第25話
緑の丘を超えた時点で、ジャーナリストであるイブラヒムの胸はいっぱいになっていました。乾燥しきった荒野を超えてこの緑おりなす畑を見れば、旅ゆく誰もが驚きを禁じ得ないでしょう。しかし長くヨーシュ・サドゥと付き合ってきたイブラヒムには、その緑の景色が今は亡き友の理想そのものに映りました。ヨーシュよ、あんたはここまでやったのか、と―――。
谷あいにあるムハマンドの邸宅に招かれ、その主と抱擁を交わし、お茶を飲みながら、イブラヒムはサドゥの思い出を語りました。彼のパートナーがいかに無謀で向こう見ずで、そしてこの地を愛したかを。
それを黙って聞いた遊牧部族の族長であるムハマンドは、イブラヒムの言葉が尽きると言いました。
「きっとアッラーが私とお前を引き合わせたのだな。サドゥは私にとってもまるで天啓のように現れ、この地を変えたのだ」
「あの男は、きっと神の国でも大変重要な仕事があったのです。だから神は予定より早めに彼のもとへサドゥを連れ帰ってしまったのです」
その言葉に馬頭は反応しました。
「ふたりと違って私は彼に会っていない。でもいまありありと、彼の魂を感じることができる。ある意味私は、見知らぬ同胞に導かれてここまでやってきた気がするのだ。そして、」と言って彼は、手のひらの中のスマートフォンを二人に見せた。「彼の息子がここで待っている。良かったらサドゥの話をその若者にしてやってくれないか?」
そしてLINEを起こし、隆博にメッセージを送りました。日本からは即時に
まずは初対面のムハマンドが自己紹介をします。そして隆博が日本語でそれに答えます。馬頭は二人の言葉を通訳します。本来ならば知り合うことのなかったアラブ人の中年男性と日本人の少年は、こうして言葉を交わし、共通の男の思い出を語り合いました。
「君のお父さんは、私たちにとって大切な恩人だ。最初に彼がここを訪れたとき、彼はビジネスマンとしてやってきた。最後に彼がここに来たときは、我々の兄弟になっていた。我々の過去を共有し、同じ未来を見てくれた。この地になくてはならない人物だったよ」
その温かいムハマンドの言葉にしかし、隆博は絞り出すような返事を返した。
「では何故父は、アラブのひとに殺されなくてはならなかったのですか?」
馬頭は翻訳に詰まった。目の前にいるアラブ人を責めるのは筋違いだ。口からそんな言葉が出そうになった。しかし、それより前にアルジャジーラのイブラヒムが言葉を挟んだ。
「君にとっては? ヨーシュは君にとってどんなお父さんだったのか?」
日本語を解さないイブラヒムには、ムハマンドの言葉は分かっても、隆博の言葉は分かりません。ただその苦しそうな声と、言葉に詰まった馬頭の様子から、隆博の言葉の意味を察したのでした。
「昨日話したとおり、ぼくにとっても彼は替えのきかない唯一無二のパートナーであり、リーダーでもあったよ。でも昨日はぼくの話ばかりで、君の知るヨーシュ、ヨシオさんのことを聞けなかった」
隆博が、今度は言葉に詰まる番でした。彼にとって父親は、あまりに影の薄い人物だったからです。
「父は…ぼくと母にとってはあまり良い人ではありませんでした。世界と他人のために身を捧げた人物であることは知っていました。それを心のどこかで誇りに思ってもいました。そして彼は日本で稼いだ金で、ぼくらに不自由のない暮らしを約束もしてくれました。
でも父はほとんど家にはいませんでした。父とキャッチボールをしたことも、釣りをしたことも、ぼくにはありません。そして日本だけでなく、世界のあちこちにぼくの弟や妹がいることも知っています。
皆さんと過ごす時間があまりに長く、そのおかげでぼくと母は、ずっと置き去りにされていました。みなさんが言うような話を父の生前に聞くことができれば、ぼくはもっと彼を尊敬できたでしょう。でもいまのぼくは混乱するばかりです。日本では父のスキャンダラスな過去ばかりが騒ぎ立てられていましたので」
