第9話


「マーカス、ちょっといい?」

 朝からずっとPCのモニタを見ていたキャサリンが言いました。アメリカ合衆国バージニア州。その所在地の名をとって通称“ラングレー”と呼ばれるCIA本部ビルの三階、中東エリア・セクションに彼女はいました。


 合衆国政府中央情報局、その頭文字をとってCIAと呼ばれる政府機関は、主に海外の情報を調査・分析することを業務としています。その情報収集にかつては『スパイ』と呼ばれる、他国に対して身分を偽り潜入する工作員が活躍したものでした。でも、21世紀の現代ではその人的リソース(ヒューミント、と呼ばれます)はほぼ失われ、きちんとした国家公務員達が法の範囲内で業務に携わっています。彼らはシェイクしないマティーニを飲むことも、様々な秘密兵器を駆使することもありませんが、時間になると家に帰り、妻や夫とセックスをしたりする、ごく普通の公務員です。ただ彼らの多くが(全員ではありませんが、それはどこの組織でも同様ですよね)、国を守る志を持ち、それを実践するための訓練を受けているのでした。


「この映像、気になるのよ」

 キャサリンが見ているのは、先日YouTubeにアップされた、IS国の残酷な処刑ビデオでした。

「何かあった、面白いモノ?」

 呼ばれたマーカスが、キャスター付きの椅子を転がして、彼女のモニターの前にやってきました。

 そしてモニターを見たマーカスは、内心うへぇ、と思いました。キャサリンが見ていたのは、日本人が斬首処刑された映像でした。サムライらしい最期で彼も本望だろう、というジョークはコンプライアンス的にNGだろうと思い、口にしませんでした。21世紀の国家公務員はなかなか大変なのです。


「これ、見て」

 と、キャサリンが指差すのは、黒頭巾をかぶってアイルランド訛りの英語を話す“ベッカム”の背景でした。黄土色の壁の向こうにわずかに抜けて見える街並みの様子が見て取れます。画面のほんのわずかの面積ですが、白や水色のパステル調の壁と屋根をもった家々が見えていました。しかも斜面を暗示するように、家々は異なる高さの地面に建っているのです。

「家、だな」

「家、なのよ」

 それがなにか、と言おうとしてマーカスは口をつむりました。キャサリンがこういう時は、きっと何かがあるからです。それに気づかずに何度も見当違いの当て推量を披露して、恥をかいてきました。

「いままで彼らのビデオの背景は、壁一面しか見えなかった。あるいは特徴もない砂漠の風景か。けど、今回彼らはミスを犯したの。初めて壁以外のものが写っている」

「壁以外って言っても、わずかな家だけじゃないのか?」

「その家なのよ。この映像から写っている家の距離と高さを割り出すでしょ。そしてその位置関係を上空から見た図に起こして、衛星写真と見比べれば?」

「この家の位置が分かる、ってことか?」

「ビンゴ」

 キャサリンは少しも笑顔を浮かべずに言いました。


 高度な映像解析ソフトとそれを操作する専門チームをアサインし、多忙な彼らのスケジュールを確保するためにかかる手間と省内ネゴシエーションを想像すると、それが口で言うほど楽なことではない、と知っていたからです。

 それでもこれでやっと、ベッカム達を確保できるチャンスをつかんだ、と彼女は思いました。

「ねぇ、課長に内線してくれる?」


 同時刻。

 ポトマック川を挟んだ対岸側。ワシントン特別行政区にある在米日本大使館の大使執務室で、祖父江一郎駐米大使は祖国からの電話を切ったところでした。そして小さくため息をつきました。電話の向こうでは、霞が関の本省の女性外務大臣が、うるさくがなり立てていました。

 外務大臣が女性となったのは、史上二人目です。しかしいずれもが、外交においては全くの素人。ただ、主要閣僚に女性を置きたいという時の首相の政治的配慮により任命された、お飾り大臣でした。初代女性外務大臣は、自らの失言癖により更迭され、それから数年経った現在の女性外相もその無能さからマスコミの揚げ足取りの格好の餌食とされ、在位も風前の灯という状態でした。


