第6話
カタールの属する世界協定時刻は、GST湾岸標準時であり、それは東京の属するJST日本標準時より5時間遅れて進行します。よってドーハのアルジャジーラ英語版ニュースの正午の番組は、東京では夕方の5時に視聴されることになります。
NHKの報道局長の和田のデスクの電話が鳴ったのは5時1分を回ったばかり。彼がそろそろ退社して代々木上原の馴染みの小料理屋に行こうかと思っていた矢先でした。
「局長、アルジャジーラをみてください」
と彼に内線してきたのは、湾岸地域のニュースルームのキャップでした。彼は細部を言わず、電話を切りました。その瞬間に和田は、今夜のタイの刺身とサワラの西京焼きを諦めました。それほどキャップの声が緊張していたからです。
和田はデスクにあるリモコンを取ると、壁に掛けられている何台かの液晶テレビのうち一番大きな画面のもののチャンネルを、アルジャジーラ英語版の放送に合わせました。
正午の定時番組は、冒頭のヘッドラインが終わり、最初のニュースに入るところでした。
スーツ姿の初老の男性キャスターと、ヒジャブを頭に巻いた女性キャスターが湾岸地域の地図をデザインした背景の前のテーブルにつき、男性キャスターが英語で話し始めました。
「最初のニュース。また痛ましい映像が入ってきました。IS国の人質の処刑です。かなり残虐な映像なので、一部加工をしてお届けします」
そういって、画面はきれいなスタジオの様子から、どこかの家の裏庭へと切り替わりました。画面内には「YouTubeより引用」のテロップと共に、黒装束に黒頭巾をかぶり両目だけを露出させたあの男と、オレンジのつなぎを着させられた佐藤芳雄が移っていました。"ベッカム”は佐藤の脇に立ち、佐藤は地面にひざまずかされています。
「我々はフッグース武装戦線。今からこの哀れな日本人を処刑する」
ベッカムは黒頭巾の中から叫んでいます。彼が右手をカメラの前にかざし、ナイフが見えたところで、映像に一部モザイクが掛かりました。この物語を読んできたあなたは知っているはずです。この後何が起こったか。
そしてカットが変わり、地面に横たわる佐藤の胴体の上にモザイクのかけられた映像が映りました。その胴体の上に何が置かれているかは、荒いモザイク越しでも分かりました。数秒、それが映った後、スタジオにカメラが戻ります。
既にこの映像を見て、内容を知っていた初老のニュースキャスターは顔をしかめて言いました。
「余りに残酷な映像でした。気分を害された方もおられるかと思います。ここで一旦番組を中断して、我々がこれを報道する理由を説明させてください。
我々アルジャジーラ はアラブ世界のスポークスマンとして、世界に我が兄弟たちの暮らしと考え方を伝えております。しかしながらこれは、我々にだって理解しがたいものです。また、許しがたい暴挙だと言わざるを得ません。
何故なら先ほど処刑された日本人は、我々アルジャジーラの外部スタッフのひとりだからです。彼はアラブ世界の外の人間ではありますが、できる限り公平に我々の現実を取材してくれる貴重な仲間でした。彼は死をもって、イスラミック・ステートの非道と理不尽を我々にレポートしてくれました。
アラブ世界の住人として、我々も常に公平であろうと努めてきました。西欧の無理解を覆し、我々の主張をなるべく正確に世界に伝えようと試みてきました。イスラミック・ステートの主張だって、全てが誤りだとは言ってこなかったつもりでした。ですが彼らにはその気持ちは全く伝わっていなかったということが分かりました。それは非常に残念なことです」
和田もまた、顔をしかめてその映像を見ました。
そして先ほど彼に内線してくれた湾岸キャップに電話して、いまの映像のYouTubeのアドレスを至急自分にメールするよう伝えました。そしてもう一度電話を取ると、ビルの最上階にある、副会長室の内線を回しました。
今度もコール一回で相手が出ました。
「副会長、報道の和田です。官邸にお電話いただくべき案件が出ました」
結局、イブラヒムが必死になって上層部を説得し、それによって作られたアルジャジーラの声明はほぼ無視されて、IS国の意図通り、ショッキングな内容だけが、東京渋谷のNHKから日本国中に広がってゆくわけです。
日本国首相官邸は永田町の丘の中腹にあります。江戸時代には松平出羽守の屋敷があった場所でした。2002年に建て替えられ、現代日本の建築技術の粋を尽くした地下1階、地上5階建の建築物となっています。その最上階である5階には、首相をはじめとして、内閣官房長官らの執務室があります。
内閣官房長官・菅義偉は、午後の衆議院予算委員会に出席した後、官邸の執務室で厚生労働省の幹部職員と新規法案についてのブリーフィングを受けていました。打ち合わせは午後5時までの約束で、終了後に近くのホテルに散髪に行く予定を立てていました。が、会議が長引き、秘書官を通じて散髪のキャンセルをしたのが、午後5時15分。会議が終わったのが5時20分でした。
官僚たちを見送りがてら、執務室を出た菅は官邸五階の廊下に面した吹き抜けのガラス窓に目をやりました。そこには石庭が設えられているのです。玉砂利を敷いた庭に、大きな花崗岩が並べられています。天面を平らにならされて、細長い飛び石のように等間隔に並べられた一群の中央に、それまでのリズムを全く無視するように不均等な形をした巨岩がひとつ、鎮座しています。抽象的であり、かつまた何かを暗示するようなその岩は、見るたびに菅に何かを語りかけてくるような気にさせるのでした。
忙しい国政執務の合間にこうして、この岩を眺めるのは、これといった趣味のない菅には貴重な楽しみの時間なのでした。
と、菅のスーツのポケットが静かに振動しました。
彼はiPhoneを取り出しました。電話の着信がありました。赤とグリーンのボタンが表示されているのをつい、目立つから赤を押してしまいそうになります。それで何度も重要な電話を切ってしまったことがありました。慌ててはいけない。内心でそう思いながら、彼はグリーンのボタンを押します。発信者の名前を見ながら。
「はい」とだけ、彼は言いました。相手は大学の登山部の三年下の後輩です。
「菅先輩、厄介な映像がYouTubeにあがりました」
その後輩は現在、NHKの副会長を務めており、時に外務省より早く、彼に世界の動向を伝えてきます。菅が極めて優秀な内閣官房長官である理由の一つが、このようにあらゆる箇所に張り巡らされた情報ネットワークがあるが故でした。
その後菅が映像を確認し、首相の安倍をつまかえるのに五分ほどかかりました。安倍は国会での審議が終わり、午後6時にさる地方議員との会食に向けて移動中でした。幸いまだ永田町のなかにいたので、速やかに首相官邸に移動を了解してもらえました。そうして安倍が首相執務室に戻った時には、既に彼の部屋のモニターにYouTubeの未加工映像が転送され、再生の準備が整っていました。
安倍と菅、それぞれの秘書官一名ずつを同席させ、菅が口を開きました。
「総理、この映像が公開されて恐らく5時間程度が経過しています。まずは内容を確認してください」
そしてまた、黒頭巾をかぶった“ベッカム”と、ひざまずかされた佐藤芳雄のふたりがモニターに現れました。
「我々はフッグース武装戦線。今からこの哀れな日本人を処刑する。我々はこの日本人が、彼らの国のプライムミニスターの誤った指導のせいでいま、死に行くことを知っている。神の導きなく、我々を滅させる悪魔の国たるアメリカの走狗として、費用負担を申し出た日本のアベよ。思い知るがいい。お前の誤った判断で、この日本人は死ぬのだ。お前の身代わりに!」
佐藤は首から真横に鮮血を吹き出し、その後横たわる胴体の上に生首を置かれた姿を晒しました。
安倍の秘書官はハンカチで口を押さえてえずきながら足早に部屋を去ってゆきました。
「山岡くんはこういうの、相変わらず弱いですね」と、菅の筆頭秘書官である吉澤が言いました。
しかし安倍自身がかなり青ざめた顔をしているのを見て、口をつぐみました。
「総理、」と、菅は映像の衝撃を安倍が受け止めつつあるのを見ながら口を開きました。「対応は三つあります」それは菅がこの映像を見てからこの部屋に安倍が来るまでの19分で考えたことでした。
「まずはこの映像が本物であるかどうかの確認です。よく出来たフェイク映像に我々が踊らされてはならないからです。
第2はこの被害者の身元確認です。この男が本当に日本人なのかどうか、確認する必要があります。
その二つが明らかになるまでは、我々は安易なコメントを出すべきではありません」
「スーさん」と安倍は片手を顔に当て、絞り出すような声を出し、側近の間だけでしか使わないニックネームで内閣官房長官を呼びました。「三つ目のアクションは?」
「これは交渉ではありません。彼らはいきなり人質を殺害してしまったのです。殺害予告や身代金要求ならやることはたくさんありました。でもこれはそういうのとは訳が違います。だから我々が取れる対応はシンプルです。単に彼らのやり方に憤るしかないのです。『到底許しがたい』というメッセージを明確に表明すること。
後は国内世論がこの殺害を政府の責任と言い出さぬよう、然るべき配慮をすることと、米国を援助して、こ奴らが勝手に始めた戦争を支援することでしょう」
「戦争?」うつむいていた安倍はそう言った菅の顔を見直します。「我々は戦争をしてるのか?」
菅は席を立って窓辺まで歩きました。
総理大臣の目を見ながら話せることではない、と思った。
「軍人でもない日本国民が他国の政治的意図で大衆の眼前で殺されたのです。我々が閣議決定を経て支払った支援金は即ち、砂漠で働く米兵の機関銃の玉となり給料となりました。そして彼らはそれが気に入らないという。それはそうでしょう。だって我々は彼らにとっては敵国なのですから。この国に暮らす国民はそう思わなくていい。ですが、内閣と関係省庁の担当者は今がイスラム国との戦争状況にある、と理解すべきです」
「スーさん。あんたの言うことは分かる。確かに彼らのやってることはクレイジーだよ。でも戦争はマズイよ。そんなこと口にしたらあちこちから袋叩きにあう。いま風に言うなら『炎上』だよ。これは確かに国家の対面に関わる重大事項だ。罪なき市民の命がこんな風に奪われることはあってはならない。でも、戦争なんて、そんな風に大袈裟に捉えて逆上したところで、得るものは何もない。私の名前を出されたからって頭に血が上っちゃマズいよ」
その言葉に、菅は背中を向けたまま、奥歯を噛み締めました。
―――あんたの叔父上の岸総理が安保条約を批准した時、あの人は死にものぐるいで国を率いていただろうよ。国会の丘をぐるりと囲む反対派のデモを見て警察も公安もサジを投げたけれど、国政の黒幕たる児玉誉士夫率いる関東のやくざ連中が三下の学生たちを蹴散らして、ようやっと国会の審議を通過したんだ。あの時の岸総理は、国の大親分として、身体を張ってこの国の将来を守ったんだよ。その甥っ子たるあんたには、その血は流れていないのかい?
菅は心の奥底でそう独りごちました。そしてそれを肚の奥で押しつぶして、安倍に振り向いた。
「総理、まずは一つ目と二つ目の課題を解決しましょう。我々がこうしている間にも、あの動画は世界を駆け巡っています。早急に政府としてコメントが求められるでしょう。課題に目鼻がついたら、私の方から記者会見は行います」
安倍はひとつうなずくと、よろしく頼むよと言葉にしました。そして事態は菅の恐れた方向に見事に流れて行ったのです。
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