用人に葉巻を持って来させました。ハバナ産の上質なシガーの端をカットして火をつけます。紫煙がたなびき、体内にニコチンが回ってくると、自然に彼の頭脳が高速で回転し始めます。
あの砂漠の未開人達は、彼の指示通り捕虜収容所の防御人数を増やさなかったに違いありません。いつ何時、このようなことが起こるかしれないと注意したのにもかかわらず、彼らは砂漠の地を知るのは自分たちだけなのだと信じているのです。愚かな奴らだ、と彼は思います。
そして始末の悪いことに、彼らはそれを彼のせいだと考えているのです。責任転嫁。
自らの失策をそこにいない誰かのせいにしては、自分達には少しも非がないと信じ込んでいる。全く手に負えません。こんな愚かな連中に導かれて、本当にアラブの地は開放されるのでしょうか? 彼らに責を負わされ、彼自身があの国の中心から抜け出てしまったらどうなることでしょう? そこにはみじめな混沌と蹂躙が訪れるだけです。他のアラブ諸国のように。
あのアメリカ人達の植民地化するだけの話です。不信心者どもに清浄な砂漠の砂が汚されるのを指をくわえて見ているだけとなるのです。それは、あってはならないことだ、彼は思いました。
あの者たちが陰で自分を不信心者と呼んでいることは知っていました。
しかし彼に言わせれば、あの者たちこそが、無駄に教義の遵守だけに血道を上げて必死になっている愚民であり、そこに神の国をこの地上にもたらそうなどという崇高な理想などひとつもない野蛮人なのです。
彼こそが、神の子であるべきなのです。
唯一それを理解できるのは、彼と同世代のカリフであるバグデリーダです。しかしバグデリーダさえももはや、砂漠の古い砂に脚を捉えられ、くだらない因習にその身をやつしはじめているではありませんか。彼の心のなかで行われた出来事の因数分解の末に、この事象の素数であるところの真の原因が見えてきました。
課題が正確に把握できさえすれば、あとはかんたんなのです。
全てのビジネスは、課題の把握こそが最も困難なのですから。
アリはその課題を解消するための施策を考えはじめました。いつくもの仮説と分岐路を定め、一番最初に着手すべき行動を決定しました。
彼はスマートフォンを手に取り、いつもの暗号通信アプリでなく、通常の電話アプリを起動しました。そしてアドレス帳から、ラッカの毛大飯店の電話番号を選択し、通話ボタンを押しました。
果てしないアナログ回線の接続を経て、彼のコールがアフリカ大陸の最南端からアラビア半島の付け根まで、時間をかけてたどり着きます。
「はい、マオ・グランド・チャイニーズ・レストランです」中国訛りのたどたどしいアラビア語で、電話の向こうのウエイターが言いました。
「アリだ」
たったその一言で、電話の向こうの相手が緊張したのが、アリに伝わってきました。何故なら彼はこの店のオウナーだからです。
「毛大人に伝言だ。明日の夜、19時に奥の間を空けておくように伝えろ。バグデリーダと双子博士がくる」
「分かりました」
その言葉を聞いてすぐ、彼は電話を切りました。そして今度は先ほどの暗号通信メールに返信しました。
アリ:
指摘の件について、話し合おう。
いまはネット環境が悪いので、移動する。
明日のそちら時間の19時に毛の店で、電話会議を。
同時刻、アメリカ合衆国バージニア州のCIA本部。
国務長官のサウジアラビア訪問に伴う現地の治安評価のレポートを作成していた中東課のアナリスト、キャサリンのスマートフォンが鳴りました。
盗聴の危険性がある有線電話は既に破棄されており、職員一人ひとりがデジタル暗号化された専用のスマートフォンを支給されていました。キャサリンは最重要な相手からの着信は、音を変えていました。だから、ほとんど鳴ったことのない、『ソーナー』の着信音が鳴った瞬間に、彼女の頭の中の回路は
