川根茶と不信心者(二番目の映像が引き起こす出来事)

第11話


 首相官邸五階の総理執務室に、安倍総理、菅官房長官、それぞれの秘書の四名が揃っていました。誰もが言葉なく、呆然としていました。壁に掛けられた液晶テレビでは、吉村耕三のムービーが終わったところでした。それはつい45分前に首相官邸の問い合わせフォームから送信されたメッセージに書かれたリンク先から、ダウンロードされたものでした。


「五千万ドルっていま幾らだ?」

 首相の安倍が誰にともなくいうと、彼の首席秘書官の山岡が、ざっと55億と答えました。それがIS国がこの日本人につけた命の値段、というわけでした。安倍は口をすぼめて大きく息を吐きました。55億。ひとりの国民の生命にかけられる費用としては法外です。

「払えないなぁ」それも安倍は、誰にともなく言いました。そうやって場の空気を自然に形成するのが彼のいつものやり方でした。菅官房長官は、議論もなくそのような所感を口にするやり方が嫌いでした。

「総理、まず諸外国の状況を確認しましょう。アメリカは絶対に払いませんが、フランスやイタリアなどいくつかの国は内密に支払った実績があると聞いています」

「他国が払っているから払う?」

「違います。交渉の余地があるのかを確認しましょう。確かに法外な金額です。しかしこれがブラフなのか、それとも本気なのかも分からず対応すべきではありません。支払期限までにはまだ一週間あります。幸い本件をメディアは知りまん」

「分かった。外務省を通じて至急調べさせよう」


 自分の執務室にもどった菅義偉は、給湯室で淹れてきた緑茶を飲みました。総理官邸の勤務者には圧倒的にコーヒー党が多いのですが、彼は横浜市会議員であった時代から一貫して、静岡の川根茶を喫してきました。

 青磁の湯のみのなかに、レモン・イエローの緑茶が満ちています。澄んだその色合いは彼に、先週面会した、ある高校生のことを思い出させました。


 わずかに斜視の視線は、その少年がきちんと自分を見ているのかどうか、やや心許ない気持ちにさせます。けれどもその透き通った眼差しに、菅は心の奥底までを貫かれた気がしていました。


「―――父は、なぜ死んだのでしょうか?」


 三芳隆博、と名乗ったその高校生は、彼のたっての願いで総理との面会を望んだのでした。そう、あのアレックス(ベッカム)に殺された、佐藤芳雄の一人息子です。佐藤は隆博の母、美津子とは入籍をしない内縁関係を続けていたため、隆博はずっと母方の姓でいるのでした。


 首相官邸に招かれ、総理と面談した席で、彼は気丈にも取り乱すことなく、安倍総理と話をしました。その母が涙にくれていたのとは対照的に。

 その面談はマスコミにも告知されず、あくまで非公開・非公式という形で行われました。出席者は安倍と菅、そして三芳母子の四者のみでした。

 その席で、管からは現時点で分かっている経緯の説明がなされ(大したことは分かっていませんでした)、安倍からはお悔やみの言葉と今後国家としてこの償いをさせる、というしっかりした言葉が伝えられました。三芳美津子はそれに恐縮し、自分たちをそっとしておいて欲しいという言葉を繰り返しました。


 隆博はそのやり取りを黙って聞いていました。面談は安倍の次のアポイントの都合で15分ほどで終了し、三芳母子は秘書官に促され、首相官邸のエレベーターホールに導かれました。見送りは秘書官と菅が行いました。

 エレベーターの中で隆博が、菅に向かって口を開きます。

「すみません、あと五分だけ、お時間をいただけませんか?」

 菅の秘書官が慇懃にそれを断ろうとするのを菅が制しました。

「できれば菅さんとふたりだけでお話ししたいのですが」そういう隆博に、

「何を言っているの。ご迷惑よ」と美津子が言いました。

「構いませんよ」と菅は言いました。セキュリティ上それはできないと言いたげな秘書官を目で制し、菅はエレベーターを降りると隆博と二人だけで歩きました。


 吹き抜けの高い天井と、ロビーに植え込まれた竹の青が美しい官邸ロビー。しかし言葉なく歩くふたりは、その風景は目に入りませんでした。菅が導いたのは彼の第二の仕事場でもある、記者会見室プレス・ルームです。菅はこれまでこの部屋でありとあらゆる記者会見を行い、様々な修羅場やクライマックスを演じてきました。

 いまは人気なく、閑散とした大部屋であるこのプレス・ルームの最前列の椅子に、ふたりは横並びに座りました。


「菅さん、父はなぜ死んだのでしょうか?」

 硬い口調で隆博は言葉を絞り出しました。

「それは――」先ほど説明したとおり、と言いかけて、この高校生が望んでいるのはそんなことではないと菅は悟りました。この若者に、その理不尽であまりに残虐な死をどう説明すれば良いか。菅は一瞬、言葉を失いました。

「政府は…政府としては、出来る限りのことはしたつもりでした。シリアへの渡航制限や当地の安全性情報の通達など…」菅は珍しく自分の言葉が淀みなく出てこないことに焦っていた。

 隆博は、その言葉に何も答えませんでした。

「ひとりの政治家として、君のお父さんを救えなかったことは…申し訳なく…思っています」政府の窓口として、謝罪の言葉を口にすることはほぼなかったが、いまこの若者を前に、菅は腹の底から言葉をかき集めるほかありませんでした。

「もうどんなことを伝えても、君のお父さんを元に戻すことはできない。だから―――」

 その先の言葉を一瞬彼は見失いました。それは政治家としての自己防衛本能でしたし、彼の鉄壁のキャリアが安易な言葉を継ぐことを許さなかったからです。しかし、彼はその接続詞の後の言葉を、必死で探しました。

「だから、私はこの先、こんなことが起こらないように全身全霊をかける。私は君に約束する。私は、この国の国民を守るよ」

 隆博の斜視の両目が一瞬、正確に菅の目を捉えます。瞳孔がすぼまって、白目の部分が青く見えました。何という目をする少年だろう、と菅は思ったのです。胸の底の底を見つめられている気がして、彼はわずかにらたじろぎました。

「ぼくはもう、これは戦争だと思っています。戦線布告のない、あの国の戦争にぼくらは巻き込まれたのです」冷徹な目をして、少年は言いました。彼のいう『ぼくら』が彼の家族を指すのか、彼と自分を指すのか、それとも日本全体を指すのか、菅には図りかねました。

 そしてその『戦争』という言葉は、奇しくも菅が隆博の父の処刑ビデオを見たその場で、安倍に向かって語った言葉でもありました。

「あぁ…。私もそう思っています。けれどそれを理解できる人はごく少ない。そしてそれを全国民に理解させることは、彼らの思う壺なんだよ。だから私たちは、見えない戦争を戦わざるを得ないんだ。お父さんのような方をもうこれ以上出さない為に」

「それは勝ち目のある戦争ですか?」

「彼らを滅ぼすことが勝つということなら、我々にはそんな力はない。我々は自衛のための力しか持っていないからね。だけど、負けない戦争ならできる。彼らにこれ以上、日本人を蹂躙させない為の戦いだ」

「期待していいのですか? ぼくに手伝えることはありますか?」

「それが私達の仕事なんだよ。任せてくれないかな」

 菅は、少年のそんな言葉に、肚に力を込めてそう言いました。この若者に、我が国の未来を信じてもらうこと。それが自分の使命なのだ、と彼は思ったのです。

 青ざめていた少年の顔色に、わずかに朱がさしました。菅は彼を裏切ってはならないと、強く思いました。

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