第8話
『去る4月1日に公開された、YouTube上での日本人の処刑映像ですが、これは我が国の国籍を持つ、日本人であることが確認されました。
我が国は、そこにどのような主張があるにせよ、このように非武装の民間人を拘束し、あまつさえ残虐な手法で殺害することを、到底受け入れることはできません』
A4サイズのノートパソコンには、日本の政府高官(菅官房長官なのですが、彼らにはそれはどうでも良いことでした)の会見動画が写っていました。きちんと準備された政府公式発表の原稿を、一文字の逸脱なく読んでいる、という印象がありました。画面につけられた英語字幕を読まずとも、その平坦な抑揚のなさは伝わってきます。
「彼は何かを感じているのか? 痛みや苦しみが少しでもあるのだろうか?」
と、バグデリーダは言いました。
「日本人というのは、人前で感情を表すことを嫌います。だからこれが彼らの正しい反応なのです」と
「ということは、彼らはあの映像で相応の苦痛を感じていると?」
部屋の奥、暗がりにいる老人、アシムは言いました。
「そうとは少しも見えんがね」暗がりにいるもう一人の老人、カリムが言いました。
「大丈夫です。彼らは苦痛を覚え、怒りを感じています」
「結構。それを聞いて安心した。俺はてっきり、奴らは何も感じてないんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたぜ」バグデリーダの持つスマートフォンのテレビ電話画面の向こうで、アリが快活に言いました。
彼らはラッカの中心部にある商店街の中、この地域唯一の広東料理店の奥の小部屋で話し合いをしていました。部屋に置かれたテーブルの奥、向かい合う形で白い豊かな髭を生やした賢者のふたり、アシムとカリムが座っています。ふたりの老人は姿形が瓜二つの、双子でした。テーブルのいちばん奥、アシムとカリムの間にその前にバグデリーダがスマートフォンをテーブルに置いて座っていました。そしてそこから少し離れた席に中国人の毛が着座しています。
バグデリーダはこの地域のイスラム教の聖戦士(異教徒はテロリストと呼びましたが)を束ねるカリフ(イスラム教指導者)です。まだ30代のメガネをかけたこの若人は、献身的で自らの生命を顧みない聖戦活動により人々の尊敬を集め、請われてこの地位に就いたのでした。
ふたりの老人は、そのまだ若い指導者の後見人として、彼にイスラームの正しい道を指し示す博士たちです。そして中国人の毛は、この地で手広く商売をしている華僑でした。彼らが極東領域に作戦を展開できるようになったのは、この中国人を窓口とした華僑のネットワークがあるからなのです。毛自体はイスラム教徒ではありませんでしたが、長年この国で商売を行い、彼らと信頼関係を築いてきました。毛はこれまで投資してきたものを、そろそろ回収させてもらおうと、腹では思っていました。
対してテレビ電話の向こうにいる粗野な言動の男は、彼らの国家の経済を裏で支える切れ者です。名をアブドゥーラ(アリ)・マダブ・レオと言いました。彼は銃を持って戦線には立たない代わりに、そのあり余る財を彼らに差し出し独立を支援していました。アリはこのラッカの街には住まず、常に移動していました。それは彼が隊商の部族の出身で、一つ所にとどまれない性格だからとも、内外の暗殺者から身を隠しているからだとも言われていました。だからこうして賢人会議が行われる時はいつも、アリは高度に秘匿化されたインターネット回線を通じたテレビ電話や音声通話で参加するのでした。
「毛、ひとつ聞いていいか?」と、アリはいいました。
「なんなりと」と中国人は答えます。
「彼らは次は身代金を払うだろうか? 素直に」
毛はひとさし指と親指であご髭をこそぎました。それが考え事をする毛の癖でした。
「素直にならなければ、素直にさせるほかありませんな」
その言葉に、アリは笑いました。
「聞いたか、バグデリーダ。次の作戦に取り掛かる時期だ」
バグデリーダは頷きました。物事はアリの計ったように動いている。ここまでは。彼は心の中でそうつぶやきました。
「博士たち」とバグデリーダは奥に座る双子に言いました。「聞いての通りです。私は新たな血を、惰眠をむさぼる異教徒たちの枕にしたたらせることを図ります」
双子の老人は薄眼を開けて、つぶやきました。
「―――承認しよう、若いカリフよ」
「私からも提案があります」毛が言った。
「あなたたちがスェーデンで行った戦術が、彼らが素直になるために必要となるかもしれません」
「あのプロパガンダが?」と、アリが電話の向こうで言いました。
「ええ」
「いくら欲しいんだ?」
「USドルで、一千万」
iPhoneの小さな画面の中で、アリが不敵に笑うのが見えました。ふっかけ過ぎたか、と毛の背中に嫌な汗が流れます。しかしここで投資をある程度回収しなければ、との思いもありました。砂漠の民、特に隊商の部族とは何事も交渉が肝要です。言い値を値切り、値切られることで交わす情交というのものもあるのです。
「700」アリは毛の思惑通り、乗ってきました。
「900」毛も緊張で胃のすぼまるのを感じながら答えます。ひとつ間違えば、アリの機嫌を損ねれば、全てが台無しになります。
アリは答えません。それが彼の手だということが、毛には分かっていました。あえて言葉を途切らせて、相手を不安にさせ交渉のイニシアチブを取る。それがアリのやり方です。百戦錬磨の毛だって、世界を股にかける華僑の端くれ。このくらいのことで折れるわけには行かなかったのです。だから毛もまた、沈黙を守りました。
場が、静かに凍ります。
それを溶かしたのは、若いカリフでした。
「850。毛よ、これで手打ちとしてくれ。アリ、いいだろう? 彼がいなければあの極東地域では我々は全くの無力だ。毛のこれまでの恩義にも酬いようではないか?」
「分かったよ、カリフ。毛よ、お前の店に今週中にキャッシュで届ける。それでいいな?」
何事にも用心深いアリは、足跡の残る銀行口座を信用していないのです。
「承知した、アリ。信頼に感謝する」
毛は安堵の気持ちのなかで、ため息をつきながらテレビ電話の向こうの大金持ちに言いました。
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