第14話


 yahoo!は生まれの地、米国では既に過去のサイトです。が、日本の資本で運営されている日本語版サイトは、日本国内では圧倒的な存在感があり、あらゆる層の日本人にとってのインターネットの『玄関ポータル』になっていました。


 そのトップページ、Yahoo!ロゴの直下に配置されるニュース欄は高度なアルゴリズムによって個々のユーザーの趣味趣向に最適化されたニュースをリストアップします。ですが、日本人全体にとって重要なニュースは、常に上位表示されるように設計されていました。その最上段に、次のような見出しが掲載されました。

 ――――

 IS国 第二の邦人捕虜映像を発信

 ――――

 ハイパーリンクの張られたその見出し文をクリックし詳細ページに移ると、日本国内の通信社が、YouTube上にリリースされた映像の直リンクとともに、そのニュースの記事を載せていました。

 そのトラフィック(アクセス)量はかなりの数にのぼり、YouTube側ではその内容が政治的に不適切であるとして、日本版Yahoo!でのリリースから7分後には動画を削除しました。

 しかし言うまでもなく、その動画は個人・法人を問わぬ様々な人々にとってダウンロードされ、別サーバにアップロードされ、拡散されました。


「私の名前は吉村耕三。日本精機工業の社員です。私はただいま、イスラム国の捕虜として捉えられています。私の生命には、五千万米ドルの値段がつけられています。それは日本政府に支払いを求められた金額です。支払期限は5月1日。

 どうか私の命を救ってください」


『私を救ってください』と英語で書かれたプラカードを持たされた哀れな会社員、吉村耕三は瞬く間に日本中の人々が知る人物となったのです。


 同じ映像を首相官邸の安倍と菅も、安倍の執務室で見ていました。今度はたまたま安倍と同行していてこの部屋に連れてこられた女性外務大臣・道原直子と、それぞれの秘書官達も同席していました。

「やりやがった…」

 と、安倍は口にしました。

「他に何かメッセージは来てないの? なんで奴らはいきなりこの映像を一般公開したんだよ?」

 声にわずかに怒りをにじませながら、安倍は口走りました。

「身代金の交渉をしてたんじゃなかったの?」

 いくつかの外交ルートで推薦されたイタリアのネゴシエーターよる裏ルートでの金額交渉は、外相の道原の仕切りで行われていました。

「いえ、あの…」

 狼狽して言葉に詰まる道原に、彼女の秘書官が代弁しました。「ネゴシエーター・サイドからは、初回のコンタクトを取ったという報告を受けています。ただまだ金額を云々する段階ではないと聞いていますが」

「じゃあなんで彼らはこれを公開したんだよ。まだディスカウントの話はしてないんだろ?」

 安倍はつい、道原の秘書官に声を荒げてしまいました。


 総理執務室に、小さな沈黙が生まれます。

 秘書官は言葉を失い、外相はこのところの失策の連続にすっかり自信を失っていました。

「怒鳴って悪かった」と、うつむいた安倍が言いました。そしてそのまま、下を向いたまま、彼は続けます。

「でも、これは政権運営にとって大きなつまずきになるかもしれないんだ。私がここにいるうちにやらなきゃならない大仕事のためには、こんなことで国民の信頼を失うわけにはいかないんだよ。この安定政権で、私がこの国のレールをもう一度敷き直し、矛盾のない憲法にアップデートしなくちゃいけないんだよ」


 そこか?、と菅は思いました。

 あの日、あの斜視の学生に自分が言った言葉を思い出しました。是が非でも、今度は犠牲者を出すわけにはいかない。それこそ自分がここにいる限り、戦争犠牲者を出すわけにはいかないのです。

「総理、」と、彼は口を開きました。「これは彼らからのメッセージでしょう。金額交渉などの裏工作は通用しない、と言っているのだと思います。ここはひとつ、彼らの要求を呑む方向で考えませんか?」

「でも55億だろ? そんな金、どこから出すんだよ?」

「金の出所など、後でなんとでもなります。それより今の事態をどうするか、です」

「まずこの男性の身元を確認しましょう。そうよ、そこからよ」道原外相は自分の思いつきに嬉しそうに声をあげました。

「それはもうこちらでやり終えています」菅は既に彼の中で見切りをつけた政権のお飾り大臣に、ピシリと声をかけました。「外務省はネゴシエーターに連絡して、身代金の支払いの用意があることを伝えてください。ディスカウントは無しです。

 国内に向けては記者会見するほかないでしょう。例によって彼らを非難しつつ、テロリズムには屈しない、政府としては人質救命に全力を尽くす、というセンでどうです、総理」

「いや、スーさん、これは閣議を開いて少し考えないと…」

 安倍の肚の中で、秘密が露呈した時のスキャンダルの恐れが広がっているのを、菅は敏感に感じました。たったひとりの人質のために、莫大な量の身代金を払うこと。その事実はどこから漏れるか知れません。

 しかし、悠長に閣議を開いている場合ではない、と彼は思いました。なんといっても、いまは戦時下なのです。そして戦争に負けている時こそ往々にして、最高意思決定の場で即断即決しなければならない時があるのです。まさに今のように。

 菅は安倍とは逆の方向に肚を括りました。あの少年に、自分は約束したのです。勝てない戦いかもしれない。でも、もうこれ以上、負けない、と。


「総理。何かあったら、私を切ってください。身代金は官房庁の機密費から捻出します。万が一の際は、私の独断だったとして下さい。勿論、無事生還した際は総理の方からコメントはお願いします。そのためにも、本事態に対する政府公式コメントは、総理から行っていただくのが望ましいかと。

 道原大臣、ネゴシエーターには政府の二枚舌を打ち明けておいてください。対外的には、我が国は身代金なぞ払う訳にはゆかないのです。それから、当該地区にいる邦人に退避命令を出してください。もはや勧告のレベルは超えています。これ以上、彼らに我が国民を蹂躙される訳にはいきません」

 総理の発案で官邸直轄の人質解放特別チームが、東京とアンマンに編成されたのは、その夜のことでした。


 日本の首相官邸で見られたのと同じ映像は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアの、グローバル・ビジュアル・アナリシス社にあるカフェスペースのモニターでも流れていました。時間は午後10時。会社の幹部たちはとうに帰宅し、残っているのはいつもの残業チームだけでした。

 デリバリーの紙製のカップに入ったチャイナ・ヌードルを食べながら、ジョナサン・マグワイヤーはその映像に釘付けとなっていました。

 あの忌々しいCIAの女スパイが彼に無理矢理オーダーした、テロリスト映像。それと同じ場所で、その第二の日本人のビデオは撮影されていたからです。ただし今度は、背景には壁だけが映され、彼がこの五日間見つめ続けている村の家屋は少しも写っていませんでした。

 その小太りの日本人の話す英語は、ひどい日本人訛りでしたが、イントネーションやアクセントなどは同じオフィスにいる日本人の同僚を思い出させました。

 五千万ドルか、とジョナサンは思いました。ものすごい金額だけれども、まったく現実感のない金額だ、と思いました。

 そして不意に、「あぁ、そうか。この日本人の命は俺が握っているんだ」と、彼は気づいたのです。砂漠のどこにいるとも知れないこの日本人の居所は、処刑人の彼らを除けば世界でジョナサンだけが、知ることができる立場にあるのです。

 しかしあの女スパイと約束した期限まであと三日しかありません。が、彼と彼の部下であるエンジニアは、未だに有効なプログラムの開発ができていませんでした。広大な砂漠の世界から、今回の対象地域を絞り出すアルゴリズムの決め手となるパラメーターが、まだ出てこないのです。たったひとつの有効なアイディアが。おそらくそれさえ見つかれば、あとは一気に解決するはずなのでした。

 人手不足。

 それが最大の問題でした。コードを書く、といった物理的問題ではなく、人の脳が足りないのです。斬新なアイディアをひねり出す頭数が明らかに不足しているのです。


 焼きそばフライド・ヌードルを咀嚼しながら哀れな日本人の映像について解説するニュースを見るともなく見ていると、ジョナサンの頭にひとつのライトが灯りました。日本大使館の太っちょの伊集院の頭に灯るのは裸電球でしたが、デジタルキッズのジョナサンの頭に灯るのは、LEDの煌々としたライトでした。


 彼は焼きそばのカップを持ったままカフェスペースを出ると、そのままオフィスの非機密情報エリアに向かいました。10個のデスクが並ぶ中、まだ明かりがついているのは、ひとつだけ。思った通りです。

「ハイ、マス」

「やあ」

 マス、と呼ばれた男。それはジョナサンが先ほどの映像を見て思い出した、日本人の同僚、マス・ミズノでした。そう、あのビブこと伊集院将成の甥っ子の水野勝です。

「残ってると思ったよ」

「もう少し早く片付くと思ったんですけどね」

「ニュース、見たかい?」

「ニュース?」

「日本人、人質、google」と言って、ジョナサンはマスのPCモニターを指さしました。マサルはすぐにそれを検索し、その場で映像を見ました。

「あぁ…」と、マサルは言いました。また日本人が彼らに…。

 その暗く沈んだ横顔を見て、ジョナサンは自分の思いつきを話すことにしたのです。

「あの日本人の居場所を特定する仕事が俺のところに来ている。でも君には、最高位のセキュリティ・クリアランス・レベルの仕事にはアサインされない。だけど、君の力が必要なんだ。会社には内密だが、手を貸してくれないか?」

 それはマサルにとって、アメリカ合衆国が始めて見せてくれた腹の底でした。いま彼らは自分の能力を欲している。それも同じ日本人を助ける為に。マサルはわずかにも迷いませんでした。

「今夜は長い夜になりますね」と、彼はクールに返事をしました。

「社から給料はでないぜ。CIAラングレーの担当者にディナーでも奢ってもらえ」

「同胞を助けるんです。他に何が必要ですか?」

 叔父さん、ぼくにもデジタル時代のジェームズ・ボンドに、いや、ジャック・ライアンになる日が来ましたよ、とマサルは心の中で叫びました。

 というわけで、マサルと伊集院の日曜日のランチは、巡り巡って、彼のもとへ仕事となってやってきたのです。

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