第1話


 ある砂漠の田舎から、この物語ははじまります。それはどこへもたどり着かず、ただ先へ先へと進めば元いた場所に行きついてしまう、円環の世界の物語。地球をぐるりと一周する、大きな鎖のつらなりをたどる、現代の昔話。さてさてどうなりますことやら。


 その村は、岩山ばかりの土地に広がっていました。乾いた岩肌に身を寄せ合うように、粗末なコンクリート造りの建物が集まっています。白、水色といったパステル調の色に塗られた家の集まる坂の町。

 その中に、やや大きめの家屋を持つ邸宅がありました。小さいながらも平地の庭があるこの家は、坂道の町のなかでは裕福さのしるしなのです。元々はある貿易商が住む家でした。けれども今は、別の男のひとたちが、その家を使っています。哀れな貿易商は、あらぬいいがかりをかけられて、自宅を追い出されてしまったのでした。ひどい話です。

 その家屋の奥からオレンジ色のの服を着た東洋人がとぼとぼ歩いてきました。そしてその後ろには髭を生やしたアレックスがついてきました。アレックスの後ろには彼の何人かの仲間たちも一緒でした。


 ―――喉が乾いたな。

 その時アレックスが考えていたことでした。できることなら1パイントの黒ビールを飲めたら素敵だな、と彼は思いました。けれどここはイスラムの地。ほかの土地ならいざ知らず、ここでそんなものを口にできるチャンスは万にひとつもないのだ、と彼は知っていました。だからサッサとコトを済ませて、せめて涼しい部屋の中でスプライトを飲もう。彼はそう思ったのです。西洋文明の象徴のようなスプライトが、この地でも普通に飲めることが彼をかすかに苛立たせます。よし、いいぞ、とアレックスは思いました。この苛立ちをスイッチにして、気持ちを切り替えよう、と彼は思ったのでした。


 部下たちが庭のまんなかで小さなビデオカメラを三脚に設置しています。そのカメラが『ソニー・ハンディカム』という名前で、オレンジ色のつなぎを着た東洋人の国で作られていることは、彼らのあずかり知らぬことですが。あずかり知らぬ、といえば、アレックスにとってこのオレンジ色のつなぎの男は、『東洋人』という認識でしかない者でした。実際のところ彼は日本人なのですけどね。でも日本人の私たちがノルウェー人とフィンランド人を区別できるでしょうか? それと同じように、アイルランド人の彼にはチャイニーズとコリアンとジャパニーズは全て東洋人というくくりなのでした。仕方がないことですよね。


 ハンディカムのセットが終わると、部下の一人が三脚の前に立ち、いくつかの文章の書かれた大きな紙を胸に掲げました。ありがたいことにそれは、アラビア語でなく、英語で書かれていました。

 そして三脚の前にはすっかり憔悴しきった東洋人を跪かせました。東洋人はここに来るまでに部下たちの手によってひと通り痛めつけられており、あまり抵抗しないようになっていました。これは彼らがこれまで何度かの経験で学んだこういう時のためのセオリーでした。


 アレックスは部下から黒い覆面をもらいました。目のところに穴の空いている覆面です。それを頭からすっぽりとかぶって、渡されたナイフを右手に持ちました。

 それから東洋人の脇に立ち、部下のカメラマンからのサインを待ちました。カメラマンは跪いた東洋人とその脇に立つアレックスが程よいサイズでフレームに収まるように画角を決め、録画ボタンを押しました。液晶モニターの小さな画面の中で赤い点が灯り、録画の秒数が進み始めます。カメラマンはアレックスにサインを出しました。

 アレックスはひとつ大きく息を吸うと、声を張って言いました。

「我々はフッグース武装戦線。今からこの哀れな日本人を処刑する」

 アレックスは片手に持ったナイフをビデオカメラの小さなレンズに向かってかざしながら、覆面の中で大きな声を出しました。それは彼にいつも、ダブリンの高校の演劇会でチェーホフの芝居をやらされた時のことを思い出させるのでした。彼の役はトレープレフという悲劇の主人公でした。


『―――面白くないんです、僕のことが。奴ときたら。僕の芝居も、僕の脚本も、なにもかも!』


 そのセリフはアイルランドにいた時のアレックスの気持ちそのものなのでした。同級生にイジメられて、小突きまわされる日々。あの時の鬱屈とした気持ち、やるせなく、虐げられる情けなさ。全てを思い起こしては、心のなかの炉にくべる薪として、彼はビデオカメラの小さなレンズに向かって叫ぶのです。部下の持つ台本のかかれた紙を見ながら。


「我々はこの日本人が、彼らの国のプライムミニスターの誤った指導のせいでいま、死に行くことを知っている。神の導きなく、我々を滅させる悪魔の国たるアメリカの走狗として、費用負担を申し出た日本のアベよ。思い知るがいい。お前の誤った判断で、この日本人は死ぬのだ。お前の身代わりに!」

 そして彼はうなだれた東洋人の前髪を掴み顔を上にあげさせると、その首の脇にそっとナイフを滑らせました。弱り切った東洋人は、小さく声をあげました。

 彼の首に横一文字のラインが引かれたかと思うと、次の瞬間、首から真横に鮮やかな赤い血が吹き出ました。やや黒ずんで見える血は、シャワーのように吹き出し、あたりに飛沫しぶきを飛び散らせました。その血はアレックスの黒いずぼんにかかり、黄色い砂の地面にこぼれ落ちてゆくのでした。このずぼんは処刑用なので、血の汚れを気にしなくていいのが助かるな、とアレックスは思いました。


 失血死は緩慢な死に方です。

 血液が徐々に身体から失われ、それに伴って脈拍や意識が遠のいてゆきます。ですがこの東洋人は、ここにくるまでに既に十分に痛めつけられていました。顔を除いた身体のあちこちを、こってりとした暴力でたっぷりと衰弱させられていました。だからむしろ、脈や意識が遠のくのは彼にとっての福音なのです。死は異教徒のこの東洋人にとっても平等に訪れる安寧なのだ、とアレックスは思いました。


 ゆっくりと、時間をかけて死んでゆく東洋人。アレックスはその場を離れ、アシスタントはビデオカメラの録画を止めました。こんなゆっくりとした死をすべて収録する意味はないからです。アレックスが頭巾を取り、家屋のベンチに腰掛けると、入れ替わりに“ブッチャー”達がやって来ました。


 肉屋ブッチャーとはアレックスがつけたあだ名です。肉屋が山羊や羊の屍を手際よく解体するように、もともとは遊牧民である彼らは家畜の肉の解体に慣れた人々なのでした。その彼らに金を払い、死んだ東洋人の身体を預けました。彼らは背中に背負ったナップザックからいくつかの道具を取り出しました。人間の身体の中でも、首は筋肉の塊で、切断するにはそれなりの技術と専用工具が必要だからです。

 薄く半月状にそり返った形のナイフでまずは首の肉を円周状に切り裂いてゆきます。既に出血は終わっているので、血飛沫が出ることはありません。彼らは淡々と作業をこなして行きます。やがて首の骨に達すると、鉈のような大きく、重みのある刃物を取り出しました。地面に横たわる亡骸の、骨を残して繋がっている首と胴体の間にその刃物を置き、ブッチャーがそれに体重をかけます。ゴリっと鈍い音がして、東洋人の首は胴体から離れました。首はそのままゴロリと転がると、顔を地面に向けて止まりました。


 ああなると、人の首もモノと同じだな、とアレックスは思いました。最初の頃は吐き気をもよおした光景も、今では彼の日常の一端になりました。

 部下が髪を掴んでその首を持ち上げると、倒れている胴体の上に置きました。まるでショートケーキの上に置かれたイチゴのように。それから撮影係がもう一度アングルを調整して、先ほどの続きを撮影します。アレックスも頭巾をかぶって、ナイフを手に持ちます。犯行メッセージの撮影というのも、なかなか手のかかるものなのです。アシスタントが、カンニングペーパーを持ってビデオカメラの脇に立ち、カメラマンが手で撮影開始のサインを出します。

「見よ。ヨーシュ・サドゥはこのような姿になった。お前たちの…」とアレックスが一生懸命声を張ったその瞬間。


 メェェェェ……。


 村のどこからか山羊の鳴き声がしました。そののどかで間の抜けた声に、緊迫感に包まれていた現場はたちどころに緩むのです。アレックスの部下たちはつとめて神妙な顔をしていましたが、そばで見ていたブッチャー達は顔を見合わせて苦笑していました。


「待て待て待て」と言ってアレックスは両手を振りました。こんなものを犯行声明のビデオに使う訳には行かないのです。卑しくも人ひとりの生命を奪ったのです。それはもっと厳粛に、おどろおどろしくなされるべきです。

「もう一度、最初からだ!」

 アレックスは不謹慎なブッチャー達を怒鳴りつけるように声をあげ、ビデオの撮り直しを命じたのでした。

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