第26話


 “ベッカム”ことアレックスが突然の轟音に気づいた時、彼は一階の自室で引越しのために荷物の整理をしていました。とはいえ彼にたいした荷物などありはしません。バックパックに収まる程度の私物をまとめ、捕虜を誘導するために部屋を出ようとした瞬間でした。

 窓の外から轟音と共にあのカブトムシの低い羽音がしました。そして次の瞬間には小さな爆発音。トラックの荷台で弾薬箱が爆発したのです。それと同時に誰かの叫び声が聞こえた気もしましたが、はっきりしたことを彼は認識できませんでした。アレックスはとっさに地面に伏せ、頭を両手で覆いました。


 一体何が起きたのか。

 これまで従軍経験も、ましてや戦場のただなかに身を置いたことのない彼には想像がつきませんでした。本能的な恐怖に彼は頭を抱えたまま、少しも動くことが出来なくなってしまいましたしまいました。

 次に彼に降りかかったのは、天井から聞こえる複数の打撃音でした。次の瞬間には頭上から漆喰やコンクリートの破片が降り注いで来ました。そこに至って初めて、自分たちの施設が誰かに襲われている、ということに理解が至りました。

 彼は、これまで5人の見知らぬ異邦人の命を奪ってきました。それは全て、ほぼ戦意喪失した相手への処刑でした。

 シリアに着いてイスラミック・ステートに参加した時、基本的な軍事訓練は受けました。銃の打ち方、分解清掃の仕方。そして戦場での基本的な身のこなし方。でもそんなものはひとつも役に立ちませんでした。それまで彼はアイルランドのダブリンに住むしがない郵便局員の倅であり、誰かにむき出しの敵意、それも生命を奪われるような敵意を浴びせられたことは一度もなかったのですから!


 そんなアレックスが感じる混乱と恐怖は、彼の身体から行動力を、彼の脳から思考力を奪ってしまいました。バラバラと小石の破片が降り注ぐ部屋の真ん中の床の上で、彼は胎児のように身を丸めて頭を抱え、この轟音が止むのを待つしかなかったのです。

 永遠にも思えた一瞬が過ぎ、その轟音は止まりました。

 建物の外では攻撃ヘリが後退し、オスプレイがビショップ達レンジャー隊員をファスト・ロープで降下させている時間です。

 外から聞こえるローター音に、それがヘリコプターによる航空攻撃だと知りました。敵うわけがない。ヘリコプターがミサイルを撃ち込んできたらこんな建物など一瞬で粉々に砕けてしまうに違いない。アレックスはそう思います。アメリカだ。アメリカの奴らが自分たちを、いや“ベッカム”という名の男を殺しに来たのだ、と彼は確信しました。アメリカ側は人質の安全が最優先のため、そんな乱暴な攻撃などできるわけがないことなど、彼の想像の範囲を超えていたのですが。


「……ッークス! アレーックス!」

 誰かが彼を呼んでいる声がしました。アレックスは自然にその声の方に行こうと思いました。床から身を起こし、立ち上がろうとしたその瞬間、彼はその場に崩れ落ちてしまいました。なんということでしょう。彼は腰が抜けてしまっていたのです。

 ここだ、俺はここにいる。早く助けてくれ!

 そう叫び声を上げるつもりが、実際に発するのは「クワァァァ、クワァァァ」という奇妙な呼気音だけ。身体がこわばって、声帯もまともに動かせなくなっていました。パニックの大波に飲み込まれ、見当識を失って、彼は世界の果てでひとりぼっちになってしまったのでした。

「アレーックス!」

 呼び声はまだ聞こえます。

「アレーックス!」

 それはマフムードの声だと気づきました。片腕の捕虜収容所所長にして、アフガニスタンの歴戦の勇者。その人が彼の身を案じていると気づきました。その瞬間、アレックスの冷えきった身体のなかに、熱いものが流れ込んでくるのが分かりました。あの人なら、あの男なら自分を救い出してくれる。この地獄のただなかから自分を引き揚げてくれるに違いない。その確信が、彼にわずかな力を取り戻させたのです。

「マフ、」彼は渾身の力を込めて叫びます。が声より先に咳が出ました。その後、肺いっぱいに埃だらけの空気を吸い込み、彼は叫びました。

「マフムード!」

 すると彼のいる部屋に激しい銃弾が飛び込んで来たのです。アレックスは必死で部屋の片隅にあったテーブルの脇に隠れました。


 コンクリート造りの二階建て、中庭に面してコの字型のその屋敷。その南翼の壁に一番最初にとりついたのは、先任曹長のモンシアでした。彼はチームの先鋒3名が合流するのを待って、屋敷に侵入を開始しました。中庭に面した廊下にはまだ黄色い煙幕が残るものの、敵の気配は感じられません。彼は手信号でメンバーに指示を送ります。自分とアデルがまず前進するのでベイトは援護しろ、と伝えました。本来ならば、壁から鏡を出して廊下の様子を探りたいところですが、敵に反撃の態勢を整えさせる前に制圧するのか本作戦の要旨です。よってモンシア曹長は素早く中庭に走り込むと、上下左右に目をやりながら、奥に見える部屋のドアに向かって突進しました。

 と、彼を追って機関銃の掃射。黄色い煙幕が銃弾の軌跡をうっすらと空間に残し、地面で弾けます。が、敵にとっては突然のモンシアのダッシュに、正しく狙いをつけることはできませんでした。

 逆に後衛のベイトは射線を辿り、自分たちが隠れている壁の中の部屋に敵がいることを察知しました。本来なら手榴弾を放り込むところですが、どこに人質がいるかわからない状況でそのような兵器を使うわけにはゆきません。彼は窓から部屋の中に小型爆弾を放り込みました。一拍の間。そして次の瞬間に小さな爆発音。コンクリート造りの小部屋から百灯ものフラッシュを炊いたような閃光が漏れました。これは猛烈な光で敵の視界を一時的に奪う、スタン・グレネードと呼ばれる非殺傷型の爆弾です。それと同時に彼は部屋の中に飛び込み、そこで目を両手で覆って倒れていた3人の兵士に機関銃弾を掃射し、無力化しました。


 先鋒が施設の南側に取り付いた頃、ビショップ隊長の率いる次鋒チームは北側の部屋に取りつきました。事前の調べでは、この部屋が人質のいる場所のひとつだと目されていました。黄色い煙幕はもう風に流されていましたが、最も危険な遮蔽物のない庭にチームが降下し、各員がそれぞれの持ち場に取り付いていましたから、後は各個の技量が試されるだけです。

 ビショップもまた、手信号で部下に指示を出しました。彼ともう一人のチームメイトを先攻に、残りの一人を後衛に回します。彼らは壁を越えると、その部屋のドアの脇に回ります。身をかがめて手を伸ばし、ドアノブに手をやりました。チームメイトのキースと目を合わせ、三つ数えてドアを開け放ちます。するとそこから機銃掃射がやってきました。敵が中にいます。

 ビショップは無線で≪バニングス、フラッシュ≫と告げました。返信はクリック音。また三つ数えると、壁の奥のメンバーが英語で『目を閉じろ』と叫ぶ声がしました。そして窓からスタン・グレネードの投げ込まれる音。一拍の間のあとに、強烈な閃光。英語のわかる人質なら目を閉じたでしょう。

 そのさらに一拍後、ビショップは一気に部屋に入ります。オレンジ色のツナギを着たさまざまな人種の男たちが数名、部屋の片隅で怯えていました。そして床にはやはり目を手で覆って倒れている戦闘員。ビショップはふたりの兵隊に機銃掃射をし、無力化しました。49、50。彼の中でカウンターが動きます。


「北側第一の部屋で人質一群、確保。無事」

 ビショップは簡潔にチームに状況を無線すると、踵を返し、すぐ奥の間を目指しました。屋内にあるドアはシミュレーション通りです。ドアの向こうには廊下が走っており、右側にふたつの部屋が並んでいるはずです。息つく間もなくドアに取り付くと、同時に駆けてきたキースがドアを蹴破ります。またそこに機銃掃射。彼らはドアの脇に隠れ、その銃弾をやり過ごします。

 廊下の向こうから声が聞こえます。そちらの方へ銃口を向け、そのまま掃射しました。当たるかどうかより、敵を怯ませるための射撃です。同時に身をかがめたキースが低い位置からドアの向こうを見やります。すると銃を持った敵の手首が廊下の奥の部屋のドア。キースは素早くそこに三点バーストしました。機関銃の引き金を一度絞るだけで、自動的に三発の弾が発射される機能です。手首か銃か。いずれかに当たり敵の叫び声がして、その銃は床に落ちました。

 今度はビショップが廊下に走り込みます。その手首が見えた二つ目のドアを入るとすぐに二人の兵士。一方は手首を抑え、他方は背中を向けて部屋から逃げ出そうとしていました。まずは走るその背中に銃撃を加えます。数発の銃弾を背に受けた兵士はその場にもんどり打って倒れました。51。

 と、ビショップの後から部屋に入ったキースが、倒れている手首の兵隊を無力化しました。


 コの字型の建物の南翼と北翼から侵入するアメリカ陸軍レンジャー部隊。

 南翼のモンシアの後衛部隊が背をかがめて施設に入り込もうとした時、どこからか遠い発砲音がしました。そして北翼の崩壊した二階の瓦礫の影で、敵方の兵隊が倒れる音がします。

「レンジャー、二階の脅威を排除した」

 チームのイヤフォンに、狙撃兵からの無線が届きました。チームがファスト・ロープで施設の直接占拠を行う間、遠隔地の岩山や建物の影から彼らを支援する狙撃部隊が配置されていたのです。攻撃を救われた隊員は、クリック音ひとつで感謝の意を伝えました。

 モンシアが奥の廊下に入ると、誰かの掠れ声がしました。人質か、と彼は思います。すると、

「アーレックス!」

 とイスラム訛りのイントネーションで誰何の声がしました。問われた掠れ声が、

「マフ…マフムード」

 と弱々しく答えました。

 モンシアはその声に、すぐそこの部屋に敵兵がいることを察知しました。廊下に面した窓に機関銃を差し入れ、牽制射撃をしました。部屋の中でまだ息のある敵兵が逃げる音がします。が、こ奴の掃除は後ろからくる仲間に任せればいい。モンシアはそう思って先へ歩みを進めます。


 コの字型の奥の辺には、左右の端に二階へ続く階段を配置し、三つの部屋が並んでいました。二つの部屋はキッチンとシャワーなどの水回りが配置され、残りの一つは大きな応接間となっていました。人質のもう一団はその部屋に閉じ込められており、日本人の吉村耕三もそこで震えていました。

 外へつながる裏口を持つキッチンでは、この捕虜収容所の所長であるマフムードが戦闘態勢を整えていました。アレックスからは返事がありませんでしたが、彼を迎えにゆく余裕はありません。

 監視の目を感じ、引っ越しを決めたマフムードの勘は当たっていました。が、敵がこんな速さで襲撃してくることは予測していませんでした。それでもアフガニスタンのゲリラ戦の勇者は冷静に状況を分析していました。

 敵は間違いなく米軍。二機、もしくは三機のヘリで強襲を仕掛けたに違いありません。一機は彼がアフガニスタンで、携帯型ロケットランチャーで何機もほふった、対地攻撃ヘリでしょう。ただあの時のソ連軍の鈍重な豚のようなヘリではなく、米軍の精悍で機敏なヘリがまだそこら辺で待機していることは、その間断なき羽音から推察できました。地上に降りている兵隊は、間違いなくヘリで降下してきたはず。そのヘリを墜とすことができれば、敵は退路を絶たれ士気をくじくことができます。

 マフムードは武器庫から運んでこさせた『毒針スティンガー』という名称の携帯型ロケットランチャー(皮肉にも米国製の武器でした。彼はそれ以外を信用していないのです)をうらめしく眺めました。片腕を失っている彼にはもはや、その武器を操作することができないのです。


「アリ!」と彼は腹心の呼び、指示を出しました。アリはその電源を入れ、スティンガーを肩にしました。スティンガーからは、スタンバイOKを意味する電子音が鳴ります。アリはそばにいた二人の部下に自分を援護するよう伝え、三人で一気に廊下に出ました。廊下の目の前は煙のひいた中庭でした。左右翼の廊下を進行していたビショップの小隊はその姿に気づきませんでした。

 アリが廊下に出ると目の前の上空、300メートルほど先にマフムードのいう通り、黒いゴツゴツとした格好のヘリコプターがホバリングしているのが見えました。肩にしたスティンガーの照準装置である穴を通じて、そのヘリコプターのガラス張りのコクピットを見やりました。スティンガーの電子の目がその飛行体を捕らえ、断続的な電子音が連続した高音に変化します。

「アッラー・アクバル」

 そう言いながらアリがロケットランチャーの引き金を絞ろうとしたとき、彼は頭部に強烈な打撃を受けました。その瞬間、彼の後頭部の頭蓋と脳の一部、皮膚と髪とが花開いたように彼の後部に飛び散ります。その打撃の勢いのまま、彼は背後に飛び倒れました。


「レンジャー、スティンガーを持ち出してきた奴を排除した。ワイバーン、脅威は去った。が、二発目があるかもしれない。警戒せよ」

 米軍のチーム全員にリンクしている無線に、狙撃手からの冷静なアナウンスがありました。

「ワイバーン、了解。感謝する」

 戦闘ヘリのパイロットが狙撃手に返答しました。地上のレンジャー部隊のリーダーであるビショップは、クリック音で了解の意を示しました。

 ビショップはそのまま奥の応接間を目指します。この廊下の奥、左手がその部屋のはずです。が、右に直角に曲がった廊下の向こうに敵がいる気がしました。後続のキースが追いつくのを待って、彼は廊下の向こうにスタン・グレネードを投げ込みました。一瞬の間のあと、向こうで強烈な光の爆発が起きます。しかし何の手応えも感じられませんでした。キースには応接室を任せて、ビショップは廊下に駆け出します。廊下は人気がありませんでした。あと残るはこの中庭に面したキッチンのある部屋だけです。


 手駒を次々失ったマフムードは、覚悟を決めました。彼にとって投降という選択肢は発想の外にあります。ただ、部屋にいる二人の部下には逃走を指示しました。もはやここで戦う価値はなかったからです。

 二人の部下は恐怖のあまり転がるようにして裏扉から外に出てゆきました。そこへ機関銃の掃射音とうめき声がきっかりふたり分、聞こえました。

 奴らは戦意を喪失した兵士に情けをかけることさえ知らないのか、とマフムードの怒りは沸点に達しました。彼は床に乱雑に積まれた武器の中から、ひとつを取り上げました。

 右手を失い、彼にできる報復はそれしかなかったのです。


 その頃アレックスは外の半壊した納屋の中にいました。ほうほうの体で部屋から逃げ出し、このなかに隠れていたのです。この納屋はもともと、この邸宅の主人であった貿易商が荷物置き場として使っていた場所でした。現在は捕虜収容所の雑多な日用品置き場として使われています。

 崩れかけた板壁の隙間からは外光が漏れ差し、埃にまみれた薄暗い納屋の中でいくつも斜めの光条としてよぎっています。膝を抱えて震えているアレックスの肩や膝にその光の筋が歪んで伸びていました。

 俺は何故こんなところにいなくちゃいけない? 何故俺はここでじっと殺されるのを待っていなくちゃいけない? 彼の心は千々に乱れます。世界から見捨てられ、この世の果てまで流れてきたというのに、世界はここでも俺の存在を許さないというのか? ならば俺は一体どこで何をしていれば良かったのだ? あのままダブリンで人々に小突かれ尻を蹴られ続ければ良かったと? 自分が自分でいることを許してくれたこの地でも、世界は俺を裁くのか?

 両手の指先が白くなるくらいきつく、彼は両膝を抱えてうずくまっていました。そしてこの先何をしたら良いのか、全くわかりませんでした。


 その時。


 彼は自分の隣に何かの気配を感じました。

 何か、ではなく誰か、の。

 心の隅ではあの兵隊が彼を処刑にやってきたのだと分かっていました。自分が無慈悲に首を切ってきたあの男たちと同じことをされるにちがいない、と分かっていました。

 けれども彼は、すこしも怯えることもなく、両膝の間に沈めた頭をあげたのです。気づかぬうちに腹の底からの震えも収まり、不思議に穏やかな気持ちが訪れます。

 小屋の外で断続的に聞こえる機関銃の掃射音も、ヘリコプターのホバリング音も、全てが遠ざかってゆきます。


 そしてしん、とした静寂が訪れました。


 真空のように硬く、音のない世界。

 そしてアレックスは気づいたのです。自分の隣に誰かが立っていることに。

 足元には爪先の尖った皮の靴。そして長く白い清潔なシャワールの裾。見上げればその人は、鳥の模様の入った青いシャツを着ていました。顎を覆うひげと、深い眼窩から見える、青い瞳。それが自分を見下ろしているのです。


 あぁ、神様。


 アレックスには分かったのです。本能的に。直観的に。この人が皆がいう、神様なのだと。

 全てを吸い込む青い瞳が、土埃にまみれたアレックスを見下ろしています。神様は何も言わずに、何も批評しませんでした。何も言葉を与えることもありませんでした。ただ黙って、アレックスの隣に【存在】してくれていました。


 アレックスは少しでも自分が動けば、この奇跡が消えてなくなることを本能的に気づいていました。呼吸さえ止めて、ただその方の気配に包まれていました。

 そして、どうしたことでしょうか。

 やがて恐怖に震えるアレックスの心はゆっくりと鎮まってゆきました。混乱と怯えが生んでいた敵愾心や恐怖心が、静かに消えてゆくのを感じていました。これまで世界に毒づいてきた自分が、急に小さく思え、やんわりとその気持ちを抑え込めるようにな気がしました。

 アレックスはこれまで、自分を迎え入れてくれたこの国の人たちに報いるために祈りを捧げ、アルコールを断ち、禁欲的な暮らしに付き合ってきました。ですがいま初めて、自分がこの方の、大いなる愛に見守られていたことに気がつきました。少しも信心を持たない自分にさえ、この方が目をかけてきてくれたことに気づきました。そして、自分がこれまで生きてきたことの意味を、彼は知りました。いまこの瞬間のために俺は苦難の日々を過ごし、痛みに耐え、世界をさまよって来たのだと、はっきり分かりました。

 いけない、と分かりつつも


「神様、」


 と上を向いてそこにいる方にものを尋ねようとした瞬間、その方は消えてしまいました。途端に彼は呼吸をしていなかったことに気づき、荒く咳き込むのです。

 壁の向こうからは誰かの叫び声と時折の銃声が戻ってきました。自分がこちらの世界に帰ってきたことを、『戻された』ことを彼は知りました。


 不思議と恐怖はありませんでした。

 そのなかでまぶしい光が訪れ、脳裏に鮮烈な光景ヴィジョンが現れました。戦闘でボロボロになったキッチンのテーブルの上で、ゴツゴツとしたベストを着込んでいるマフムードの姿です。片腕を失った彼はしかし、器用にそのベストを両肩にかけ、ボタンを止めてゆくのです。しかしアレックスにはそのベストの意味が分かっていました。

 あれは、小型爆弾を可能な限り詰め込んだ、自爆用のベストなのです。アレックスは足元にあった機関銃を手にすると、崩れかけた納屋の外に出ました。

 彼を救わなくてはならない、と。


 ビショップが中庭に面した廊下に顔を覗かせると、向こうの端にモンシアの顔がみえました。それぞれの担当の処置が済み、最後に残ったのはこの奥の間だけなのです。

 先ほどここからスティンガー携帯ミサイルランチャーを持ち出してきた奴がいたということは、ここが敵の最後の拠点ということだろう、とビショップは思いました。

 モンシアと手信号を交わし、互いの後衛が追いつくのを待ちます。総勢4人となったところで、ビショップが右手でゴーサインを出します。

 そして4人の兵隊が、中扉に駆け寄りました。


 ドアの向こうには、自爆ベストを着て、片手にスイッチを握りしめたマフムードが立っています。彼はドアが開く瞬間を待っていました。ドアが開いたその瞬間、残された左手の手のひらにある起爆スイッチを押せば全てが終わる。自分も神の国へ召されることになる。そう思っていました。

 そこへ、外の廊下を素早く駆け寄る足音が複数聞こえました。彼らがやってきたのです。神よ、あのドアが蹴破られる時、私はあなたの御許に参ります。マフムードは目を見開いてその瞬間を待ちました。

 背後から物音。

 緊張の張り詰めた彼が振り向くと、外へ通じる裏口に、あのアイルランド人のアレックスが機関銃を手に立っていました。

「マフムード!」

 アレックスは声を立てます。

 マズい、と彼は思いました。米兵への逆奇襲が悟られます。去れ、と彼は手でアレックスを追い払う仕草をし、言葉を出さずに口だけで意思を伝えようとしました。

 と、アレックスが銃をこちらに向けます。何をする、という間もなく彼は発砲しました。機関銃の銃口から火花が十字に飛び、薬莢が数発床に転がりました。そして中庭に続くドアの向こうでうめき声がしました。

 マフムードが中庭のドアに向き直ると、半開きになった木のドアに、いくつもの風穴が空いていました。


 ドアの外側で弾を受けたのは、モンシア先任曹長でした。右脚を押さえ、そこにうずくまっています。ビショップは必死に自制しました。声をかけたらこちらの存在や人数が悟られてしまう。モンシアの後ろにいるアデルもまた、倒れているチームメイトの救助に動けないでいました。


 マフムードもまた、動けないでいました。

 表に敵が何人いるかもわからずに自爆しては、身を賭したこの攻撃が全くの無駄骨に終わるかもしれないのです。それにせっかく生き延びたアレックスさえも、爆破に巻き込んでしまいます。

 双方が動きを停めた一瞬の間に、マフムードは思考を巡らせました。

 ビショップの小隊もゼロ年代以降、主に中東の戦地を巡ってきた経験豊かなベテランでした。が、マフムードはそれより長い時間、そして米兵に比べて圧倒的に恵まれない装備の中、知恵だけで今日まで生き延びてきたのです。ビショップ達より一歩先に、マフムードが状況を動かしました。

「表の兵士たち、聞こえるか?」マフムードは英語で叫びました。

 壁の外にいるビショップは、返事ができません。

「こちらには人質がいる。こいつの命が惜しければ、武器を捨てて手を上げて出てこい」

 そう言いながら、彼は裏口のアレックスに手で『逃げろ』と伝えるのでした。


 その声は、無線の向こうにいるメンバーには聞こえません。ビショップらドアのそばにいる四人だけがその声を受け取りました。

 地面でモンシアが苦しそうに脚を抱えてうずくまり、ふたりのレンジャー隊員は言葉なく小隊長であるビショップを見つめています。


 ビショップの頭の中では、ノースカロライナの森の風景が見えていました。

 楽しみだった森の中での暮らし。深い雪と獣たちの足跡。シェラ・カップで飲む熱くほろ苦いコーヒー。暖炉の薪の燃える、やさしい匂い。肌を刺す寒気と、煌めく陽光。

 あそこに行けたらどんなに素敵だったろう。

 その刹那、彼はそんなことを思いながら、手にしていた機関銃を落としました。地面に重い銃器の落ちる乾いた音がします。それは部屋の中にいる敵にも確実に聞こえたはずです。

 残りの2人には『そこにとどまれ、口をつぐめ』と手で指示しながら、

「いま出る。銃は捨てた」

 と彼は大声で言いました。


 ビショップがそう言ってドアノブに手をかけた時、キッチンの真ん中に立っているマフムードは、頭に強烈な衝撃を受けました。

 隣の部屋から発射されたライフル弾が、彼の頭部に衝突した衝撃です。その弾丸は右の耳のすぐ上に到達し、柔らかな紙のような頭蓋をかんたんに突き抜けました。頭蓋の固さは大したことはなくとも、弾丸のもろい弾頭は頭蓋を貫いた瞬間に変形し圧縮され、頭蓋内を進むあいだに四方に破裂します。その後ろからくる硬い弾丸後部は強い圧力でマフムードの頭蓋内部を引き裂きながら突き進みます。その圧力は逆側の耳の付近、侵入部よりやや下がったあたりの頭蓋を突き破り、脳の破片や体液とともに外に飛び散りました。

 マフムードは瞬間的に絶命し、左の耳を引っ張られるようにそちら側に身体を飛び跳ねさせ、キッチンのシンクにもたれかかりながら、倒れました。


 裏の扉の前で銃を構えていたアレックスの目の前でその惨劇は起こりました。何人もの人間の喉笛を切り裂き、その生命を奪ってきた彼にとって、絶命の瞬間はさほど珍しいものではありません。しかし自分の恩人が、このように眼前で脳漿を飛び散らせながら倒れるのを見るのは初めての経験でした。

 最初の攻撃の轟音に身を竦ませ、その後納屋で神秘体験をし、気持ちを入れ替えてここまできたアレックスでしたが、この衝撃は彼の認識力を遥かにオーバーしていました。茫然と、その場に立ち尽くしてしまいました。


 ドアノブに手をかけようとした瞬間に銃撃音と人の倒れる音を聞いたビショップのイヤフォンに、古参兵のバニングスの声が響きました。

「隣の部屋から敵兵を射殺した。敵は爆弾ベストを着て、隊長もろとも爆死するつもりだったようです。念の為、部屋から離れてください」

 ビショップは驚いてそこから数歩、後ろずさりました。

「バーニー、感謝する。基地に戻ったら冷えたビールを奢る」

「隊長、ビールでなく、バーボンにしていただけますか? モンシアの奴がベッドの裏に禁制品を隠しているんですよ」

「馬鹿を…言うな」掠れた声が、ふたりの会話に入ってきました。「お前こそ、ジンのボトルを隠し持ってるだろう」声の主は倒れているモンシアでした。状況の安全を確認したアデルがすぐに彼に駆け寄ります。右太ももを貫通した弾丸は、致命傷には至っていないようでした。


「チーム、状況を報告せよ」

 ビショップの連絡から集まった報告では、施設内の敵はあらかた片付いたようでした。人質全員の無事も確認されました。

 ビショップは安堵して、目の前のドアを開けました。

 薄汚れたキッチンに、片腕のないイスラムの男が頭から血を流して絶命していました。男が着るベストには、ガムテープでとめられたいくつもの黒い小箱が見えました。

 と、彼は気配に気づき、瞬間的に腰の小銃を手に取りました。部屋の奥、外へ続く扉のところに、若い男が立っていました。

動くなフリーズ」、とビショップは鋭く言い、その男に小銃を向けました。

 男は片手にサブマシンガンを持っていたのです。普段なら警告もなく、即座に銃を撃ち抜くよう訓練されているビショップでしたが、その男の目に戦意がないことに気づき、引き金が引けませんでした。

「う、撃つな」男は英語で言いました。

 見れば彼は、埃にまみれてはいますが、金髪碧眼の西洋人のようでした。

「武器を捨てて、ゆっくりと両手を上げろ」

 その言葉に、相手は小さく首を振りました。

「手が…手が動かないんだ」

 見ると男は小さく震えながらその場に立ち尽くしていました。拳銃の銃口の上にある照星越しにその西洋人を見つめていたビショップは、しばし戸惑いました。ここでこうしているからこそ、彼は極度の緊張に襲われ、身体を硬直させているのだろう。しかしこの銃を下ろしたが最後、自分の身の安全は保証されなくなるのです。


 立ちすくむ男は、こちらを見つめたまま、涙をこぼし始めました。彼の顔の表面の埃を洗い流しながら、その涙は左右の頬の真ん中に二本の筋を作ってゆくのです。

「頼む、殺さないでくれ」

「銃を落とせ。そうすればこちらも銃を下ろせる」

「そうしたいんだ。でも、身体が…身体が動かないんだ」

 ビショップは銃口を向けたまま、次の行動が取れずにいました。

 彼の目を見て、ビショップは気づきました。こいつが人質を処刑していたあの有名な『ベッカム』と言わている男だ、と。わずかにイギリス訛りのあるその口調は、ビショップにあの黒頭巾の冷酷無比な男との落差を思い起こさせました。この収容所のほとんどの兵隊は倒していまいましたが、こ奴は生け捕りにして然るべき裁判にかけるべきではないか、と思いました。

 そう気づくと、ビショップの口から張り詰めていたものがため息となって流れ落ちました。大丈夫、こいつはもう無力だ。そう思って彼が小銃を下ろそうとした瞬間、


 発砲、発砲、発砲音。


 背後から肩、胸、尻と三点バーストの射撃が、目の前の怯えた男を襲いました。男は糸の切れた操り人形のようにあらぬ方向に三度、身体を奇妙に踊らせた後、力なくその場に崩れ落ちました。

 そこに背後のドアからウラキが駆け込んできました。

「隊長、大丈夫でしたか?」

 そう言って彼は、目の前に倒れている“ベッカム”の頭にとどめの一発を撃ち込もうとしました。

「もういい!」

 と、ビショップは彼を制します。不意の大声に驚いた若い部下が目を見開くなか、ビショップは倒れている西洋人にかがみ込みました。

「聞こえるか?」

“ベッカム”と呼ばれた男は力なくビショップを見つめます。


 アレックスは銃撃の痛みはあまり感じませんでした。

 ただ強い力で身体のあちこちを殴られて、その場でキリキリ舞いして地面に倒れた、という認識だけ。なにが起こったのかよく理解できぬまま、目の前に見知らぬ天井が見えていました。

 そこに光がやってきて、あの方がまた、現れました。爪先の尖った皮の靴。白い清潔なシャワール。澄んだ青い目をして、その場に立ってアレックスを見下ろしていました。どんな感情もなく。慰めの言葉もなく。でもアレックスは、そこに救いを見ました。人生の最期のほんのひと時、彼は無上の喜びを知ったのです。


「聞こえるか?」

 その声に、仰向けに倒れている男はうっすら微笑みました。それは戦場ではあまりお目にかかれない、穏やかで満たされたひとの微笑でした。

 そしてその男は言いました。

「アッラー、アクバル」

 そしてこと切れました。

 アレックスはその一部始終を見つめました。

 こいつ、狂っていやがった、と彼は思いました。

 そんな風にしか、兵隊の彼にはアレックスの微笑みは解釈できなかったのです。

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