第13話
――――
標題:日本人人質について
本文:
ナイトバードへ
久しぶり。
元気か? こちらは相変わらずだ。
また君とこうしてやり取りできて嬉しい。
標題の件、見ての通り今度は日本人の案件で
私と君とは何度か困難な課題をクリアしてきた。私は君を大切なビジネス・パートナーと思っている。だから最善のコミュニーケーションを取り、お互いにとって最も良いゴールにたどり着けるよう願っている。
ビジネスの上で重要なのは信頼関係だ。それは宗教観を問わず共通だ。だから私は最初に今回の目的を正直に伝える。5千万ドルだ。私は知っての通りネゴシエイターであり判事や仲買人ではない。だからその金額が君らと日本国政府の間で妥当か否かは意見を持たない。個人的にはいささか値が張りすぎていないかとは思うがね。おっとこれはジョークだ。
さて、この5千万ドルについて、交渉の余地がないかどうか、君に尋ねるのが今回のメールの主旨だ。
どうだろう?
砂漠にいる君の国の指導者たちにひとつメールを投げてくれないだろうか?
君からの返事を心待ちにしている。
チャオ
ベネディクト・オーウェン
――――
イタリア人のジャーナリストから届いたメールを、ジャミルは読みました。「
ここはヘルシンキの街中にあるアパートメント。北欧フィンランドの首都の四月はまだしっかりとした寒さの居残る世界です。地中海を望むトルコ、イスタンブールから来たジャミルは、少しもこの北国の寒さに慣れることができませんでした。そもそも彼はシリアから難民としてトルコに流れ、そこからさらにこのヘルシンキに移動してきたのです。乾いて暑い祖国を思えば、ここは氷の世界に相違ないのです。
ジャミルは、本当はこのビジネス・パートナーが好きではありませんでした。誠実そうな振りをしていますが、そこはかとなく軽薄でかすかにアラブ人を見下しているような気配を感じるからです。
普段は精肉工場で働く真面目な労働者として、サラリーと難民手当をもらって暮らすジャミルですが、その本業はイスラミック・ステートの西側社会とのコンタクト・パースンなのでした。表には出ないところで、ヨーロッパに何人かの人質ネゴシエーターがおり、その彼らと常にメールでコンタクトを取っていました。そして人質の金額交渉から支払い、引き渡しなどの実務の連絡窓口として密かに活動しているのでした。
彼が担当してきた人質の解放交渉で、極東アジアの国は初めてでした。だから日本人がどのような民族なのか、彼には全く知識がありませんでした。しかし砂漠の祖国にいるはずの、国の首脳部はあらゆることに精通した情報網を持っています。イブラヒムは首脳部に向けいま受信したメールを転送し、指示を仰いだのでした。
そのメールは跡を辿られないように幾重もの防護措置を踏んだ後に、シリアのラッカにいるバグデリーダ達のもとに届きました。
今日、彼らはユーフラテス川を望む高台の邸宅にいました。部屋の中にはバグデリーダを中心に、数名の“大臣”達と、双子の賢者がいました。いつもはiPhoneのテレビ電話で参加するアリは今日は不在でした。
彼らはナイトバードが寄越したメールを見、交渉に応じるべきか否かを話し合っていたのです。
「日本は金持ちの国ではなかったのか?」
大臣のひとりが不満げな声を出しました。「このくらいの金額、大したことではないと言っていたはずだ」
他の大臣も同調します。
「ランドクルーザーは彼らの国のクルマだ。トヨーダ、マーズダ、ニサーン、ミズビス、全て日本の会社だ。我々の石油を使って大儲けしている国だ。ディスカウントしてくるなんて、恥知らずも甚だしい」
「アリが言っていた作戦は意味がなかったのではないか? 一人目を殺したらすぐにも金を払うはずだと奴は言ったはずだ」
「あの不信心者の言うことは信用ならない。二人目も殺してしまえば良い。倫理観のない日本人は、そうやらないと正気にならないのだ」
誰もが気を昂らせ、議論は一気に処刑ムードに流れてゆきました。
そこへ、
「待たれよ」
と双子の博士の片われ、アシムが言いました。
「早合点してはならない」
応えてカリムも口を開きます。
「落ち着きなさい、息子たちよ」
しわがれたその声は、長いひげを生やした男たちを瞬時に黙らせました。
賢者たちは言葉を切ると、空気を固めたままにしました。
そこへ、カリフであるバグデリーダが身を乗り出しました。
「兄弟たちよ。確かに日本人達はやり過ぎた。私たちを
しかし兄弟たちよ。だからと言ってあのふたり目の日本人をすぐに殺すのは得策ではない。彼は大切な人質だ。それも大きな金を持ってくる、金のラクダだ。私に任せてくれないか。恥を知らない日本人への
カリフの声は静かに部屋に響きました。そのカリスマ性、その厳かな威圧感こそが、30代の若さでこの国の頂点に上り詰めた源泉なのです。
カリフがそう言うなら、年かさの男たちは納得したのでした。
大臣たちが邸宅を去った会議の後、バグデリーダは庭に出て、崖の下を流れるユーフラテス川を見渡しました。陽は大きく西に傾き、太古の文明を育んだ流れをオレンジ色に染め上げていました。
大臣のひとりが口にした言葉を、彼は思い出しました。彼らはアリのことを『不信心者』と呼んだのです。いつも姿を見せず、遠隔地から彼らイスラミック・ステート首脳部と連絡を取りたがる男。皆が1日5回の礼拝を厳格に行っても、アリはそれには無頓着に、礼拝時間でも気軽に電話をかけてくる男。同じスンニ派のムスリム(イスラム教徒)であっても、余りに教義を蔑ろにする男。
そもそもイスラミック・ステートは、イスラム教の教義を厳格に守るスンニ派によって構成されています。この屋敷に集う“大臣”と呼ばれる男たちは各地の部族の長や過去の戦闘で武勲をたてた功労者たちの集まりで、いずれもが信心深いムスリムです。
ですが、アリは口では熱心なムスリムであると言いながら、その行動はあまりに奔放でかつ、秘密主義なのでした。
しかし彼の立てる西欧諸国への作戦は、アラブの砂漠しか知らない彼らにとっては驚くべきことばかりでした。インターネットの利用を積極的に推し進め、テロリズムだけでなく心理的な作戦で大国と対峙し、彼らの国を事実上の国家として認めさせる。その功績のある一部は確かに、あの『不信心者』の手際によるものなのでした。
宗教の力だけでは戦えない。
若い日々をケンブリッジの学舎で過ごしたバグデリーダには、現代国家のありようが、肌で理解できていました。清濁併せ持つ混沌こそが、国際社会を生き残る国家のダイナミズムであり、力の源泉なのだと気付いていたのです。だから彼は、国家運営の中心部に、あのテレビ電話の向こうの隊商の息子を参加させることを許したのです。
バグデリーダは、ユーフラテス川を見ながら、iPhoneを取り出しました。そして特別なアプリを立ち上げます。パスワードの認証画面では、彼自身の指紋と、暗号の入力が求められます。そうして起動したコミュニケーションアプリで、彼は地球のどこにいるとも知れないパートナーに話しかけました。
バグ:今日は何故会議に参加しなかった?
バグ:大臣たちは日本人が身代金をディスカウントしてきたことにいきり立っていたぞ
彼の送ったメッセージは、既読記号がつきません。それでも構わずバグデリーダは、メッセージを書き続けました。
バグ:あの人質を処刑せよという彼らの憤りは抑えた。しかし日本人達には相応の罪を贖ってもらうつもりでいる
そのタイミングで、既読マークが一気につきました。あいつ、やはりいやがったな、とバグデリーダは思いました。
アリ:どうするつもりだ?
バグ:金額の上乗せだ
アリからの返信はありません。
地球のどこかで、あの不信心者の脳が、高速回転しているのだ。必死で対抗策を考えているのだ、と思うとバグデリーダはいい気分になりました。
そして返信が来ました。
アリ:作戦をひとつ先に進める
バグ:つまり?
アリ:少し早いが、本件を公開案件にする。それで日本政府は対応を変えざるを得なくなるはずだ。
バグ:本当か?
アリ:ダメなら次の手を打つまでだ。違うか?
バグ:分かった。ただひとつ、言っておきたいことがある
アリ:何だ?
バグ:敬意を払え
アリ:アッラーには常に恥じない行動をしている
バグ:違う。我々にだ
アリ:我々とは誰だ?
バグ:我々の国家に、だ
アリ:俺はお前をカリフと認めている。だから皆の前ではお前を常に立てている。しかしお前が大臣と呼ぶあの低脳の砂漠の連中には、いつまで経っても慣れることはできない
バグ:そういうお前だって砂漠の生まれだろう
アリ:俺は電子の海で生まれた男だ。ビットの砂漠で育った男だ。お前たちの国を電子の世界から支えるために、アッラーには遣わされた男だ。お前たちの古めかしい慣習に囚われず、真の聖戦を戦っている。
バグデリーダは、すこしため息をつきました。
こんな顔の見えないコミュニケーションでやり取りすべき話ではなかった、と思ったのです。
バグ:分かった。ただあの老人たちにもすこし配慮してやってくれ。ではこれで。作戦前進の許可を与える。アッラー・アクバル
そう書き込んで、バグデリーダはアプリを終了させました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます