あぁ、神様(空から訪れる者たち)

第23話


 夜明けの砂漠地帯は一日でもっとも気温の下がる時間です。東の空が紫色の夜明けの光に染まり、黒一色だった砂漠に陰影が戻ってきます。暁光が紫から朱色、オレンジから黄色へと、どんどん空の色を変えてゆきます。


 プリンスハッサン・ヨルダン空軍基地は、駐留米軍とヨルダン空軍に共同運用されている飛行場です。長い滑走路に向いて、七つの格納庫がならんでいます。

 そのいちばん端の建物の前に、迷彩服を着たひとりのアメリカ陸軍軍人がやってきました。アジア人の彼は、そっと目を閉じると、自分の呼吸に意識を集中しました。やがて腰を少しだけ落とすと、片足をゆっくりサイドへ伸ばし、かかとから地面につけました。更に腰を落とし、肚に溜めた呼吸の塊を、両手でヘソの前で丸め、伸ばした足のほうに、ゆっくりとその塊を解き放ちます。あたかも馬のたてがみを撫でるかのようにやさしく、滑らかに。


 今年32歳になる彼が太極拳を学んだのは、故郷のノースカロライナ州シャーロットのチャイナ・タウンででした。

 彼、グェン・ヤムはノースカロライナ州で生まれたベトナム系二世のアメリカ人です。彼の自宅は街のチャイナタウンに近く、同じアジア人ということもあり、中国人達と親しくなってゆきました。森林警備隊に勤める父親の給料では、五人兄弟の長男である彼を大学に行かせるのは難しかったので、彼はハイスクールを卒業後、陸軍に入りました。街を離れることが決まった年の夏、知り合いの中国人達が彼に一生の土産として授けたのが、この太極拳だった、というわけです。


 あくまでもスローに、体幹と気の動きを意識しながら身体を動かす。この辛抱強い運動は、そもそもが我慢強かった彼の性格と相まって、彼の一部となってゆきました。

 陸軍の精鋭が集まる第75レンジャー大隊において小隊を預かる立場になったのも、そのおかげなのかもしれません。血気盛んな隊員の中で、ひとりでいつも本を読み、沈着冷静でどんな修羅場でも適切な判断を下す。チームメイト達は彼を、キャプテン・僧侶ビショップと呼んでいました。


 オレンジ色に染まった空と濃紺の滑走路の中で、ごくスローな太極拳を舞うビショップの姿がシルエットです。

 そこに伝令兵が走って来ました。

「キャプテン、来てください!」

 いつになく焦りの色を見せる若年兵に、ビショップは落ち着いてひとつ肯くと、彼について司令部へ向かいました。


「こいつを見てくれ」

 夜明け直後の司令部では、当直の士官と、まだ寝起き顔の基地司令、そしてコーヒーカップを持ったレンジャー大隊の現地大隊長がビショップを迎えました。

 基地司令が示したコンピュータ・スクリーンには、無人偵察機から撮影している捕虜収容所の映像が映っていました。ちょうど同日、CIAの本部で日本の祖父江大使が見せられたのと同じ映像、ただしこれはリアルタイムのものです。

 夜明けの光がゆっくりと周囲を照らす中、収容所の建物のあちこちから灯りが漏れているのが見えました。

「ここ何日かで、初めて見る光景です」

 そう言ったのは、アメリカ合衆国アリゾナ州にあるデビスモンサン空軍基地のドローン飛行隊のオペレーターです。インターネット回線を使い、ヨルダンのこの基地とアリゾナ州は常時コミュニケーションが可能な状態になっていました。当地での午前5時は、アリゾナ州での午後7時でした。

「こんな早朝から奴ら、何をしてるんだ?」レンジャー大隊長が皆の疑問を口にしました。

「朝イチから処刑でもするつもりですかね?」アリゾナ州のオペレーターが軽口で答えます。合衆国ではほんの冗談に聞こえることも、当地では誰の眉をも動かすことはできませんでした。訪れた沈黙が、オペレーターに謝罪の言葉を口にさせました。


「エリアを拡大して見せてもらえますか?」

 ビショップが口を開きます。カメラの映像が、ズーム・バックします。収容所になっている屋敷から、岩山の斜面に作られた小さな村の様子が見えてきます。色とりどりの屋根に寝静まった村落の風景が見えてきました。さらにカメラが引くと、村に続く街道が見えました。街道の先では、そこを走るクルマのヘッドライトと、その後方に続く砂埃が視界に入って来ました。

「あのクルマはなんだ?」基地司令が言いました。アリゾナ州のオペレーターは、その車両を拡大します。と、それは二台の幌をつけたトラックであることが判明しました。

 誰もが黙ってそのトラックの行方を見つめます。しかし言うまでもなく、それはあの村に向かっているのでした。

「引っ越しだ」

 と、ビショップは言いました。「奴らは我々の監視に気づいたのかもしれません」

「何っ?」レンジャー大隊長は目をむいています。


 このところ続いていた砂嵐が止み、今夜か明日、救出作戦が実行される予定だったのです。

「―――ー作戦が間に合わないじゃないか」

 彼らの作戦は単純明快です。

 敵の寝静まった夜明け前、夜陰に紛れてヘリで収容所を急襲し、圧倒的火力でそこを制圧する、というものです。

「引っ越しかどうか、どうしてわかる?」大隊長はビショップに言いました。

「状況から推測しているだけです。でも以前もアフガニスタンの施設で同様な経験をしたことがあります」

「引っ越しだとしたら、」と基地司令が口を挟みました。「あのトラックには兵隊と武器が詰まっているかもしれないな」

「プランBブラボー」とビショップは言います。

「そいつはリスクが高い」大隊長は首を振ります。

「でもタイムリミットが」

「分かっている。しかし…」

「我々なら大丈夫です。そのための訓練もしてきました」ビショップは大隊長の目を見て答えます。


 大隊長が悩むのは、ビショップを含む小隊に対する危険性でした。本来のプランAアルファでは、先述の通り夜陰に紛れての奇襲を想定していました。そしてその代替案としてのプランBは、昼間に収容所を急襲する、という作戦です。突然、という観点からは奇襲と呼べるものの敵方の視界を奪える夜間ではなく、昼間の作戦行動であれば、相応の反撃が想定されます。従って、プランBには急襲隊以外に狙撃部隊や航空戦力も検討されていました。それでもプランAに比べたら圧倒的に不利な状態でチームを派遣しなくてはなりません。

 しかも、あのトラックが本当に引っ越しを想定しているなら、先方は急襲の可能性を考慮しているかもしれないのです。つまり、追加人員や武器弾薬の補給、なによりこちら側の不意打ちに対する心構えができている可能性は否定できません。

 大隊長のなかで、そんな思考が高速で巡りました。


「おい、デビス・オペレート」

 大隊長はデビスモンサン空軍基地に声をかけました。「現在のリーパーの武装は?」

 リーパーとは、この監視カメラを搭載した無人偵察機のことです。

「ヘルファイア二発、ペイプウェイ二発」

 オペレーターは飛行機から戦車を攻撃するミサイルと、精密爆撃弾がそれぞれ搭載されていることを答えました。

「あのトラックを撃てるか?」

 大隊長のその言葉に、オペレーターはネット回線の向こうで即答しました。「初弾で先頭の車両を破壊すれば、二発目を撃たなくても、あの車間距離なら2台目は爆発した1台目に突っ込むでしょうね。でも、撃てませんよ。交戦規則違反です」

「こちらの状況が分かっているのか? こちらは少しでも敵の増援を減らしたいんだ。それが隊員の生命を守ることにつながる」苛立つ大隊長が答えます。

「すみません、事情は案じますが、」

「ならいますぐあのトラックを撃て」

「ではあのトラックが明確な敵勢車両であることを証明してください。もしあれがあの村に食料を届ける業者だったら? あるいは農機具を届ける目的なら? あなたがたは状況からあれが敵勢車両であると推測しているだけです。あそこからRPG(対戦車ロケット砲)が突き出しているならまだしも、目に見える脅威がないのに無差別攻撃はできません。我々は戦地から遠く離れているからこそ、慎重な判断が必要とされているのです」


 同日午後7時、日本。

 三芳隆博は自分の部屋でiPhoneの画面を見ていました。

 窓の外には梨の畑と背の低いマンションが見えます。船橋市の郊外。5月も目前の爽やかな夜でした。

 7時ちょうどにLINEにメッセージが届きました。「batoh」というアカウントからの友だち登録依頼のリクエストでした。隆博はその依頼を承認します。すると、相手からメッセージが飛んできました。その相手はヨルダンの日本大使館にいる、馬頭拓郎です。


 ことの次第は、菅官房長官でした。

 菅からLINEのメッセージが届いたのは昨日の夕方のこと。隆博の父親が無残な死を遂げてからちょうどひと月が経っていました。新たな人質のタイムリミットが迫る中、マスコミの下世話な騒動はそちらにシフトしており、隆博は静かな日常を取り戻しつつありました。父親を惨殺されたという記憶は心の片隅に押し込められ、硬く封をされつつありました。


 菅は隆博に通話の許可を得てから電話をかけてきました。久しぶりに連絡する非礼を詫びた後、『君と話したい、という人がいるのだが』と官房長官は言い出しました。

「マスコミならお断りします」

「ちがう。政府関係者だ」

「政府の方が、ぼくに何の用ですか?」

「ヨルダンにいて、君のお父さんを直接の知っている人が、君と話をしたがっている」

 その言葉は隆博に強い興味と好奇心を引き起こしたのでした。


 batoh:こんにちは。そちらではこんばんは、かな? 菅さんから紹介してもらった外務省の馬頭です。よろしく。

 隆博は指を素早くフリックして、返事をタイプしました。

 三芳隆博:こんばんは。三芳です。よろしくお願いします。そちらはヨルダンにいるのですね?

 batoh:そうです。アル・ジャジーラの記者さんと一緒にね。通話に切り替えても?

 隆博が承知すると、すぐにスマホに着信がありました。

「やぁ、はじめまして。馬頭です」

 一通りの形式ばったやり取りの後、馬頭が本題を切り出しました。


「お父さんのことを救えなかったのは、外務省として申し訳なく思っています」

「いいんです。父はああいう人でしたから、まともに病院で死ぬわけはないと思っていたのですが」隆博は精一杯、大人の振りをして言いました。マスコミに追われ、知りたくもなかった父の過去を知り、何気なくネット投稿した小文で世論を沸騰させ。彼はこのひと月で、望むと望まざるとに関わらず、大人にならざるを得なかったのです。

「でも今日ここに、お父さんの友人だった人がきてくれているよ」

 そう促され、イブラヒムが片言の日本語を話しました。

「ワタシ、サトウサンノ、トモダチ。ハロウ?」

 隆博は面食らいながらもその見知らぬアラブの男の話を聞きました。もちろん間に馬頭が入り、ふたりの言葉を通訳してのことでしたが。


 イブラヒムは、彼の言うところのサドゥとの破天荒な日々を話しました。

 トルコの難民キャンプで人々の緊張をほぐすため、三人組の取材チームで日本のドラえもん音頭を踊ったこと。ヨルダン川の西岸地区では、パレスチナの子ども達と本気のミニ・サッカーゲームをやったこと。イラクのバザールでラジオ体操を教え、シリアのモスクの前ではカラテの演舞を披露したことも。

「あなたのお父さんはね、」とイブラヒムが言いました。「子ども達の笑顔が大好きだったのですよ。いや、子どもだけじゃない。おじさんも、おばあさんも。兵隊さんも、牧師さんも。あなたのお父さんにかかれば皆、歯を見せて笑ったものですよ」

「どうして父は、そんなに人を笑わせていたのですか?」

「笑いは人種や宗教を問わず、人を平和にするからですね」

「平和?」

「そう」

 アンマンの日本大使館の会議室で、イブラヒムは腕を組んでスマートフォンに向かい答えました。

「このアラブのいくつかの地域では、常に緊張が渦巻いています。敵か味方か。人々は常にそれを判断しながら生きていかざるを得ないのです。でも敵方、味方、いずれにも与せず、ただひたすらにサドゥは人々を笑わせ、その笑顔をレポートし続けました。シーア派もスンナ派も、イスラエル人も、パレスチナ人も。ただ笑っているだけの人達の表情を電波に乗せ続けることが、この地域の何かを間違いなく変えてゆける。あなたのお父さんはそう信じていたんですよ」


 隆博は言葉が出ませんでした。

 自分と母という肉親を顧みず、見知らぬ砂漠地域のために活動しつづけた男。それが隆博の持つ父のイメージでした。隆博が物心ついた頃には既に不在がちで、父親らしいことは何ひとつしてこなかった男。でも、彼が成した事業のことは耳にし、心のどこかで父を誇りに思っていたのです。そんな複雑な思いが、このアラブ人の言葉で一気に整理され、筋の通ったひとりの男として隆博の中で像を結びました。

「だからね、タカヒロさん」とスマホの向こうにいるアラブ人はつづけました。「私にはあの最後の映像の彼が信じられませんでした。いつでも前を向いて希望を持ちつづけた彼が、あんな風に自分の人生を諦めたような表情をするなんて…」そういうと、LINEの音声通話のなかに、イブラヒムの嗚咽が混じりました。

「イブラヒムさん」と、隆弘は相手の身を案じて声をかけました。「ありがとうございます。ぼくはあなたのいうような父の姿を少しも知りませんでした。どこまでもスケールの大きな人だとは思っていましたが、家族の前ではそんなことは見せない人だったのです」

「タカヒロさん、」と、イブラヒムは答えます。「だから私はあなたにどうしても伝えないといけないことがあったのです。どうか、あの無法者達を憎むのではなく、どうやったら世界に少しでも笑顔が増えるかを考えてください。彼らを憎むと、彼らもあなたを憎みます。でもあなたのお父さんなら、その憎しみの鎖を断ち切ったでしょう。それを断ち切らなければ、世界はいつまで経っても戦争から逃れられないのですから」


 あぁ、と隆博は思うのです。

 地球の裏側で、こんなにも自分を案じてくれる人がいる。そしてそれは、今は亡き父親がイブラヒムの口を借りて自分に話しかけているのだと知られました。

 あの時、父の斬首映像を見た時と同じようなシャイニング(遠視感)に彼は包まれました。隆博には混雑したトルコの難民キャンプも、土埃の風のふくヨルダン川西岸の街角も、全てがありありと見ることができました。既にこの世を去った父親の血が、この自分の身体の中に脈打ち、その使命感がネットのか細い回線を伝わって彼の中に流れ込んできた感覚がありました。被害者面をして世間に戦争をアジテーションした自分が途端に恥ずかしくなりました。


 アンマンの日本大使館の会議室で、隆博と同じように馬頭もその言葉に胸を熱くしていました。この世にいないその佐藤という男の意思がいま、UAEからイブラヒムを引き寄せ、日本から三芳隆博を彼の前に連れてきたのです。

 そして彼にはもう一人、イブラヒムと隆博に引き合わせなければいけない人物がいることが分かっていました。あの砂漠の民にももう一度、佐藤芳雄のメッセージを伝えなくてはならない。そう思ったのでした。これ以上、我が国が憎しみの連鎖に捕らえられるのを避けるために。

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