第19話


 いすゞの四輪駆動車に乗って、草木の少ない乾いた荒野を2時間。四輪駆動車のストロークの長いサスペンションをもってしても、左右に揺れ動く振動を抑えることはできません。道路は舗装されていましたが、土や砂をかぶって、小石も散在しています。だから地平線まで一直線のハイウェイですが、とてもアクセル全開では走れないのです。

 馬頭はしかし、その揺れに易々と耐えられました。運転手はアラブ人のドライバー。砂漠育ちのふたりともは、平気な顔をしてクルマに揺られていましたが、大使館付きのネクタイを締めた外交官は、気の毒にも真っ青な顔をしていました。


 やがて緩やかな丘を超えると、そこに小さな町が見えてきました。町といっても十数軒の民家とひとつの大きな屋敷だけです。むしろその町より、それを囲む緑の畑の方がはるかにインパクトがありました。長く乾いた砂漠を走った後に、こんな緑豊かな大地の風景を見ると、不意に涙が出そうになります。この地をここまで育てた人の手とは、なんと素晴らしいものでしょう。

 でも奇妙な感傷にとらわれぬよう、馬頭はわざとクルマの窓を開け、その地の風の匂いをかいだのでした。乾いた砂と、生き生きとした農地の匂いが、彼の鼻腔を刺激しました。


 やがて彼らは屋敷の門の前でとまり、アラブ人のドライバーがクラクションを鳴らしました。すると鉄の柵でできた門が、しずしずと開いていきます。そこには小型の機関銃を持った門番が立っていました。運転手が挨拶すると、門番は機関銃を屋敷の方に振って、敷地内に入ることを許してくれました。

 二階建ての白い石造りの家屋の前で、屋敷の主人が彼らを待っていました。あずき色のチェックのカフィーヤ(頭巾)をかぶり、紺色のディジターシュというゆるいワンピースの上着を着ていました。年の頃でいえばまだ、四〇代前半といったところでしょうか。

 部族の族長といえば、馬頭が幼い頃は年かさの老人ばかりでしたが、いまはこんな若い世代がその役を務めるようになったのだな、と彼は思いました。時代は変わってゆくのです。


 クルマから降りた馬頭を見た相手も、目を見開いていました。

「プリンス・アリから妙な日本人が行くからと連絡をもらっていたが、なんだお前は。湾岸人のつもりか?」

 彼は片手に持ったiPhoneをかざし、電話があったことを伝えながら言いました。こんなところにも、携帯の電話回線と、ハンドヘルド・コンピュータが普通に使われています。


 族長を驚かせた馬頭はといえば、先日アンマンの市場で買い求めた白いカフィーヤに、これまた真白なカンドーラというアラブのワンピースの民族衣装を着込んでいました。

「私の国籍ナショナリティーは日本だが、私はUAEで6歳から17歳まで育った。私の出自アイデンティティーはアラブにある」と、彼は胸を張って答えました。白装束はこの地域ではUAEやサウジアラビアなどの湾岸諸国の民族を指すのです。

「そうか。お前はジャパニーズであり、湾岸人ハリージィであるのだな。確かに面白い。アッラーには帰依しているのか?」

「私の家族はブッダと日本の土着神を信じている。私も同じようなものだ。だが、ムスリムは尊敬しているし、この地ではアルコールは口にしない」

 わかった、といってその族長は右手を差し出しました。

「ムハマンドだ」

「馬頭だ」

 そして彼らは握手をしました。


 馬頭はこのムハマンドを、ヨルダンの首都アンマンに住む王家の一員、アリ王子に紹介されました。

 プリンス・アリとは一面識もなかった馬頭ですが、UAEのある王族に伝手つてがあり、その王家の口利きでアンマンの宮殿を訪問し、窮状を訴えて話を通してもらい、とうとうこんな砂漠の真ん中のオアシスまで出向いてきたのでした。 日本国政府が中東政策の懐刀として彼を重宝するのは、こんな型破りな性格と行動力があるからなのです。


「それで? 日本人がわざわざこんな地の果てまで何を聞きに来た?」

 彼らはムハマンドの屋敷の応接間にいました。応接間といっても西欧のようにテーブルや椅子があるわけではありません。シルクでできた高級な絨毯の上に車座に座り、それぞれの手元には途方もなく甘い茶が配られていました。

「イスラミック・ステート…」と、馬頭は切り出しました。

 その言葉に、ムハマンドは顔をしかめました。

「…また奴らか」

「恐らくあなたはご存じないと思うが、彼らは我が同胞を誘拐し、法外な身代金を要求している」

「それが彼らのビジネス・モデルだ。お前もアラブの人間というなら知っているだろう。テリトリーに現れた不信心者を捉えてはその者の祖国に金を要求し、戦争を起こしては無辜の市民を誘拐して兵士に仕立て、難民を生み出しては闇ルートでヨーロッパに送り込みその代金を搾り取る。白人たちが彼らを踏みつければ踏みつけるほど、彼らは狡猾に立ち回り、あらゆる機会を捉えては金を生み出す」

「では彼らはアッラーの名を騙る集金マシーンだと?」

「それも元を辿れば西洋人のせいだ。東洋人のお前には分からないだろうがね」

「ムハマンド。私は東洋人でありながら、シャーイ(アラブ式お茶)と干しデーツ(ナツメヤシの実)を食べて育った。砂漠の地平線からのぼる朝日を眺め、友だちがサッカーの試合中にサラート(イスラム式礼拝)を行うため、勝負を一時中断することにも文句を言わなかった。私は限りなくアラブの文化とルールを尊重して過ごしてきたのに、あなたがたアラブの民は私の肌と瞳の色だけで、私が何もあなたがたを理解していないという。私はアッラーに帰依はしていないが、アッラーが肌の色の違いで子どもたちを区別しないことは知っている」


 早口のアラビア語でやり取りされる緊迫した内容を、お付きの大使館員はほとんど理解できていませんでした。時にアラブ人の側に必要以上に立ち入ろうとする馬頭の動向を監督する目的でつけられた外交官でしたが、こんな砂漠の真ん中のオアシスというアウェイの地で、彼ができることは何ひとつありませんでした。


「なるほど。プリンス・アリのいう通りだ。お前は面白い男だな。そして私はお前のような奇妙な日本人をもうひとり、知っている」

「もうひとり?」

「お前がここへ来た目的も知っている。プリンス・アリから話は聞いていた。だが、お前がただの外交官なら、そのまま追い返そうと思っていた。しかしお前は私に、あの男のことを思い出させた。ある日ここへやって来て、しつこく私に迫り、この地で農業を始めさせた男だ」

 馬頭はあの、丘を越えた瞬間に見た鮮やかな緑の風景を思い出しました。あの緑は、我が同胞が蒔いた種によるのか、と彼は感慨に打たれました。

「その男は、いまどうしていますか?」

「死んだよ」

「死んだ?」

「ああ。奴らに首を切られ、地面に横たわった胴体の上にその生首を置かれてね」

 ゆっくりと話されたその言葉に、大使館付きの外交官が思わず口を開きました。

「サトウ…ヨシオ」

 険しい顔をしたムハマンドの視線が、若い彼に突き刺さります。胡座をかく彼が思わずたじろぐほどに。

「私たちには、彼はヨーシュと名乗った。ヨーシュは向こう見ずな情熱家だが、この地に暮らす我々のことを常に考えていた」

「私は彼を知らないが、我が同胞にそんな男がいたなんて…」

「人種や文化の違いを乗り越えて、私の目をまっすぐに見て話す男だったよ。彼らにあの眼力が伝わらなかったんだな、とあの残酷な映像を見て思ったよ」

「ムハマンド…」馬頭は、言葉を失いました。


 あの緑の畑の風景を夢見、この地で様々な困難を乗り越えた男。同じ日本人として、国境も国籍も超え、彼らの側に立った男。知り合いになれたら、きっと無辜の親友になれたろうと思うと、胸が熱くなりました。こみ上げるものをおし留めようと、彼は歯を食いしばります。

 おれが外交官をしているのは、こういうことだったのか、と馬頭の心のなかに静かな理解が訪れました。それは水鏡のような静かな水面に落ちる、ひとしずくの落水です。けれどもそれは、止まった水面にゆっくりと、同心円の波紋を広げ、静かに馬頭の心のなかを充たしてゆきました。

「ムハマンド、頼むから力を貸してくれ。あらたな市民の犠牲を、我々はなんとしても防がねばならない」

 ムハマンドは席を立ちました。そして部屋の奥からひとつのナイフを持ってきました。刃渡り30センチほど。先端が奇妙に湾曲した武具です。それを皆の座る絨毯の真ん中に置きました。鈍く光る柄は何かの動物の角を削り込んで作られており、柄の後端と鞘には装飾目的の宝石が埋め込まれていました。

「我々部族のジャンビーアだ」

 ジャンビーアとはアラブ人に伝わる伝統的な装身具で、自らのアイデンティティや出身を表明する短剣です。

 ムハマンドはじっとその刃物を見つめ、言葉を途切らせました。誰もがその先を求めつつも、それを急かしてはいけない雰囲気を感じ取っていました。

「―――我々アラブの部族は、国家の枠組みに捕らえられていない」

 やがて彼は、その重い口を開きました。

「我が部族はこのアラビア半島の西側に渡って広く存在する。サウジアラビア、イラク、ヨルダン、そしてシリア。我々がこの地を住処としたはるか後になって決まった国家という枠組み。そのまっすぐな国境線は我々にとってはつまらぬ決め事に過ぎない。我々は常にその、他人が引いた線を超えてこの地をさすらいながら暮らしている。

 だから、あの者たちが西洋人には理解できない形で国家を名乗り、国連加盟も諸国の承認もなく国家を運営していることは理解できる。我々はそうやって、何千年も暮らしてきたからだ。

 だが、彼らがやっていることに、我々は賛同できない。我々の伝統と自立を自らの手で破壊する狂った行いだ。

 しかし彼らのプロパガンダと、参加者に対する優遇の甘言に、部族から何人かの若者が彼らのもとに行ってしまった。そして…」

 ムハマンドはそこでいったん言葉を切った。

「彼らはそこで、人間兵器として扱われている。使い捨ての武器のように。心を持たない機械であるかのように。私には、それが耐えられない」

「あなたがたの部族でさえ…」馬頭はその後の言葉を継げなかった。

「お前とお前。ここを出てゆけ」と、ムハマンドはアラブ人の運転手と、大使館の若者を指差し、人払いを命じました。ふたりは言いつけに従い、部屋の外へ出ます。

「お前の携帯電話の番号を教えろ」ムハマンドはそう言いました。馬頭は言われるがまま、それを示しました。何か重要なことが伝えられる、という予感に馬頭は身を硬くしました。

「私はお前の同胞に関する情報はもたない。だが別の情報を伝えることができる。ラッカのバザールの中に、この地域では珍しい中国のレストランがある。我が部族のものがそこで、不信心者の中国人に雇われて下働きをしている。給与の搾取も甚だしく、彼は怒り心頭だ。そこに時折、彼らのカリフが訪れる、という……」

 ムハマンドはそこで言葉を切りました。

 最後まで言わなくても、その真意は伝わります。そのことは馬頭にもしっかりと理解されたのです。

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