「キャサリン、CIA」と名乗り、彼女は電話に出ました。
「網に獲物が掛かったわよ」電話の向こうで、クラウディア・ラサールNSA中東担当主席情報分析管が言いました。
「その獲物は仔ウサギかしら? それとも大きなライオン?」
「どうかしらね。私には仔猫でも、あなたにとってはクジラほどの大物かも。いまメールでセキュアサーバーのアドレスを送ったわ。確認してみて。このまま回線は切らずにいるわ。短い会話なの」
そう言われたキャサリンは、PCで着信したメールを開きます。中に書かれているURLのドメインは、特にセキュリティ・クリアランスの高い職員でなければアクセスできないサーバーを示していました。指紋認証、パスコード入力を経て、彼女はその音声ファイルを開きました。
「はい、マオ・グランド・チャイニーズ・レストランです」中国訛りのたどたどしいアラビア語。キャサリンは日常会話程度のアラビア語なら、十分理解できました。
「アリだ。毛大人に伝言だ。明日の夜、19時に奥の間を空けておくように伝えろ。バグデリーダと双子がくる」
「分かりました」
それでファイルは途絶えました。
この二年後、NSAは世界中の電話音声を秘密裏に傍受し、諜報活動に役立てていた事実が漏洩し、国際政治を巻き込んだ大騒ぎを起こします。しかしこの時代、その活動は完全に合法であると彼らは固く信じ、持てるデジタル技術の粋を尽くして世界中の電話音声を必死に収集し、分類していたのでした。
「いつの通話?」
「47分前」
「あなたの評価を聞きたいわ。これはフェイク、それとも」キャサリンが言い終わる前に、クローディアが口を挟みます。
「リアルよ。私たちの能力をみくびらないで欲しいものね」
「了解したわ。話者は?」
「いまのところ不明ね。私たちのターゲットリストには存在しない相手よ」
「秘匿回線を使っていないところからも、小物感が漂うわね」
「でも、目的はあのカリフの所在を把握することでしょ?」
「イエス。これでホワイトハウスを動かすわ」
「作戦が成功した時の見返りは?」
「あなたが議員選挙に出る時の、清き一票が確保できる、ということよ」
そう言って笑いながら二人のアメリカ合衆国政府の情報関係の高級官僚は電話を切りました。
いうまでもなく、彼女らはアリ・マダブ・レオの手のひらの中でダンスを踊っていた訳ですが。
同時刻、アンマンの日本大使館。
毛の店で働いているアラブ人の若者が、同僚の中国人から聞いた話、すなわち捕虜収容所の襲撃とその後のカリフの会議予定を、秘密裏に自らの部族の長であるムハマンドに連絡し、その情報は日本大使館の馬頭の手に渡りました。
ムハマンドの屋敷からアンマンに帰る道すがら、クルマに同乗したアルジャジーラの記者であるイブラヒムは、静かな言葉で馬頭に詰め寄りました。
「その情報を外に出すということは、また憎しみの連鎖が広がることを意味するぞ」、と。「お前は分かっているのだろう。その情報をアメリカ人に渡したら、奴らは彼らを襲撃するに決まっている」
分かっていました。
馬頭にはそれが痛いほど分かっていました。あのヨーシュ・サドゥの言霊は、イブラヒムやムハマンドを通してしっかりと馬頭の中にも入ってきていたのです。
しかし一介の官吏である自分が、この貴重な情報を胸の内で握りつぶして良いものかどうか、彼には判断がつきませんでした。
もちろんアラブ諸国にこれ以上の血が流れることは、彼の本意ではありません。外務省内で『黄色い肌をしたアラブの民』を自認する馬頭は、アラブ世界と日本の橋渡しとして、この地域の安定のためにここにいるのですから。
しかし、そもそも彼がここへ来た理由は、もっと限定的でした。すなわち、第二の人質の吉村耕三氏は無事に救出され、現在ヨルダン国内の米軍基地で保護されている、ということです。これに対しては結局、すべては米国の独自活動だったのです。日本国外務省は自力では何もできず、米国に対して何の貢献もできなかったのです(実際のところはCIAへの外務省の資金援助のおかげで捕虜収容所を特定出来たからこその成果でしたが、馬頭にはそのことは知らされていませんでした)。
その米国に対し、馬頭がいま持つ情報は非常に貴重なものになるはずです。
正しく活用できれば今回の借りを返して余りあるものであることは、国際政治の初心者である馬頭にだってわかりました。省内には、馬頭のように特定地域のスペシャリストもいれば、大国間の政治的取引を専門とする老獪な政治型外交官もいるのです。
馬頭の心は乱れました。
彼はアンマンの日本大使館の自室で、手に持ったiPhoneを見つめていました。この情報と引き換えに、自分ができることは何だろう。彼は考え続けます。しかし彼の手元にある情報は「明日の夜」までしか時間がないのです。仮に米国が実働部隊を動かすとしたら、いまの一分一秒が惜しいはずです。iPhoneを握る手のひらが汗ばんで、スマホのガラス面が曇ります。乾いたこの大地で、これ以上の惨事を起こさぬために、俺は何をすればいいのだろう。
「やぁ、馬頭くん」
その彼のなかに、あのヨーシュ・サドゥがやってきました。
不意に。なんの前触れもなく。
馬頭は驚いて顔を上げました。そこには誰おらず、そして馬頭の前には彼がいたのです。
「悩んでいるね。
それは当たり前の悩みだ。なんと言っても俺は彼らに惨殺されたんだからね。
だけど俺は奴らを恨んじゃいない。むしろ同情するのさ。
この100年の歴史を君だって知らんわけじゃあるまい? フランスをはじめとした西欧諸国の気まぐれに、この地は翻弄されてきた。だから彼らが米国を始めとした西欧を翻弄するのは気持ちのいい眺めじゃないか。彼らがやっと手にしたイニシアチブだ。存分に使わせてやったらどうだい?」
じゃ、あなたはこの情報を握り潰せと?
「そうは言ってない。刃を使いたがる連中にはそうさせればいい。けれど君は日本国政府の人間だろう? 君でなく、《君の国》がここでできることを探してごらんよ」
日本が?
「そう。金があって、平和憲法を持つ君の国ができることが、何かあるだろう?」
そう言って、ヨーシュ・サドゥは笑いました。
「
そして彼は馬頭の目の前から消えたのです。
情報を渡してもなお、できること。
馬頭は黙ってそれを考え続けました。
そして東京の菅官房長官の番号をタップしたのです。
そして、しばらく官房長官と話したのち、今度は北米に電話をかけます。
「祖父江大使、ご無沙汰しております」
「君こそ元気そうでなによりだ」
ワシントンD.C.の祖父江駐米全権大使は、ヨルダンの馬頭からの国際電話を受けていました。ヨルダンとワシントンD.C.の時差は7時間。ヨルダンの首都アンマンにある日本大使館の19時は、D.C.の正午12時にあたります。
「そちらの状況はいかがですか?」
「きみからの電話を首を長くして待っていたところだよ。菅さんから、何かあればアンマンから直に連絡させると聞いていたからね」
「官房長官からも同じことを言われました」
「きみもひと安心だろう。あの人質が無事で」
「大使はもうご存知なんですね?」
「こちらはほぼリアルタイムで米国政府から情報を受けられているからね」
自分の交渉で勝ち取った手柄でしたが、人格者の祖父江大使はけっしてそんなことを吹聴するタイプではありませんでした。
「そして君が連絡してきたということは、
「ご推察の通りです。今回の件を受けて、イスラミック・ステートのカリフの緊急会議がなされると」
「いつ? 場所は?」
「こちら時間の明日、28日の19時。ラッカの毛大飯店という店です」
「よし、上出来だ。これで我々も今回の救出劇の借りを返せる」
「そこなんですが、大使」馬頭は上機嫌の祖父江に言葉をかけます。「そちらのお国はこの情報でどう動くとお考えですか?」
その問いに、祖父江はしばし考え込みました。
「どうだろうな。収容所の時のように急襲部隊を送り込むのか、あるいは巡航ミサイルのようなもので建物ごと破壊するのか。米国が相手を生け捕りにしたいのかどうか、だな。私はこういった軍事側面の専門家じゃないからよく分からないがね」
「そうですよね。でもそうしたら、彼らの側から報復が確実に起こります」
「でも、奴らの頭脳を取り去るんだ。報復も限定的になるのではないかな?」
その言葉に、馬頭のなかで引っかかっていたタガが外れました。
「大使、なんとかこの攻撃を米国に止めさせる、という手はありませんか?」
「何を言い出すんだ、馬頭君。我々が彼らの行動に干渉する理由はなんだ?」
「今回のアメリカの攻撃が成功すれば、彼らは確実にその頭脳の一部を失うでしょう。しかし彼らには報復の意思が残ります。つまり古代から連綿と繰り返されてきた『やられたらやり返す』が始まるわけです。しかも今回は、我々日本がその企てに加担するのです。ことと次第によっては、我々自身がその報復の刃を向けられるかもしれない」
「我々が口をつぐんでいる限り、そのことは明らかにならない」
「でも米国側から漏れるかもしれません」
祖父江にはこの年若い中東畑の外交官の心配は、杞憂にしか感じられません。これまで数々の修羅場をくぐり抜けてきた老獪な全権駐米大使は、省の後輩に諭すように言いました。
「馬頭君。自分たちへの報復を恐れて我々がこの情報を握りつぶし、いつかそのことが露呈したとしたら、それこそ我々は米国からの信頼を失うことになる。万が一、彼らの報復がこちらに向いたとしても、米国との信頼関係が崩れることに比べたら我が国の国益の損失の大きさははるかに少ないんだよ。それに…」祖父江はそこで言葉を切りました。その沈黙が与えるわずかな間は、相手に自省の気持ちを呼び起こすのです。
「それに自分たちへの報復を恐れて、実際に生身の兵隊を戦火に晒してくれた米国に、貴重な情報を隠すなんて卑怯な真似は、私はすべきでないと感じるよ」
馬頭はスマホの通話ボタンを押すと、ワシントンD.C.との電話を切りました。祖父江の理屈は筋が通っていました。砂漠の民である前に、日本国の外交官である馬頭には、それに対して説得力のある反論を思いつけませんでした。
こんな時、ヨーシュ・サドゥならどうしただろう? アンマンの大使館の自室で、馬頭は思いまます。サドゥなら、きっと軽やかにこんな事務所を離れて、新たな行動を起こしていたはずです。頭脳をフルに回転させながら、歩みを決して止めない。泳ぐことと生きることが同義である、マグロのような人生だと、彼は思いました。
ほんの数分前に交わした、東京の菅官房長官との会話が、馬頭の中に蘇ります。
『祖父江さんは米国側の人だ。長く彼の地に留まり、彼らと我々の損益分岐点を探り続けてきた。だから今回の借りは、我々が想像する以上に大きいんだよ。彼にこの情報を与えたら、それを止めることは私にだって出来やしないだろう。もし君がその報復の連鎖を恐れるなら、別のルートからそれを止める手立てを考えるべきだろう。私はここで、この国を守ることを任務としている。もし君の恐れにいくばくかの真実があるのなら、政府はその矛先を避けるため、君を支援する用意はある』
馬頭は席を立ち、部屋を出ました。
そこは人気のない現地対策本部でした。メンバーは駐留米軍基地に保護されている元捕虜の吉村耕三氏の状況確認や、各種マスコミの対策に駆け回っていました。彼はその部屋を抜け、片手にスマホを握りしめたまま、自分にできることを探すために、大使館を出てゆきました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます