ひと呼んで外務省の《ジーニー》(砂漠の国の人々の記憶)

第18話



 ―――――

 標題:交渉の行方について

 本文:

 ナイトバードへ


 今回君にメールするのはなかなか心苦しい。その理由は君も知っているし、私も知っている。

 すなわち、我々は互いのクライアントにとって有効な交渉窓口ではなくなりつつある、ということだ。これまで我々が築きあげてきた努力も友情も、今回の一連の出来事で無意味な絵空事だったことが判明した。


 君のボスたちも、きみの頭越しに例の日本人についてマスコミのインタビューを受け、また私の顧客である日本政府も私に断りなくあのような強硬な首相コメントを出している。誤解と行き違いが重なり、お互いにとって不幸ばかりが続いている状況だ。


 そこで私は、私のクライアントに対して交渉をしていることを君に明かそう。


 現在五千万ドルと設定されている今回の身代金だが、私はそれを五千五百万ドルにすべく彼らを説得している。まだ交渉は決着していないから約束はできないが、これは私からのせめてもの誠意だと理解してもらって構わない。


 その決着には数日の時間を要するが、決して君を失望させることがないよう努力する。


 そこで、先んじて今回の金の受け渡しについて決めておきたい。前回のスペイン人の時と同様に、仮想通貨での支払いが安全かと思うがどうだろうか?

 日本人の引き渡しについては、そちらが彼の身の安全を保障できる街の警察などの公的機関の建物の前で落としてもらえれば結構だ。


 良き返信を期待して。

 チャオ


 ベネディクト・オーウェン


 ―――――


 標題:Re:交渉の行方について

 本文:

 ベネディクトへ


 メールを確認した。

 あなたは現状を残念がっているが、私はすこしもそれを理解しない。何故なら私と私の国は、常に意思を共有し、一体であるからだ。あなたはあくまでも代理人エージェントであるから、あなたのクライアントとあなたの意思は必ずしも一致していないのだろうが、私たちにそういう齟齬は生まれないのだ。


 ただ今回の一件であなたの立場が下がり、交渉人としての権限が弱まるのは残念に思う。だからあなたが金額アップに向けて努力してくれているのは喜ばしい。


 支払いと引き渡しに関する提案には同意する。

 あなたはあなたの立場で全力を尽くすとの同様、私も最善を尽くしている。

 これからも友情は続く。

 あなたの上に平安を。


 ナイトバード


 ―――――


 ヨルダンのクイーン・アリア国際空港をった日本政府公用車は、国道35号線をアンマン市内に向かって疾走していました。

 ガラスとステンレスで出来たモダンな空港。それは世界のどこへ行っても見られるものです。あるいはそういう国際空港の見本帳みたいなものがあって、各国の空港建設の発注者はそこから好きなデザインを選んでいるだけなのかもな、と馬頭拓郎ばとうたくろうは皮肉な笑みを浮かべました。だからどんなに海外旅行を繰り返しても、空港だけはどこの国のものか、全く記憶に残らないのです。致し方ない。


 それより空港からアンマン市内へ向かうこの国道から眺める風景こそが、いかにもこの国の実状を表している、と彼は思いました。

 なだらかな丘陵地帯には農作物が植えられ、コンクリート製の白いアパートメントが点在しています。でも国道の舗装の具合も良くなく、クルマは絶えず小さく揺れ続きます。街灯も少しも見られないから夜は真っ暗に違いがありません。畑の向こうには時折、荒野のような未整備の土地も見えます。馬頭の育ったUAE(アラブ首長国連邦)では見回す風景は同はじような砂漠でも、アスファルトの質が異なります。だからクルマの乗り心地がずいぶん違うのです。それがつまり、この中東地域での産油国であるか否かの違い、ということになります。


 ここヨルダンは、同じ中東の国とはいえ、石油を産出しないのです。だから国家財政の成り立ちがどれだけ豊かか否かによって、こういった社会の基本インフラの質に著しい差が出てしまう。それは仕方のないことです。

 でも、それによって生まれる国民の意識もまた、ずいぶん変わってゆくものです。彼が幼少期を過ごした頃にくらべ、いまの彼の故郷(UAE)はまさに日本のバブルそのもの。ドバイでの浮足立った金持ちたちが、自由気ままに享楽的な人生を過ごす。それがあの国の本質になってしまいました。それに比べて、石油資源に頼らないこの国の質実剛健さは、まさに自らの祖国、日本と相通じることのあるのようだ、と彼は思いました。


 いくつかの街と大きな立体交差ジャンクションを越えて、クルマはアンマン市内に入ってゆきました。目指すヨルダンの日本大使館まであと15分というところで、馬頭は運転手に「ここで停めてくれ」と告げました。大使館はまだ先だという運転手にかまわず、「あとは歩いてゆくから」と告げ、彼は路肩に停止した公用車からスッと降りてしまいました。


 久しぶりに歩くアンマンの街は、変わらず暑く、そして乾いていました。東京から来た身にとっては、高層ビルがなく、また通りが広々としている印象があります。この近くにモスクがあるはずだ、とかつての記憶をたどりながら彼は、アンマンの街を歩いてゆきます。


 馬頭拓郎は日本の外務省の職員です。

 外務省中東課の課長を務める外交官です。今回のIS国邦人誘拐事件の現地対策本部の責任者として、霞が関から急遽、この地に派遣されてきました。対策本部の建前上の責任者は駐アンマン大使ですが、外務省の《ジーニー》と呼ばれる馬頭が、官邸直々の指名で、現場コントロールのためにやってきたのでした。

《ジーニー》とはもちろん、アラブの魔法のランプの妖精のこと。それの半分は彼のアラブ通を比喩し、もう半分は彼の日本人離れした巨軀を揶揄した呼び名でした。

 日本生まれの馬頭ですが、石油商社マンの父親の転勤でアラブ首長国連邦のアブダビで育ち、ロンドンのケンブリッジ大在学中はアラブの王子たちと深い親交を持ち、外務省に入省してからは中東畑一筋。日本人にはおよそ理解しがたい中東人達のメンタリティを正確に把握し、イスラム教にも明るい。なにより日本人離れした大柄な体躯からひと呼んで、『外務省のジーニー』。

 安倍政権の中東対策の懐刀として、本人の意向とは反対に霞ヶ関の中東課を仕切らされていました(本人は息詰まる東京より、慣れ親しんだ熱砂地帯の駐在員を熱望していたのですが)。


 馬頭はキング・フセイン・モスク近くのダウンタウンにある市場バザールを歩いています。背広の上着を脱ぎ、ネクタイを外してそぞろ歩く。色とりどりの野菜や果物が天蓋の下の粗末な棚に並べられています。肉や惣菜も見受けられます。男たちの客を呼ぶ大声と、我先に混雑した小道を行くヒジャブ(頭を覆う女性用ターバン)姿の女たち。そして様々な香辛料の香り。それを胸に吸い込むと、彼はホームに戻った気になるのです。


 バザールの外れにある洋品店に入ると、彼はカフィーヤという布を買い求めました。これは中東の男たちが灼熱の日差しを避けるために頭に巻く、あのターバンのようなものです。カフィーヤは民族や出自によって色が決まっています。当地の色は赤いチェック。しかしアラブ出身の馬頭は白い布を選びました。慣れた手つきで頭にそれを巻き、丸い止め輪をつけました。

「あんた、中国人の割に慣れてるね」と白いひげの老いた店主が声をかけてきました。

「私は日本人だ。ま、アラブ育ちだがね。ここで過ごすのにカフィーヤなしではいられない。あなた達と同じに」と彼は言い返しました。店主は破顔し、彼の肩を叩きました。


 馬頭は店を出ると、近くのカフェに腰を下ろしました。カフィーヤを巻いた東洋人は珍しいのか、店員をはじめとして様々な男たちが彼に声をかけてきます。猛烈に甘いお茶は、この地の水のようなものです。慣れた手つきでシャーイ(チャイ)を飲み、カフィーヤをつけて流暢なアラビア語を話す巨漢の東洋人。彼の周りにはいつしか数人の男たちが集まってきました。ある若い男が持っていたバッグには、イエローの玉があしらわれた小さなキーホルダーがついていました。

「おい、あんた。そのキーホルダーを見せてくれ」馬頭はその若者に声をかけます。それは黄色い七つの玉がついており、それぞれに赤い星がプリントされていました。

「これ、ドラゴンボールだね」馬頭は人なつこい顔でいいました。「すげえなぁ」

「なんで知ってるんだ?」褒められた若い男もまんざらではない顔をしています。

「あんた知らないのか? ドラゴンボールは日本のアニメだぜ。俺の国だ」

「本当か?」

 問われたその言葉に、馬頭は席を立ち、その場で腰を落として両手を左脇で合わせ、

「カー・メー・ハー・メー・波っ!」

 と日本語で大げさにやって見せました。

 おおっ、と人垣がどよめき、そして笑いが起きました。

「俺もドラゴンボール大好きだ」

「俺は悟空のファンだ」

「俺はピッコロが好きだ」

 若い世代はとても機敏に反応します。馬頭はそのひとつひとつに答えながら、場の空気をまとめて行きました。

「みんな、日本のアニメ、大好きなんだな。嬉しいよ。ところで俺は仕事でこの国に来たんだ。最近日本人がテロリストの人質になってな。君たちニュースでみたか?」

 その言葉に、集まってきた男たちの熱は一斉に冷めてゆきました。

「俺たちはテロリストじゃないし、日本人の人質なんて知らない」

「それは良くわかってる。ヨルダン人は穏やかで、信義に篤い人々だ。俺が問題にしてるのは、シリアのテロリスト達だ」

 その言葉に、彼らは互いに目配せしました。

「分かってる」と、馬頭は言いました。「ここであまり表立って口にしないほうがいいんだよな。だけど俺は彼らと話をしにきたんだ。はるかかなたの日本からね。悟空だって、ヤムチャやクリリンを救うために、どこからだって飛んでくるだろ?」

 その言葉に彼らの緊張した空気が緩みました。そして年かさのひとりが口を開きます。「あんたは悪い人じゃなさそうだし、俺たちのことも分かってそうだから言うけど。人質の話なんてここらじゃありふれてて、今さらニュースにもならないよ。それに街には奴らの兵隊やスパイも紛れてる。むやみに人前で彼らのことを言うもんじゃないよ」

 その言葉に馬頭は頷きました。


 おそらく大使館に行けば、状況のブリーフィングが行われるでしょう。様々なルートから仕入れられてきた噂が、真偽も分からぬままテーブルの上に並べられるのです。そしてそれを仕分けるのが彼の仕事です。でも、大使館と赴任先国家の政府と、いくつかのレストランとバーしか知らない、生白い大使館員たちが集めてきた情報など、大したことはないのです。

 それよりもまず、現地の水と空気を身体に入れ、地元の人々と他愛ない話をして、当地のムードを知ること。それが現地対策本部では何よりも重要なことだと馬頭は考えていました。

 あの人質解放についてめざましい進展が得られるような大きな情報は何一つ手に入りませんでしたが、ヨルダンの人たちの素顔に触れられたことは、この後の数日間、彼の行動の指針となる重要な出来事になるのでした。


 アメリカ国家安全保障局は通称『NSA』と呼ばれる諜報機関です。この物語に出てくる中央情報局(CIA)が、いわば「人」による情報収集を主とするのと対照的に、NSAは他国の「通信傍受」による情報収集を主業務としています。

 その所在地の名前とって「フォート・ミード」と呼ばれるNSA本部の来訪者用会議室に、CIA中東課のキャサリン・ターナーと、パートナーのマーカスがいました。彼らの前にはNSAの中東課の女性職員が腕組みして座っていました。

「開示できない? ごめんなさい、ちょっと言われていることの意味が分からないわ。私は正規のCIA職員で、この作戦の立案責任者よ。言うまでもないことだけど、然るべきセキュリティ・クリアランスも得ています。その私があなた達に依頼した敵性施設の通信の傍受情報が明かせない、とあなたは言っているの?」

 いつものようにまくし立てる勢いに、多くの政府職員が圧倒されるのですが、彼女に相対したアフロ・アメリカンのNSA職員、クラウディア・ラサールは落ち着いて答えました。

「いかにも。あなたがこの件の立案者でかつ、適切な手順で本件を管理していることも承知しています」

「なら、」というキャサリンの言葉をクラウディアは遮って、

「さらに言うと、各省の中東課ネットワークでのあなたの悪名も聞いています」

 それにはマーカスが素早く反応しました。

「へぇ、そりゃパートナーのぼくも初耳だ。このじゃじゃ馬はなんと呼ばれているのですか?」

 クラウディアは微笑して言いました。「ラングレーの爆竹ファイア・クラッカー

 くく、とマーカスは笑いを噛み殺しました。「そりゃ傑作だ。おい、聞いたかキャシー」

「それについて、残念なことがふたつあるわ」憮然としてキャサリンは言いました。「ひとつは私は少しも愉快ではないということ。そしてもうひとつは、百歩譲ってそれが真実を表しているとしたら、火傷するのはあなただ、ということ」

「私なら火傷する前に導火線に水をかけるわ。何はともあれ、あなたこそ、政府の上級職員にはサーやマームをつけるのを忘れがちね。覚えておくといいわ」

 キャサリンの恫喝をさらりといなしと、クラウディアは続けました。「とはいえここでいがみ合っていても始まりません。それにあなたがどんな火薬庫だったとしても、この作戦をここまで形にしたのはあなたの功績ね。だから私の権限で、状況を教えましょう。

 あなたが見つけた彼らの捕虜収容所は既に私たちの電子的監視下に置かれています。彼らが発する全ての電話、メールなどは完全に傍受され、その内容をモニターされています」

「なら話は早いわ。もうあそこが間違いのない捕虜収容所であることは確認できたでしょ? そしたら軍に連絡して強襲部隊を送るわ」そしてキャサリンはニヤリと笑って「マーム」と付け加えました。

「それがそうも行かないからここで話をしているのよ、ファイア・クラッカー。

 我々はあのキャンプの通信内容から、彼らの拠点を割り出せるのではないかと考えています。だからもう少し彼らを自由にさせて、IS国の首脳部がどこにいるのか、情報を掴みたいと思っています」

 それにキャサリンの顔色が変わりました。

「あの日本人の捕虜は、あと三日で支払い期限を迎えるわ。日本政府は捕虜の身代金を払わないことを公言してる。あなた達がそうやって悠長なことをしていると、“ベッカム”がまたナイフを使ってしまうのよ!」

「それは軍事用語でCOWと呼ばれます。casualty of war(戦争犠牲者)ね。捕虜が米国市民なら話は別ですけどね」

 カッとなって席を立とうとするキャサリンの肩を、マーカスが掴んだ。「待てよキャシー」低い声で彼は言いました。

「マーム。あなたの言うことは分かります。ですが、“ベッカム”はかつて米国市民を殺害し、ヨーロッパの同盟諸国の市民も多く手掛けた国際犯罪者です。確かに彼らを泳がせればIS国の拠点が割り出せるかもしれない。それはラッカにある、と言われていますよね? しかしラッカのどこか、まではまだ分かっていない。そして彼らがそう易々とその情報を通信に乗せるとも思えない。またメールや電話は様々な防護措置をとられ、回線探知から敵の拠点を見つけ出すのはほぼ不可能だ。つまり、ラッカのどこに目標がいるのかを、うっかり彼らが漏らすのを期待するしかない、というのがあなた方の作戦の根本です。だがそれと同盟国の人質の命を天秤にかけるには、リスクが大きすぎる」

「リスク?」

「そう。もし万が一、我々がこのキャンプの所在を知っていたにもかかわらず、人質救出作戦を実行しなかったことが明らかになった場合、日本政府と我々の関係はこじれる。それでも敵拠点の位置がつかめたならまだしも、制限時間内にその功績も得られず、無為に同盟国の市民が殺害されるのを静観してた、とあっては目も当てられない」

「政府の機密事項よ。あなた方が喋らない限り、外部に漏洩などする訳がない」

 マーカスは、打ち合わせ室のテーブルに人差し指を突き立てました。

「ウィキリークスの事件、あなたも忘れたわけじゃないですよね? 三年後、あるいは五年後かも。あなたがこのフォート・ミードを巣立って、上院議員選挙に出るときかもしれない。思いもよらないタイミングで、あり得ないことは起こるのです。あなたにとっての汚点は、増やすべきじゃない。これはそれほどのリスクを孕んだ作戦ですよ?」


 その後、NSAを出てCIAラングレーへ戻るクルマの中。ハンドルを握るマーカスの横で、上機嫌のキャサリンが言いました。

「あなた、最高にイカしてたわ」

「そりゃどうも」

「やっぱり私のようなファイア・クラッカーには、あなたみたいな消防士ファイア・マンが必要ね」

「俺はそんな火事場に出て行かず、穏やかなオフィス・ワーカーとして勤務し続けたいよ」

 そう言ったマーカスの右手に、キャサリンは自分の左手を置きました。

「セックスの時はそうはいかないのよ」

「おいおい、俺は妻子持ちだぜ」

よく知ってるアイ・ノウ・ウェル(

「『スピード』の時のサンドラ・ブロックにでもなったつもりかよ」

 微苦笑とため息をついたマーカスに、キャサリンはウィンクをしたのでした。やれやれ。

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