「ヨシオさんの名誉は我々が知っている。彼を知らない野次馬たちのつまらない噂に心を捉われてはいけない」イブラヒム が言いました。
「でも確かに奴は女が放っておかないタイプの男だったな。君も彼の息子なら、同じような血が流れているのかもしれないな」
そう言ってムハマンドは豪快に笑いました。
日本人なら不謹慎だと思われる場面でしたが、この地ではそんなモラルは通用しません。翻訳していた馬頭も、つまらない日本のモラルに縛られない異国の男たちの気持ちをそのまま伝えました。
「ぼくにもその血が受け継がれているといいですね。ただしぼくは、きちんと避妊はしますが」
そう言い返した隆博に、ムハマンドもイブラヒムも、そして馬頭も笑いました。その笑いが凍りつきそうだった場の空気を溶かしました。
そして。
通訳する馬頭の中に、その見知らぬ男が「よっこらしょ」っと立ち上がり、息をする感覚が訪れました。あふれんばかりの情熱と、それを現実に定着させる行動力。膨大な知性は彼から偏見や予断といったものを消し去り、あらゆることに素直な興味と前向きな理解を生みます。決してめげず、たゆまず、あきらめず。常に前を向いて歩き続ける強さ、ひたむきさ。人を信じ、より良い未来を見通す想像力とたくましさを持ち合わせ、まわりの人を巻き込む人間的魅力にあふれる。身近な家族として見ればいささかエネルギーがあり余り、ありがた迷惑な存在であることも、ありありと理解できました。
馬頭は見知らぬその男に自然に影響されてゆく自分に気づかずにいました。
そんなヨルダンの辺境で男たちが泣き笑いしている頃、米軍特殊部隊による人質救出作戦が実行されていたのでした。
そして隆博との心温まる交流が終わったちょうどその時、ムハマンドの携帯電話が震えました。
電話相手との短い会話を終えたムハマンドが、眉を寄せて馬頭を見ます。馬頭はその表情を見て、緊張しました。
そしてムハマンドは一言、
「貴国の人質のいる施設に、米軍が突入したらしい」
と告げました。「成否は分からない」と付け足して。
馬頭はその情報に衝撃を受けました。その作戦の成否が、自分がこの国にいる存在意義そのものだったからです。そして馬頭に更なる強い情報がもたらされました。
「それと…例の中華料理店に、彼らが集う日時が分かった…」
戦闘ヘリは一気に高度を下げました。
ゴテゴテとした装備に覆われたヘルメットをかぶる、複座のコクピットに座った
それに狙われたトラックは、車体のあちこちに握り拳大の衝撃を受け、右に左にとその図体を震わせました。やがて荷台に積まれていた機関銃の弾薬の入った木箱を貫通した銃弾により誘爆が起こり、荷台の中で散発的な小爆発が続きます。土煙と爆音で瞬く間にトラックは鉄屑と化して行きます。それは映画のように派手なオレンジ色の炎をあげて爆発するようなことはなく、数秒のうちに沈黙しました。運転席と荷台にいた何人かの兵士はその機関砲弾に身体のあちこちを散り散りにされて、瞬時に絶命しました。
ガンナーは次に、二階建てのコンクリート造りの建物の、二階部分に照準を合わせました。そして即座に引き金を絞ります。また機首の機関砲が回転し、火炎を吹きながら薬莢をばら撒きます。事前の航空偵察により、この二階部分に捕虜はいないことが確認されていました。地上部隊の頭上脅威を排除するため、このフロアを完全に沈黙させる必要があったのです。白煙を上げて、コンクリート造りの建物から瓦礫の破片が四方に飛び散ります。中ではやはりそこで作業をしていた兵士が、断末魔の叫び声をあげながら引き裂かれてゆきます。けれどもヘリのコックピットには、そのような生々しさは全く伝わりません。ガンナーには歓喜も興奮もなく、ただ淡々と作戦行動計画書に沿って“事前掃除”を進めてゆくだけでした。
戦闘ヘリコプターは少し位置を変えると、敷地内の小屋と玄関先の小さな東屋を瞬時に攻撃しました。それは有無を言わさぬ圧倒的な破壊でした。
そして戦闘ヘリは捕虜収容所の上空のセンターステージから外れました。そしてそこへ、ローター(ヘリコプターの羽根部分)を真上に向けたV-22オスプレイが降下してきました。後部のハッチを開き、そこから20メートルほどのロープが吊るされています。
オスプレイの機内では、“ビショップ”以下6名の隊員が空中停止する機体から地上に降下しようとしていました。後部ハッチから吊り下がるロープを使って、『ファスト・ロープ』と呼ばれる即時降下行動でした。
ビショップがハッチの脇に立ち、一列に並んだ小隊メンバーが続きます。彼が肩を叩いた順に、隊員がロープにとりつきます。最初は先任曹長。
「モンシア、ゴー」
とビショップが言うと、曹長は「イエス・サー」の掛け声とともに、敵地に降下してゆきます。曹長が降下しきる間もなく、ビショップは次の隊員の肩を叩きます。
「ベイト・ゴー」
「アデル・ゴー」
ファスト・ロープとはその名の如く、一本の縄で短時間にヘリから地面に戦闘員を降下させる行動です。その為、縄に常にひとり以上の隊員がぶら下がっています。降下時間はひとりあたり約2秒。手にした厚手のグローブだけ。安全索も命綱もなく、フル装備の重い自重を握力だけで支えつつ、一気に降下するのです。危険ではありますが、戦場においてもっとも無防備になるこの瞬間は、同時に敵の狙撃をもっとも受けやすいタイミングでもあります。したがって、この危険な降下はそのリスクと引き換えの、急襲攻撃に不可欠な行動なのでした。
全隊員を見送ると、最後にビショップが縄に取りつきます。彼の声は作戦行動に関連する全ての隊員に無線で聞こえています。それを承知の上で、
「ビショップ・ゴー」
と声を出し、彼は一気にロープを降下しました。
地面に着地すると即座に手袋を脱ぎ捨てました。そして彼はそのまま低い姿勢で機関銃を構え横走りし、目についた小屋の残骸に身を隠します。同時にヘルメットに内蔵されたマイクに向けて、各員の安否を確認します。
「
と、機関銃の発砲音。どことは知れぬ地面を射抜き、土煙があがります。こちらの装備品ではない音。誰かが狙われたのかもしれません。
「モンシア」と、無線の中で声が帰ってきました。一番最初に降下した先任曹長です。と、また銃声。ビショップはマイクに向かい告げました。
「ワイバーン、スモーク!」
その声に、上空待機していたオスプレイがすぐさま移動しました。そして後方に控えている戦闘ヘリ(コールサイン『ワイバーン』)が、彼らが降下した庭に向けて、発煙弾を発射しました。それはチームが散開する庭の真ん中に正確に落ち、またたく間に黄色い煙幕が広がります。ヘリのダウン・ウォッシュで煙が吹き飛ばぬよう、機体は後方待機が原則です。
この煙幕は無味無臭でした。都市の治安維持のために警察が催涙弾を使用することはありますが、軍事作戦上の催涙ガスは毒ガス兵器と分類され、戦場での使用が禁止されています。相手がプロの兵隊ならそれはよく知られた事実ですが、IS国のにわか兵士にとって、見た目が毒々しい黄色いガスは、かつて中東戦争で使用されたマスタードガスを想起させ、彼らに相応の恐怖を与えるはずだと推測されていました。
そして案の定、家屋からの攻撃が止みます。その隙にチームメンバー全員の無事を確認したビショップは、
「家屋にとりつけ。作戦通りだ」
と無線指示を出しました。
黄色い煙幕が広がる中、兵士たちは小走りにそれぞれの持ち場に向かってゆきました。
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