第2話
イブラヒムは、北に面した窓のカーテンを開けました。夜明け前からパソコンの画面ばかり見つめていたので肩が凝っていたのです。イブラヒムは少し伸びをすると、片手で目を揉みました。
窓の外からは朝のペルシャ湾が見えました。海は干潮で、ずっと遠くまで岩混じりの砂浜がつづいていました。そのはるかかなたに、エメラルドグリーンに輝く海原が見えています。
そろそろ娘を起こす時間です。本当は妻に頼みたいところですが、妻は義兄の結婚式で、実家のあるUAEのドバイに戻っていたのです。娘のシャーリーンも連れて行ってくれれば良かったのですが、あいにく小学校の入学準備のあれやこれやで、カタールを離れるわけにはいかなかったのでした。
仕方がない、作業はいったん止めよう、とイブラヒムが思った時でした。彼のレボノ・ThinkPadが甲高い電子音を発しました。イブラヒムは思わず画面を凝視します。それまで作業していた動画の編集画面の下に、ISメッセンジャーのアイコンが点滅しています。
ISメッセンジャーとは、彼が所属する通信社で開発したネット・クローラー・アプリです。あらゆるSNSを
イブラヒムはアプリのサブコマンド画面から、直接そのリンクにアクセスしました。ブラウザが起動し、YouTubeにアクセスします。
スクリーンの中で、黒い頭巾をかぶった男と、オレンジ色のつなぎを着て、地面に跪いた男が見えました。頭巾の男はナイフを片手に、画面に向かって叫びました。
ベッカムだ、とイブラヒムは思いました。
“ベッカム”はYouTubeのスクリーンの中で、いつものように威勢良く吠えていました。
「我々はフッグース武装戦線。今からこの哀れな日本人を処刑する」
その後の文句は要するに、日本がアメリカの言うがままにシリア政府に財政支援をしたために、彼らの怒りを買った、ということなのです。言いがかりっぽい感じもしますけれども。
“ベッカム”とは西側メディアがつけた、イスラミック・ステートの処刑人兼スポークスマンのあだ名でした。かの人たちは英語が得意ではないので、英語の話せるスポークスマンが必要だったのです。そんな人たちはリクルートなどしなくても、世界各国からやってきます。色々な不満を抱えて。そんな男たち(不思議なことにそのほとんどは男性でした)を巧みに誘導して、対外的な交渉人に仕立てるのが、この国はとても上手でした。それもただ、大声で主張を怒鳴らせるだけではないのです。キチンとした暴力を伴わなくては、脅迫は単なる三文芝居に堕してしまいます。そうならないように、彼らはしっかりした暴力を行使し、その果てに声明を、英語圏の人たちにしっかりと伝わる言葉で行います。
数人いるそういう役割の人たちに、メディアは有名サッカー選手の名前を宛てていました。これは西欧メディアのせめてもの内輪の抵抗だったのかもしれません。このイギリス訛りのある男性は、おそらくイギリスから亡命してIS国に参加したと見られていました(実際のところはアイルランドでしたが)。だから故国の有名選手の名を借りて、“ベッカム”と呼び習わされていたのです。
しかし何よりイブラヒムを驚かせたのは、そこに写っていたのが、ヨーシュ・サドゥだったことでした。
ベッカムはひと通りの文句を唱えると、ヨーシュの首筋に、真横にナイフをスッと引きました。あの明るく、どこまでも楽天的だったヨーシュは、苦悶の表情もほとんど浮かべずに、首から鮮血をほとばしらせました。
奴ら、ヨーシュを徹底的に痛めつけたのだ、とイブラヒムには分かりました。そうして抵抗しないようにしてから、しっかりと処刑シーンを見せつけるのです。イブラヒムの全身から血の気が引いてゆきます。しかし親友を殺害されたショックと同時に、職業人としての彼の冷静な分析がなされてゆきました。以前の素人じみた処刑ムービーから、彼ら自身も多くを学んでいるのだ、とイブラヒムには分かりました。だからこそ、彼の中で怒りが募りました。ここまで来るのに、何人犠牲にした。何人の罪なき人を
彼が驚くべきことに、今回のビデオは『編集』されていました。ベッカムの最初の宣言から、頸動脈の切断、頭巾をかぶって顔色を見せないベッカムの黒い衣服に、ヨーシュの鮮血が飛び散るところで一旦映像は切られました。そして次の瞬間、地面に横たわったヨーシュの身体の上に、切断された首が置かれているのです。そこにベッカムの声がいわばナレーションのように流れます。
これまではノーカットで、人質が惨殺され、絶命してゆく様を見せつつ、彼らは自らの声明を流していました。しかしその間およそ15分。それは確かにインターネットの映像コンテンツとしては、見るに耐えない長さです。米国人の扇情的な映画文化に慣れてしまった人々には、最後まで見通せないほど、退屈な映像になってしまっていたのです。
それがどうでしょう。
今回は見事に編集され、90秒程度にコンパクトにまとめられていました。そのせいで逆に、ヨーシュの死は作り物のように感じられます。が、それよりも彼らはメッセージが最後まで視聴されること重要視したのだ、ということが分かりました。
イブラヒムは首を振りました。
そして、ヨーシュの言葉を思い出しました。
「俺に何かあったら」、と彼はヨルダンのカフェでイブラヒムに言ったのです。「それは包み隠さず報道してくれ。それが君経由でアルジャジーラに頼める唯一のリクエストだ」と。
あいつはいつもそうだ。勝手に決めて、人を走らせる。
イブラヒムは知らぬ間に頬に流れていた涙に、その時初めて気づきました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます