第20話


「集まってもらったのはほかでもない、例のイスラミック・ステート邦人誘拐事件について、進展があったからだ」

 ワシントンD.C.の駐米日本大使館にある大使執務室で、四人の男性が会議を始めようとしていました。

 会議のファシリテーターは祖父江大使。そして大使館の高級官僚が三人列席していました。うち一人は以前、祖父江大使と米国の暗黙の意向について協議しあったベテラン外交官、矢作でした。

「実は今しがた、本国官邸の対策本部から電話があった。官房長官からだ」

 その一言で、会議室の空気がきりりと締まるのを誰もが感じました。菅義偉のするどい視線がはるかこの会議室まで届いているようでした。

「在ヨルダン大使館の現地対策本部に霞ヶ関から実質的なリーダーが派遣されているのは皆も知っていると思う」

 その祖父江の言葉に、参加者のうちの最年少、39歳の吉川が口を開きました。

「……ジーニー」

「そう、アラジンの魔法のランプから出てきたあの大男がヨルダンに飛んで、コトを運んでいる。馬頭君だ」

 馬頭の噂は省内で知らないものはおらず、外務省のちょっとした名物男なのでした。

「その彼から、思いもよらない情報が届いた。IS国の首脳部が時折訪問するレストランの場所が特定され、しかも彼らが来店するタイミングが判る、というのだ」

 一同は与えられた情報に面食らいました。

「人質の収容所の情報ではないのですか?」

 矢作が皆を代表して、その違和感を言葉にしました。てっきり、その話だとばかり、皆は思っていたからです。

「そう。我々が望んでいるのとは違うネタを、あ奴は掴んできた。しかし、だ。それを聞いた官房長官は、それを米国政府との交渉カードにしろ、と言ってきた。我々が拠出した支援金の結果は未だ報告されず、彼らが人質救出に動いているのかどうかも不明だ。結局自国民でない日本人の人質など、彼らにとってはどうでもいいのかもしれない。

 そこで、だ。彼らにとっても貴重なこの情報を使って、我々のリクエストの優先順位プライオリティをあげさせろ、と官邸は言っている」

 そこで祖父江大使はテーブルの上に両手のひらを開いて並べました。カードは並べたぞ、というジェスチュアです。あとは着座するこのグレート・ゲームのプレイヤー達のお手並み拝見です。

「さぁ、諸君の意見を聞こう」


 祖父江が会議室のテーブルに置いた課題はズシリと重く、居並ぶエリート外交官達を押し黙らせるに十分でした。

「……筋は、通っていますね」

 年かさの矢作が口を開きます。彼はその一言で、菅官房長官の指示を簡潔に評しました。これで場の空気は、官房長官の意見を受け入れた上でどうするか、を議論する方向に傾きます。

「米国政府の意思インサイトにも合致し、これなら我々が望む答えを得られるかもしれない」

「でも、どのルートでそれを伝えるんですか? 水面下の交渉で話すようなネタじゃないですよ?」今まで口を閉ざしていた中堅の齋藤がそう言いました。

「その通り」と、矢作が答えます。「これは直接的な軍事作戦のきっかけとなるインテリジェンス(情報)だ。彼らはそのタイミングでその施設にスマート爆弾を投下するかもしれない。あるいはヘリで急襲し、敵を生きたまま確保するのかも。いずれにせよ、彼らの今後のIS国対策の基本姿勢プリンシプルにかなりの影響を与える重要な情報であることに間違いはない」

「誰に伝えるんです?」

「この情報の価値をしっかりと理解し、かつ我々のリクエストにもコミットできる人物、ということになるな」

中央情報局ジ・エージェンシー」と、齋藤が矢作の意図を読んで答えました。「米国情報コミュニティのまさに中心であり、かつ、ホワイトハウスとの直接のラインも通じています」

 矢作は大きくうなずきました。「同意する」

 そして続けます。「では、齋藤くん。私から君に問おう。『誰が』、と、」


 48歳。自他共に認める中堅どころの齋藤は、この会議が知らぬ間に、『祖父江組』の教育の場になっていることに気づきました。教育者は祖父江大使自身。その大使は口を閉ざして議論の行方を静かに見つめています。そして番頭格の矢作が祖父江の意思を代弁し、中堅の齋藤とまだこの世界でキャリアの浅い吉川を巧みに議論に巻き込んで、教育しているのです。いや、教育というよりも評価でしょうか。与えられた課題に対して正しい判断ができるかどうか。それを詰め寄られてるのが今の状況なのでした。齋藤の向かいの席でのほほんと座っている吉川には、まだこの状況が読み取れていないのだ、と分かりました。

 齋藤は逡巡します。話の内容から言ってもこれは大使自身が出かけて行くべき案件です。露払いのような自分が行ったところで、情報だけを吸い取られ、こちらの望む結果は得られないかもしれません。

 しかしここで自分が行く、とはらをくくれるかどうかを祖父江と矢作に試されているかもしれない、と齋藤は思うのです。それは現実的ではないけれど、その心意気こそがポイントなのでは?

 しかし齋藤は、

「大使…」

 と言葉を吐きました。

 途中の努力や意気地など、このチームは求めていない、と瞬間的に悟ったからです。全ては同胞の救出のため。その成果こそが唯一、必要なものだからです。

 その言葉を受け止めて、矢作は祖父江に向き直りました。

判事ユア・オーナー?」と芝居がかって祖父江に声をかけます。まさに裁判の判決を求める弁護人のように。

 祖父江大使は指先を齋藤に向けて言いました。

支持するサステイン


 大きめのスプーンへ、三角形のパラフィン紙に包まれた粉を丁寧に注ぎます。スプーンを少しだけ揺らして、小山になった粉を平らにならすと、左手に持ったライターを揺らし、スプーンを下から炙ります。

 すると数秒もせず、粉が端から液化し始めます。その液体が、今度は小さく泡立って気化してゆきます。

 その蒸発した気体に鼻を寄せ、アレックスは息を吸い込みました。ツン、とする匂いとともに鼻腔がたまらなくムズムズした後、30秒ほとで一気に気分が変わります。世界が彼を受け入れ、彼もまた、世界を受け入れます。


 俺は間違っていない。俺は正しい行いをしている。世界はいびつにねじ曲がり、善悪は反転して正義が無残に押しつぶされてゆくなかで、俺だけは信念を曲げずにゆくべき道を歩いている。そして世界もそれを正しいことだと後押ししてくれている。そう信じられるようになります。


 アレックスは、もはや自分が元の世界に戻れないことを知っていました。ダブリンの生ぬるく甘い故郷にも、ロンドンのきらびやかな都会の街路にも。エゴサーチをすれば、『ベッカム』なる黒頭巾の人物が、国際指名手配をされていることはすぐにも分かります。かといって、この狂信者達の集団が、腹の底で自分を異端者だと見ているのも知っていました。彼自身はイスラームに帰依しているというのに。日々の戒律だって、きちんと守っているのに(それでも麻薬は、イスラームでは厳しい禁忌の対象でしたが)。


 彼はこのまま世界のあらゆる人々の死刑執行人として、生きる他に術はないのです。アイルランドの片田舎の郵便局員の倅として生まれ、周囲に馴染むことができずにいじめられ、ひねくれて育った末に、世界の辺境のこの砂漠の地で、人の頚動脈を切っては愚にもつかないメッセージを叫ぶ係となった自分。それを彼は時に憐れみ、悲しみ、こうしてブッチャー達から密かに売買された薬物でひとときの安らぎを見出していたのです。


 前述のとおり、イスラームで麻薬は禁忌の対象でしたから、彼はそれを誰にも気付かれずに使用する必要がありました。だってここには嗜好品といえば、大して冷えてもいないスプライトしかなかったのですから。

 収容所の仲間達の寝静まった夜、自室でひそかに彼はそれを吸引していました。が、今夜は少々事情が異なりました。彼がトリップしていた時、部屋のドアが静かに開き、収容所のリーダーであるマフムードが入ってきたのです。右手をアフガニスタンの戦争で失った、かつての聖なる戦士ムジャヒディン

 ひげ面のマフムードは、床の粗末な絨毯の上でしどけなくトリップしている若者を、悲しげな表情で眺めました。当のアレックスは、リーダーに見つかったことは認識しましたが、それがもたらす因果関係まで想像することができず、ただぼんやりと片腕の男を見つめ返しました。


 その数分後、アレックスは収容所の隣にある家の二階の部屋のまんなかで、硬い椅子に座らされていました。

 マフムードは片腕のまま、正体をなくしているこのアイルランド人を担ぎ上げ、ここまで連れてきました。そしてイスに座らせると、どこからかもってきた枯れ草をアルミの皿に乗せ、ライターで火をつけました。生乾きのその枯れ草からは、白い煙が立ちのぼります。それをグッタリしたアレックスの顔の前にかざします。アレックスは咳き込み、涙を流しました。

「大丈夫だ。これはスリニーフ(セイヨウヨモギ)の煙だ。この薬草の煙は、アフガニスタンで何人もの薬物に溺れた戦友を救ってきた」マフムードは苦しむこのアイルランド人の若者に、やさしくそう語りかけました。


 実際のところ、体内の細胞にまで浸透したアルカロイド系薬物の除去は、麻薬断ちをして時間をかけてその成分を体から抜くよりほかに術はありません。しかしこのセイヨウヨモギの煙は、人間の神経系を覚醒する作用があり、薬物で正気を失っている者をこちらの世界に引き戻してくる作用がありました。

 幸いなことに、アレックスの薬物利用はまだ重度の常習に至っておらず、この煙で彼は会話ができる程度に意識を取り戻したのでした。

 その目に正気の光が戻ってきたところで、マフムードは言いました。

「何も言わなくていい」、と。

「君が自分の行いに迷いと悩みを感じていることには気づいていた。人質の生命を奪い、我々のメッセージを世界に伝えることに疲れてきたことも知っている。それは確かに残虐で過酷な勤めだ。替わりの者がいれば、と思う。インターネットを見れば、我々が狂信者であり、少年兵や異邦人を洗脳し、使い捨てにしているというプロパガンダがあふれている。しかしそれが全くの嘘だということは、君も知っている通りだ。我々は神の使いだ。我々は我々の信念に従って、神の前で恥ずかしくない行動をとっている。だから君にも、その身を滅ぼしてまでこの勤めを行えと命令するつもりはない。

 だが、友よ。

 分かってほしい。

 我々は世界から異端視され、激しく攻撃されている。彼らが信じるルールと違う、というそれだけの、たったそれだけの理由でだ。世界は人々の多様性で成り立っているはずなのに、彼らはそれを理解することすらできない。だからこそ、我々は戦わねばならないのだ。我々の信念のために。我々の子どもたちの信じる世界を守るために」


 それを聞いて、アレックスは思い出しました。

 ダブリンで惨めな暮らしを送っていた自分と、世界のなかで同じように孤立し、それ故に足掻あがいている彼らに共感したことを。正直に言って、冷えたビールも許さないアッラーの教えはいささか厳しすぎるのではないか、と思うことがあります。けれどもこのマフムードの言葉は彼に、彼らと自分が腹の底で共感しあえるのだというシンプルな事実を思い起こさせました。

 俺は、世界に裏切られた俺と、世界から憎まれている彼らのために、なすべきことがある。神様が彼にそう囁いた気がしました。

 ボロボロにやつれたアレックスは、しかし目に戦いの火を宿し、マフムードを見て笑顔を浮かべました。

「あなたに…、あなたがたに、平安の訪れるよう、ぼくもぼくのできることをします」

 その言葉に、アフガニスタンの歴戦の勇士もまた、笑顔を返しました。一本しかない腕を伸ばし、ふたりは握手を交わしたのです。

 最後にマフムードが言いました。

「あの日本人の件はまだラッカから連絡がこない。期日まであと5日。また君の出番がくるかもしれない。その時は力を貸してくれ」

「わかっています」

「それにしても…」と言ってマフムードは、顎ひげを触りながら、窓の外を眺めました。「引越し時かもしれない」

「引越し、ですか?」

「ああ」そしてマフムードは窓の外で明け始めた東の空に向けて、指をさしました。「最近、誰かに見られている気がするんだ。もしかしたら米軍の偵察機がこの上空を飛んでいるのかもしれないな」

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