第22話


 ヨルダンの首都アンマンにある日本大使館は、都心を少し離れた閑静な住宅街にあります。

 紀元前数千年前から存在したこの都市は、例えば500年に満たない歴史しか持たない東京に比べてもはるかに長い時間を経てきています。が、この街が現在のような大都市になったのは前世紀始めからのことでした。近隣の戦争から逃れる人で街があっという間に膨れあがり、丘陵混じりのこの地に、場当たり的な拡張が繰り返されました。その結果、入り組んだ路地を多く持つ複雑な都市ができあがったわけです。しかし日本大使館はその中にあっても比較的整理された区画にあり、だからこそ日本のメディアが雲霞のごとく群がるようになりました。


 ヨルダン人の守衛は普段この大使館にこんなに報道陣が集まるのを目にしたことはなく、なぜ日本人は複数のメディアがここに取材に来るのかが理解できませんでした。どこにあるかすら知らない極東からすれば、こんな遠い場所の誘拐騒ぎなど、一社が取材すれば充分ではないか、と彼は思うのです。

 とにかく彼は、誰も敷地の中に入れるなという命令を受けていましたので、守衛所の中で厳しい顔をして門の外を見つめていました。とはいえ日本の報道陣も、クルマの出入りや記者会見でもない限り動き出すことはないので、人だかりの割には奇妙な静けさがその一帯を包んでいたわけですが。


 その時一台のタクシーが大使館の前に停車しました。中から降りてきたのは身なりの良いスーツを着たアラブ人の男。年のころでいえば30代半ば。守衛は本物の来客だ思い、守衛所の窓を開けました。

「アッサラーム・アレイクム」神の平和を、意味しつつもほとんど日本語の『こんにちは』と同程度の使われ方をしている挨拶の言葉を、向かってくる髭のアラブ人に向かって守衛は言いました。

 挨拶を返した客は、守衛に向かってメディア・パスのようなものを見せました。そこにはテレビでよくみるロゴがプリントされていたのです。

「私の名前はイブラヒム ・フセイン。アルジャジーラの記者だ。例の日本人誘拐事件について、ここの担当者と話がしたい」

 それを聞いて守衛はがっかりしました。結局、彼と同じアラブ人であっても、プレスというものはそこらにたむろしている日本人の記者たちと同じなのです。アポイントもなしに押しかけてはこちらに無理やりマイクを向ける。そんな人種なのだ、と思いました。彼がその落胆を顔に出しながら首を振り、「すまないが、」と言い出した時、相手が口を挟みました。

「取材ではない。私は最初に殺害された日本人ジャーナリスト、サドゥのパートナーだった者だ。ここの担当者に協力を申し出に来た」


「それ、どういうことですか?」

 その頃、大使館の大会議室で、馬頭が年かさの大使館員を丁寧な口調で詰問していました。

「どうって、どういう意味だよ?」

 入庁年度でいえば馬頭より先輩の、しかし階級でいえば既に馬頭の下となっている職員が答えました。

「だからなんで金額が上がっているのですか、と聞いてるんですよ」

「なんでって、そこに書いてあるだろう? 先方はこちらの態度に腹を立てている。それをなだめなくてはならない、そういことだ」

 先輩はメールのプリントアウトを指差しながら答えたのです。


 会議室には急拵えの現地対策本部が設置され、五つのデスクとPC、電話、ファックスなどが並べられていました。壁にはシリア周辺の地図と、大型のテレビ。そこではネット経由でリアルタイム受信できる日本のNHKのテレビ番組が音を消して写されていました。

 在ヨルダン大使館の中、馬頭拓郎はここの現地責任者としてはるばる日本の霞ヶ関から派遣されてきたのでした。彼の配下に入ったのは四人の現地駐在職員。うち2名は年も入庁年度も上の先輩でした。

 その中東領域に関する圧倒的な知識と経験と人脈で瞬く間に外務省の出世階段を登り、35歳という若さで既に中東課の要職を務める馬頭は、霞が関でもどこでも、既得権益を持ちイスラムへの理解がひとかけらもない同僚との戦いを繰り広げてきました。


 そのプリントアウトを手で示して、馬頭は言います。「こんなものは、ブラフに決まってます。いやむしろ、この怪しげなネゴシエーターの懐に入る金を積み上げているだけでしょう。こいつはネゴシエーターでもなんでもない。仮にこいつの言う通り、先方が金額アップを求めてきているんだとしたら、それをなんとか下げさせるのがネゴシエイションというものでしょう。ただ言われた通りに値段を伝えるだけならば、ガキの使いですよ」

 馬頭はあのイタリア人の自称ジャーナリスト、ベネディクト・オーウェンの送ってきたEメールを見て、腹を立てているのでした。

「彼は過去に何件もの人質事件のネゴシエイションを成功させてきた実績のある男だぞ。彼が唯一のイスラミック・ステートとのチャネルなんだ。まさかそいつを切るなんて言い出すんじゃないだろうな?」

 年かさの職員は馬頭の目を見て言いました。

「それを切って、お前に責任が取れるのか?」

 切り札のような一言を、彼は口にしました。

 しかし切っ先鋭いその物言いに少しも怯まず、馬頭は言葉を返します。

「では伺いますが、あなたはこいつを信じて言い値を払っても、あと5日のうちにあの人が解放されなかったとしたら、その責任を取れるんですね?」

 年かさはたじろぎ、言葉を失いました。

 まわりで状況を伺っていた他の職員たちも皆、口を開くことができませんでした。たっぷりと冷えて固まった空気がこの大会議室に染み込んだ後、馬頭はおもむろに言葉を発しました。

「……いいですか。我々の任務はあの罪なき同胞を彼らの手から救い出すことです。それがあと5日のうちになされなければ、我々は任務に失敗した、ということになります。ただ、責任者は私です。責任を取るというなら、大臣でも官邸でもいい、私の首を刎ねたらいい。しかしそんなこと、あの男性が命を失ってしまったら、なんの意味もないのです。私のクビは比喩ですが、彼の首は物理的に分離されかねないのです。

 よろしいですか、皆さん。

 この件には、『最善を尽くした』とか『できる限りのことをやった』とか、そんなことは全く評価に値しません。あの吉村耕三氏の首が胴体から離れたら、全ての努力はなかったことになります。我々は世論に袋叩きにあうでしょう。だから我々は絶対にそれを避けねばならないのです。このことを忘れないでいただきたい」

 馬頭の鬱憤が破裂した瞬間でした。


 この地に駐在しても、現地の空気に馴染まず、異国人相手の西洋風レストランとバーにしか繰り出さない外交官達。イスラームのルールも外交辞令上のものしか理解しようとせず、彼らの側に立って物を考えるということをしようとしない人達。アンマンにいても、視線はいつも霞が関にしか向いていない同僚達に腹が立って仕方がなかったのです。


「馬頭さん、来客です」

 そのタイミングで、大会議室のドアを開け、一般大使館職員が、馬頭に声をかけました。彼女はこの部屋の異様な雰囲気にのまれていましたが。

 誰何する馬頭に彼女がこたえます。

「佐藤芳雄さんの知り合い、とのことです。最初の人質だった」


「私は彼のパートナーでした」

 日本大使館の応接室で、イブラヒムが馬頭に言いました。最初の自己紹介で彼がUAE出身と聞いて同郷の念に駆られた馬頭は、ティーカップに紅茶のティーバッグをふたついれた濃いめのお茶に砂糖をたっぷりいれて、彼をもてなしました。

「猛然と取材対象に向かってゆく彼をいなしたり追ったりしながら、彼のレポートを私がアルジャジーラの電波に乗せたのです」

 イブラヒムと名乗るこのUAE国籍の男。甘い紅茶を飲みながら、同郷人とはいえ、彼を信用すべきか否か。先のうわべだけの交渉人のように、こちらの足元を見てあぶく銭を稼ごうとする輩の絶えないこの地で、人を見極めることの重要さを馬頭はよく分かっていました。

 しかし、作り話にしてはイブラヒムの言葉は真に迫っていました。イタリア人とアラブ人と日本人の3人組での遊撃隊ショートストッパーズ


 そしてイブラヒムが言いました。

「あの日、サドゥはこう言ったのです。『俺たち三人組が中立的な立場で彼らの考えを世界に示すことができれば、世界はもっと分かり合えるかもしれないじゃないか』と」

 イブラヒムの言葉は、馬頭に何かをリマインドさせようとしています。

「私はね、バトゥさん。あの滅茶苦茶な日本人を愛していたんですよ。彼のせいで何度もひどい目に会い、何度も死にかけたというのにね。彼は人を巻き込む特別な資質を持っていた。そしてこの地に住む誰より、この地を愛してくれていた」

 そう言ったイブラヒムの真剣な目つきは、あの緑のオアシスで出会った部族長の目を思い起こさせました。いま目の前で、死んだ男のことを語るアラブ人は、言葉は違えどあの族長と全く同じ男のことを話しているのだ、と信じることができました。


「私はその男に会ったことはありません」

 と、馬頭は切り出しました。「しかし、その男の話を聞くのはあなたで二人目です。そしてその男がとてもユニークな人物であったことは、間違いないようですね。もしこの地で知り合えていたら、ビリヤニ(中東風炊き込みご飯)で彼をもてなしていたでしょう」

 そう言って馬頭は右手を差し出しました。応接テーブルの向こうでイブラヒムも同じように右手を伸ばします。そしてふたりの手はしっかりと握りしめられました。

「我々の最善を尽くして、これ以上不幸な犠牲者を出さぬようにしましょう」

 そこに佐藤芳雄がいれば、目を細めて喜ぶ光景でした。

「でもね、バトゥさん」とイブラヒムは言います。「私はアルジャジーラの一員として、またこのアラブ地域の住人としてひとつ、言っておきます。私はイスラミック・ステートを西欧人の軍事力で駆逐することに反対しています。なるほど彼らの行いは残虐で非道です。しかしそれを暴力で根絶やしにしたところで問題は解決しないのです。私はジャーナリストとして、私にできる戦い方をしています。人々の見方を変え、彼ら自身にも気づきを与える戦いです。即効性はないかもしれない。けれど、それは作物を育てるように、いつか身を結び世界を変えるやり方だと信じています。そしてそれは、あの滅茶苦茶な日本人が命をかけて教えてくれたことです」


 その言葉はゆっくりと馬頭の腹に沈んでゆきました。

『憎しみや怒りを動機にして外交を進めてはならない』。それは彼が外務省に入った時に彼を指導してくれた、今はすでに退官したベテラン外交官が与えてくれた言葉です。

 外交とは、ギリギリ最後まで、理性的で紳士的であるべきものだ、と。

 いま、イブラヒムが言った言葉は、彼自身の外交官としての行動指針、そのものだったのです。

 馬頭は目を閉じて、返す返すも佐藤芳雄という人物と知り合えなかったことが残念だったと思いました。出会えれば、無二の親友になれたかもしれなかったのに。

「バトゥさん、そういえばサドゥの息子をご存知ではありませんか? 彼には日本に一人息子がいたはずなのですが」

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