 その女性大臣が東京時間の深夜にここに電話をかけてきた理由は、例のイスラミック・ステートによる邦人処刑映像のせいでした。

 首相本人はこれを大した事態とは受け止めていないようですが、官房長官が相当頭にきており、外務大臣にかなりの発破をかけたようなのでした。それにより、事態もきちんと把握できていないまま、彼女は秘匿回線を使ってワシントンにいる祖父江に電話をかけ、合衆国政府に圧力をかけるよう、指示してきたのです。


「圧力?」

 おそらく菅官房長官に『米国政府へ圧力を』と言われた言葉をそのまま使ったのでしょう。外務大臣が直接その口で『圧力』なる言葉を使うことに、プロの外交官である祖父江はかなりの違和感を感じ、ついオウム返しのようにその言葉を繰り返してしまいました。祖父江のその言葉に含まれたわずかな侮蔑の感情にも全く気づくそぶりもなく、外務大臣は言いたいことを終いまで言い切ると、そそくさと電話を切ってしまったのです。


 要を得ない彼女の話をまとめると、

 ・邦人を殺害されたことで日本はかなり腹を立てている

 ・非道なるテロリストには然るべき法の裁きを求めている

 ・しかし対外的軍事機能を持たない日本政府には、現在打つ手が限られている

 ・よって、当該地域に圧倒的なプレゼンスを持つ米国に様々な援助を行う見返りとして、テロリストの捕縛を依頼せよ

 ということになります。

 祖父江は腕組みをして、窓の外を見やりました。


 ワシントンD.C.の大使館街であるこの地所。すぐ隣には大韓民国とインドの大使館が並んでいました。街路樹の美しいワシントン・アベニューを挟んで向こう側、木立の先には、ワシントンD.C.のモスクの尖塔が見えました。ワシントン・イスラミック・センターです。白亜の石積みの尖塔の先端には、葱坊主のような意匠の構造物が見えています。そこにはこの地域のイスラム教徒達が集まり、アッラーに祈りを捧げ、信仰を育んでいるのでした。9.11の時には暴徒から守られるよう警察に強固にガードされたこともありました。


 祖父江の家自体は曹洞宗(禅宗)でしたが、そんな宗教に触れるのは親族の葬儀の時だけで、ほとんど無宗教といって差し支えありませんでした。だからあのモスクに集まる人々の、アッラーとの契約がどのようなものであるかは彼にも知るよしはないわけですが。

 でも時に、街の人たちに向けて開かれるイベントであの建物の中に入る時、彼らの敬虔さと生真面目さを感じざるを得ませんでした。だからこそ、あの残虐行為を行った者たちと、あのモスクに集う人々が同じアッラーの子だと理解することが、祖父江には出来ませんでした。


 さてどうしたものか、と祖父江の腕組みは深まります。日本国としての憤りをこの国の政府に伝えることはできましょう。そして幾らかの経済的支援によって彼らの行動の動機付けを支援することはできましょう。しかし彼らの国民が殺害されたわけでもないのに、彼らの兵隊を動かすことはかなりの困難を伴います。ただ金を渡すだけを、外交とは呼ばないのです。

 蛇の道は蛇。

 祖父江のなかでこの大使館に勤務するひとりの初老の男の顔が浮かびました。アメリカの属国たる日本に於いて、駐米大使付き外交官とはエリートの中のエリートを意味します。その優秀な外交官達が在籍するこの大使館で、雑役を主業務としつつ、あらゆる外交の縁の下を司る男。代々のアメリカ大使が引き継ぎ続けてきた男。

 祖父江は執務室の外にいる秘書に内線電話かけ「伊集院さんを呼んでくれ」と言ったのでした。


「ビブ、また太ったんじゃないか?」

「そういうあんたこそ、ワークアウトの効果が見られないぜ」

 ビブと呼ばれた日本人こそ、祖父江大使が思い浮かべた初老の男、伊集院将成(まさしげ)でした。差し向かいに座るのは、アメリカ合衆国国務省中東局の調査官ミチハル・ショーゼン。ふたりはホワイトハウスのすぐ裏にある、財務省ビルの通り向かいのグリル・レストランにいました。ふたりの前にはよく冷えたシャルドネの白ワインと、いくつかの生牡蠣が並んでいました。

「牡蠣といえばやはり日本だよな」と、ビブ(伊集院)が言えば、

「いや、牡蠣と言えばタスマニアだろ?」とミチハルが言い返します。ふたりとも、還暦を超えた初老の年齢です。そしてふたりとも、恰幅良い太っちょでした。

 伊集院は外交官としてこの国にやってきてかれこれ35年。その厳しい名の示す通り、本来は華族につらなる名家の出身でした。彼が異動なくずっとこの国にいられるのは、本当の彼の身分が内閣官房長官直轄の対外情報調査室にあるからでした。以前はスパイまがいの諜報活動も多少は行ないました。しかし、年齢の半分以上をこの国の首都で過ごし、ワシントンD.C.での流儀を身につけた彼は、荒事でなく人脈こそがここで情報を得る最善手であることを知ったのでした。それからというもの、ワシントンのあらゆるレストランとバァとカフェを知り尽くし、どの席が秘密の会話に望ましいか、どの相手が何のメニューの時に口を開きやすいかといった些事に精通して行きました。お陰で日本大使館では彼を『D.C.の生きミシュラン』とあだ名するようになったのですが。彼が知人たちから“ビブ”と呼ばれるのも、あのミシュランの白タイヤ男、ムッシュ・ビバンダムになぞらえてのことです。


「タスマニアなんて粒は小さいし、何よりあの磯の香りがしないじゃないか」ビブはそう言い返しました。『磯の香り』という言葉は英語にはなかったので、ビブは『磯』だけは『ISO』と言いました。そう、彼らは英語で会話しているのです。


 話し相手のミチハル・ショーゼンは、マサチューセッツ州生まれの日系三世。父親も母親も日系人なので、彼の見た目は日本人ですが、アメリカ生まれアメリカ育ちのせいで日系人にしては大きな体躯と、同じく大きなボディーランゲージから、生粋のアメリカ人として育ったことがわかります。

「違うんだよ、ビブ。日本産の牡蠣といえば、ヒロシマだろ? そこは我々合衆国の人間にとってはあまり好ましくない都市の名前なのさ。スリーマイル島やチェルノブイリ、フクシマだってそうだ」

「おいおい、国務省の役人ともあろう君が、現代のヒロシマを放射能汚染区域だなんて非科学的なことを言うんじゃないだろうね?」

「気分の問題さ」ショーゼンは、図星だったことを隠すように大きく手を振り、シャルドネのグラスを煽りました。そして、ビブの目を見て言いました。

「俺を言い負かすためにここへ呼んだんじゃないだろ? 何が知りたい?」

「houjin shokei」

 と、ビブはいきなり日本語で言いました。ショーゼンだって日系人です。その言葉の意味はすぐにも伝わりました。

 あぁ…、とショーゼンは小さくため息をつきました。「あれはダメだ。ウチにはめぼしいネタはない」

 それはビブには分かっていました。仮にめぼしいネタとやらがあったとしても、ショーゼンにそれを開かせない事情があることも承知していました。


「それは残念」と、ビブは形式だけでも残念がってみせました。

 かつてなら、現金をはじめとして、女、酒などさまざまな利益供与と引き換えに手にできた米国政府のインサイダー情報も、日米双方の関係各省のガバナンスとペナルティーの厳しさに、そう易々と手に入るものではなくなってしまいました。ビブもショーゼンもそれを承知しているから、この場で世界を変えるような重要な情報が授受されるなんて、最初から考えてもいません。

 ビブがこの店のオイスターとシャルドネをご馳走して、ショーゼンに伝えたかつたメッセージはただひとつ。日本政府は非公式ルートを使ってでも、あの邦人処刑問題に関し、本気で米政府に働きかけをしたいと思っている、ということでした。

「ま、でも分かったよ。ちょっと小当たりしてみるよ」とショーゼンは言いました。

 ビブは深く頷くと、言いました。

「確かにタスマニア産も捨てがたい」

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