第16話


 マカオは中国南部の珠江の河口にあるマカオ半島に広がる都市で、1999年まではポルトガル領でした。そのせいで公用語も広東語とポルトガル語が混在し、街の交通標識も両言語が並列して書かれています。


 マカオ空港はその海側の一帯を使って広がっており、飛行機は海をかすめて着陸することになります。

 東京からだと、羽田空港からの直行便はなく、成田空港からの離陸となります。午前中の生放送を終えて、千葉県の成田空港まで社用車で送られて、そこから丁度5時間のフライト。

 降り立った四月のマカオ空港は、東京の真夏を思わせる暑さで、夏物のスーツを着てこなかった羽鳥慎一はそれに閉口しました。


 コンパクトな機材トランクを持った相棒のディレクターと共にタクシーに乗り込むと、目指す五つ星ホテルの名を告げました。

 グランドハイアット・マカオは、会談の指定場所にしては、やたらと高価なホテルです。でも仕方がない。それが彼らの出してきた条件なのです。もうひとつ、マカオ空港ではサングラスの着用も禁止されていました。『空港に降り立ったら、あなたの顔を確認したいから、サングラスなどはつけないように』とメールには書かれていました。空港からグランドハイアットまではクルマで五分。彼らはそのメールの指示に従い、指定された部屋にチェックインしたのでした。


 羽鳥の事務所に羽鳥宛のメールが届いたのは昨日のことです。あの哀れな邦人人質について、直接質問を受ける用意がある、とメールは告げていました。差出人は、サンドパイパー(シギ科の鳥)というハンドルネームを使い、日本語で連絡してきました。


 羽鳥はこれまで、日本のテレビ局でエンターテイメント番組の司会業を中心として活躍する、元放送局アナウンサーの人気タレントでした。

 ですがこれは明らかに報道畑のスクープになります。これがかなりの話題となることは間違いなく、また彼自身の硬派な一面を世間に印象付けるにはまたとないチャンスでした。

 しかし同時に、内容如何によっては放送できない、或いは放送に際し、政府の顔色を伺わなくてはならなくなる重大事を含む可能性が多分にありました。


 メールでは、自分たちの身の安全を確保するために、中国のマカオのホテルで取材を受けること、そこに来て良いのは羽鳥と他には一名のみ、いうまでもなく政府や警察・軍関係者の同行は行わないこと、インタビューを受ける人間は日本語が話せること、などが記されていました。


 羽鳥と彼の事務所は早急に内容の検討をしました。まずはこれがフェイクでないことの確認が最優先だとなり、その旨を問うメールを彼らは返信しました。

 それに対し、「返事はこれ一度だけ、これ以上の質問は受け付けない。本状への返信は、あなた方がマカオの指定されたホテルに来るか否かの返事だけを送ること」という内容の連絡がきました。そこにはマカオでの振る舞い方(空港でサングラスをつけるな、等)が細かく記されていました。そして彼らが本物のであることを証明するために添付された映像データは、わずか4秒ほどの短いものでした。でもそれは、羽鳥たちを納得させるに十分な説得力がありました。


 そこには、あの人質の吉村耕三氏が写っていたのです。


「羽鳥さん、助けてください」


 と、オレンジ色のつなぎの服を着た吉村氏は、カメラに向かって一言だけ、告げたのでした。

 もはや彼らに選択の余地はありませんでした。ただひとつ、彼らを悩ませたのは政府に事前にこの件を報告するか否か、でした。

「これを政府に黙って放送する局などないぞ」と事務所の社長がいいました。「元局アナの君なら、これがどういう意味かわかるだろう?」

「なら、それは収録した後に相談すればいいじゃないですか」

「収録時に何かあったらどうするんだよ?」と、この事務所の協同経営者である元アナウンサーの有名司会者タレントが言いました。

「何かって、何ですか?」普段はこの先輩には一切逆らわない羽鳥も、この時ばかりは食ってかかります。

「もしお前が、さらわれたら?」先輩が言い返します。

「それなら彼らの目的は果たせなくなりますよね? 彼らは私というスピーカーを使ってプロパガンダをしたいんじゃありませんか? それなのに私をさらう意味が分かりません」

「ならばせめて、内密に政府に通達し、護衛をつけるのはどうだ?」羽鳥という事務所の稼ぎ頭の安全をなんとしても保護したい社長は食い下がります。

「それを排除するために彼らは東京でなく、自分達の庭であるマカオを指定してきたのではないですか? SPなんてつけたところであっという間に身元がバレて、取材はご破算になるに決まっています」

「おい、羽鳥」と、先輩が言いました。「そこまでして報道に食い込みたいのかよ? お前は既にカンバンだって持ってるじゃないか」


 羽鳥は長く勤めたテレビ局を退社後、フリーの司会者となり、他局で平日午前中の帯番組の司会を任されていました。その番組は彼の名前を冠したタイトルを持ちます。先輩はそのことを指摘したのでした。日本国内の数多(あまた)いるアナウンサーのなかで、『カンバン』と呼ばれる自分の名前をつけた番組を持っているのは、この羽鳥と先輩のふたりだけでした。


 羽鳥はわずかな沈黙の後、口を開きました。

「―――怖いんですよ」、と。

 そして彼は続けます。

「TVは若さだけの局の女子アナと、大手芸能事務所のアホみたいなジャリタレで情報番組が成り立つと思ってる。私みたいな司会者なんて、使い捨てなんですよ。昭和の頃、自分の名前を冠した番組を持ってた名司会者には、言葉にもっと重みがありました。それは報道が彼らの根っこにあったからです。彼らは取り替えの効かない存在だった。私もそうならないと、いけないんです」

 それは、三人だけの会議室に投げ出された、羽鳥の本音でした。社長も先輩も、そんなことはない、と彼を慰めようと思いましたが、そんな軽はずみな言葉を許さない空気が、会議室のなかに張り詰めていました。

「分かったよ」と、先輩が言いました。「お前に任せる。ただし、無茶はナシだ。いいな?」

「宮さん、」と社長は先輩アナの名を呼んで、なおも抵抗しました。「俺は反対だよ。羽鳥の気持ちもわかる。だけどこれはリスクが大き過ぎる、お前の安全も、政府や局からの圧力も、何かあったら誰もケアできないほどの大ごとになる」

「じゃあ、内容によっては、放送を取りやめましょう。あるいは局経由で政府に確認したっていい。いずれにせよ、ネタがなけりゃリスクも生まれません。とにかく取材させてください」羽鳥はめげずに言葉を並べたてました。いま目の前にあるチャンスを、わずかなリスクで失うわけには行かなかったのです。

「何かあったら、自分が責任を取ります」と見得を切って。

 そしてその通り、彼らの予想だにしない事態が引き起こされ、一介のTV司会者に過ぎない羽鳥には、責任など取れるわけがなかったのです。


 そんなことは少しも想像していない羽鳥は、ホテルの部屋で窓の外の風景を見ていました。12階。立ち並ぶビルの向こうに鮮やかなエメラルドグリーンの東シナ海が見えます。そして横に長く続く、空港の滑走路が風景のアクセントになっていました。

「羽鳥さん、ビビってないんですか?」

 羽鳥の背中に、同行したディレクターの谷崎が声をかけました。

「そりゃビビるさ。国内で誰も経験したことがないテロリストへの直接インタビューだもん」

「そうじゃなくて…」

 谷崎とは長い付き合いの羽鳥は、途切れた言葉の先が分かっていました。確かに身の危険もある。厄介な内容になることも考えられる。でも、この橋を渡らなければ、五年先の自分に未来がないことも分かっていたのです。

 と、部屋の呼び鈴が鳴りました。

 ふたりの身体が硬くなります。

 谷崎がドアに向かいました。

 ドアを開けるとそこに、白い制服を着たホテルのボーイが立っていました。そして一通の封筒を渡してきたのです。


『羽鳥様』と英語で書かれた封書。

 彼らはそれを開けると、中からQRコードがひとつだけプリントされた紙が出てきました。

「これ…は?」谷崎が聞きます。

「こうしろ、ってことでしょ?」と言って羽鳥は自分のAndroidスマートフォンを取り出し、カメラモードにしてその白黒のランダムなドット模様を撮影しました。するとスマホは自動的にひとつのwebページを表示します。

 谷崎と羽鳥、ふたりが覗き込むそのページには、白い画面にひとつの動画が収められていただけでした。その動画には白い壁が映し出されているだけでした。すると急に、スマホから警告の小窓が表示されます。


《アプリケーションはビデオカメラの起動をリクエストしています。許可しますか?》


 その質問の下には『はい』のボタンしかありませんでした。彼らには、最初から選択の余地というものがなかったのです。

 羽鳥がはい、をタップしました。

 すると、白い画面内に自分を映すサブウィンドウが現れました。窓を覗き込む羽鳥と、顔が半分切れた谷崎がそこには映っていました。


 誰も、何も発しない時間が過ぎてゆきます。

 そして、相手の白い画面に動きがありました。相手の画面はどこかの部屋を映し出しています。ホテルの部屋のような殺風景な景色でした。そして窓が入ってきます。窓の外は一瞬ホワイトアウトし、徐々にカメラの露光調整が効いてきます。

 そこには、エメラルドグリーンに輝く海と、海辺の空港が見えていました。

 あ、と彼らは思いました。

「そう、あなたがたと同じホテルにいます。ただし、少し下のフロアです」

 おなじは、おなち、と。ただしは、ただち、と。少しだけ奇妙なイントネーションは、相手が日本語を母国語としない人物であることを感じさせます。しかし映像は青い海を写したままでした。

「あなたが、サンドパイパーですか?」羽鳥が尋ねます。

「いえ、彼は代理人です」代理人の、だ、が発音できず、たいりにん、と相手は言いました。「私の名前はヤムです」

「ヤム、さん」

「そうです」

「あなたが私をここへ呼んだのですね?」

「そうです。大事[たいち]なお話をしたいです」

「直接、お目にかかることはできないのですか? 私たちは約束通り二人きりできています。日本政府の監視はありません」

「それはできません。私[わたち]の安全のためです」

「すいません、ディレクターの谷崎と申します」そこに谷崎が口を挟みました。「私たちはTVクルーです。視聴者のために映像を撮影しないといけません。そのために私はカメラを持ってきました。どうかそちらのお部屋に伺わせていただけませんか?」

「伺わせていただけません」やや奇妙な言葉遣いの返事が戻ってきた。「あなたたちはここで交わした全てのやりとりが、映像データとして受け取られます。いまこの瞬間も映像は録画されています。それを自由にお使いすることを許します」

「―――分かりました」谷崎が返答し、カメラの視界から消えた。

「ではせめて、ヤンさんの顔だけでも見せていただけませんか?」羽鳥が食い下がります。彼はどうしても、放送される映像の真実味を高めたかったのでした。本物のテロリストと会談している、という映像の証拠が欲しかったのです。

 すると、窓の外の海と空港を映していたカメラが、また部屋の中に戻ります。白い壁は彼らがいるのと同じ調度です。

 そしてカメラの視界の中に、ひとりの男が入ってきました。男、といっても黒いシャツに黒いジャケットを着て、目、鼻、口だけを露出させた黒い覆面マスクを頭からかぶっています。よって性別はその風体と声から想像されるだけなのですが。その姿は中年以降の日本人には『ショッカーの戦闘員』を想像させるものでした。厳粛な会見の場が、白けそうになる気が、羽鳥にはしました。が、彼の気持ちとは関わりなく、ヤンと自称する男は話を始めました。

「私たちは驚いています」、といきなり切り出しました。

 羽鳥は会話のイニシアチブを取ろうと、言葉を挟みました。「驚く? 何に驚いているのですか?」

「日本の大統領の言ったことです」

「ヤンさん、私たちの国に大統領はいません。政府の代表者は総理大臣です」

「アベ、です」

「安倍総理の発言に驚かれたのですね? 一体どのような点に?」

「アベが、身代金を払わないと言ったこと、驚きました。インターネット見ると、多くの日本人、お金払わなくてもいいと言っています。私、それはひどいと思いました」

 民主主義を遂行する上で、人の生命を商品にするのは言語道断だ、と羽鳥は思いました。そしてその言葉はつい先日、自分が番組の中で総理の言葉を賞賛する際に口にしたものです。喉元までそれがせり上がってきましたが、彼はその言葉をグッと飲み込みました。なんと言っても今の自分はインタビュアーなのです。インタビュイーに素直に言葉を話させることが使命なのだ、と思い返したからです。

「身代金は必ず払われるものなのですか?」

「他の国、きちんと支払いくれました」

 嘘だ、と羽鳥は思いました。アメリカも中国も、身代金は支払わないことを彼は知っていたのです。しかし彼が言葉を話す前に覆面のテロリストが話し始めました。

「日本人はもっと心のある人たちと思っていました。危ない目にあう日本人に知らないふりしない人たちと、知っていました。このままだと、ヨシミューラさん、良くないことになります」

「良くない、とは?」

「私たちより、別の人たちに、渡されます」

「え?」と、羽鳥は言われたことの意味がわからず、つい頓狂な声を出してしまいました。「渡される、というのは、どういうことです?」

「私たちは人質の価値のない人を生かしておけることはしないのです。だから彼を人質にできる人たちに買ってもらいます」

「買ってもらうって…」羽鳥はつい、本音を口にしてしまった。その瞬間、慌てて自分の口を自分で塞ぎました。これが収録されていることを思い出したのです。

「私たちはヨシミューラさんを客人としてお世話しています。ちゃんとした家で、元気に過ごします。でも、別のグループ、そういうのしません。人質が売れないと分かると、すぐ処分しますね。別のグループは、お金たくさんないです。だから私たちのような余裕ないです」

「待ってください、ヤンさん。処分ってどういう意味ですか?」

 羽鳥の質問に構わず、相手は自分の言葉を続けた。

「私たちのキャンプ、環境良いです。スプライトあります。私、ヨシミューラをそこから離したくないです。だからハトリさんに話してます。

 日本のみなさんには珍しい発言かもしれません。でも、人質は私たちの大切な品物です。私たちの国、あまりたくさんの売るものありません。だから私たち、人質のひとを大切にします」

 そして、ヤンは少し口をつぐみました。羽鳥はその間、次に口にすべき質問を必死で考えました。ですが、羽鳥が言葉を口にする前に、取材は勝手に終えられてしまいました。次のような呪いの言葉を残して。

「ハトゥーリさん。いまから言うこと、大事です。良く聞くです。いま録画された映像は、このウェブページから、データなってダウンロードできます。いまから3分後に。そして10分後には消します。だからその間にダウンロードして願います。

 そしてダウンロードした映像、どんな編集してもOKです。私たちなにも言いません。ただし、ダウンロードしてから48時間以内、必ず、テレビで放送してくだい。そうでない場合、ヨシミューラさん、罰、受けます。かなり辛い罰なるでしょう。では、さようなら」

 そして唐突に画面の映像が途切れ、羽鳥の自撮り映像もブラックアウトしました。呆然とする羽鳥たちを尻目に、わずかの間をおいて、ウェブページは自動で更新されました。そして現れた白いページの中心に、たった一言、


 download


 という青文字のテキストリンクが表示されました。

 谷崎がそれをタップしようとします。

「待ってよ」と、羽鳥がそれを制しました。「それをダウンロードしたら、ぼくらはそれを放送しなくちゃ―――」

 その言葉を遮って、谷崎が言いました。

「今さらビビっても仕方ないですよ。どのみちぼくらにはもう、選択肢なんて残されちゃいないんです」

 そして彼は、そのテキストリンクをタップしました。ファイルのダウンロードが進行中である棒グラフが動いてゆきます。羽鳥は呆然と、それを見つめる他にすべきことを思いつきませんでした。


 これが即ち、ラッカの華僑の毛が850万米ドルで実行を約束した、イスラミック・ステートの『作戦』なのでした。

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