第四十五話 これからはずっと……

 な、なんなんだ一体……?

 秋空の中から膨大な力があふれ出てきている。

 まさか、あれこそが――


「ラプラスの悪魔の、意思……」


 今まで見た悪魔とは全く違う。

 今までの悪魔には人格があった。心があった。だが、こいつからはそういったものを感じない。

 やはり、概念体であるからこそか。いや、概念体と言うのなら、神や悪魔だってある意味そうだ。ならば、この違いはなんなのだ?


――そうか。こいつは概念体ですらないのか。

 本来ラプラスの悪魔という概念は、宇宙全ての理をあまねく決定付けているものだ。だがしかし、こいつはその域に至っていない。故に、ラプラスの悪魔は完成していない。

 そういう意味では、悪魔憑きの中にいた悪魔だって弱体化しているので完成していないと言えるが、しかし完成していないからと言って悪魔でないとは言えない。

 しかし、ラプラスの悪魔に関しては、完全な状態でなければラプラスの悪魔と呼べないのだ。最初から、完璧な概念として定義づけられているのだから。

 つまり、こいつは存在ですらない。非存在なのだ。

 だから、秋空の意識を乗っ取ったこの悪魔の意思は――存在になりたいという、ただそれだけの切実な願いだったのだろう。


 現にこの世界に存在している僕にとっては、非存在であることの恐ろしさはわからない。

 生命でもなく、霊体でもなく、概念でもなく、そして、存在ですらない。ただ、「ない」があるだけ。

 だからこいつは、なんとしてでも存在になろうとしたのだろう。それは当然の摂理だ。けれど。

 その過程で、妃香華は犠牲になった。巫だって、苦しめられた。神様ですら利用された。

 それを間近で見てきた僕が、こいつを赦せるはずがない。

 たとえそれが当たり前の摂理でも。「存在」になりたいだけの行為だったとしても。

 だからと言って、「なら仕方ない」と割り切れるほど、僕は大人じゃない。

 故に、僕は――


「ラプラスの悪魔、おまえはここで、僕が倒す―――!」


 妙刀・神薙を掲げ、叫ぶ。しかし、


「な……っ!」


 僕という存在を構成している理が、書き換えられていく。確定事変。この世の摂理が問答無用であいつの摂理に書き換えられてしまう、対処不可能の権能。

 本体が危機を感じてしまったせいで、その効力が増幅され、伊梨炉秀が御札に入れ込んだ対策術式ですら対抗できなくなっているのか。

 まずい……このままでは、僕が僕でなくなってしまう―――!


「大……丈夫だ……」


 刹那、確定事変が収まる。

 何が起こったのか、など問うまでもない。この現象は、今の声の主が起こしたもの。つまり――


「秋空、おまえ、ラプラスの悪魔の力を抑えて――」


「ああ……だが、長くはもたない。早く倒してくれ……っ!」


 僕は、その言葉に頷く。

 秋空が抑えてくれているわずかな時間で、ラプラスの悪魔を葬り去らねばならない。

 そのために必要なのは圧倒的なまでの一撃。すなわち――

 極式・陽陰。魂を賭さなければ放てない、概念解放しかない。

 だが、これ以上魂を削るのなら、僕の魂は完全に崩壊する。

 いや、何を迷っているんだ。それしか方法がないのなら、やるしかない。

 秋空が作ってくれたこの機会、逃すわけにはいかない――っ!


「概念――解放」


 ラプラスの悪魔。その中心から空間が歪んでいく。


「極式・陽陰―――ッ!」


 そして。吸収と放出。その概念の極致が具現し、ラプラスの悪魔を葬り去った。

 同時に僕の魂も、完全に崩れた。



◇◇◇



 消えていく。

 僕を構成する全ての要素が、完全に崩れ去っていく。

 ああ。これが消滅か。僕の魂は消え去り、輪廻の輪にすら加われない。ラプラスの悪魔と同じく、完全なる非存在になるのか。

 あれだけ覚悟はしていたつもりでも、やはり底なしの恐怖が襲う。

 そんな中、崩れかけていた魂に、暖かい何かが流れ込んだ。



◇◇◇



 灯醒志がわたしの中の悪魔をなんとかしてくれた後。わたしが目覚めると灯醒志は倒れており、魂の専門家だという人――琉天寺多真志さんによって応急処置をされていた。

 その処置が終わった後、わたしは真っ先に琉天寺さんに灯醒志の状態を訊いた。

 すると、その答えは――


「彼は魂の一部分を失っている。これまでの戦闘で、文字通り何度も魂を賭けてしまったんだろう」


「それは、どれくらい……?」


「どれくらい、と言われると難しいな……。

 そもそも、魂を形成しているエネルギーの総量は測り知れない。まさに未知数だ。魂の専門家としては不甲斐ない話だがね。

 ただし、一つだけ言えることがある」


 琉天寺さんは、重い表情を浮かべて言った。

 

「魂というのは完璧な存在だ。それ故、不要な部分というのがほとんどない。よって、ほんの一部分でも欠けてしまえば、崩壊が始まってしまう」


「じゃあ、灯醒志の魂は……」


「ああ、相当に危険な状態だ。今は私が応急処置をしておいたからなんとかなっているが、それもあと少し遅ければ間に合わなかった。

 これからも定期的に処置しなければ、すぐに崩壊してしまうだろう。そして――」


 続く言葉は、絶望的なものだった。


「もしこれ以降また魂を削ってしまったのなら、彼の魂は完全に崩壊する。そうなってしまえば私の手にも負えない」


「そんな――」


 魂を削るのはもうやめろと言っても、灯醒志はきっと無茶をしてしまうだろう。

 自分が大変な状況でも、灯醒志はいつも強がって、一人で抱え込んで、無理をしてしまう。

 灯醒志がそういう風になってしまったのも、多分わたしのせいだ。

 思えば、わたしはどれだけ多くの重荷を、灯醒志に背負わせてきたのだろう。

 その果てに、灯醒志が魂を失ってしまうのなら、わたしは――


「……なんとか、なんとか灯醒志の魂を元に戻す方法はないんですか?」


「言っただろう。魂を形成するエネルギーは測り知れないと。欠けてしまったほんの一部分を戻すだけでも、途方もないほどのエネルギーが必要だ。

 例え神の奇跡であろうとまかなえないほどのな」


 やはり、そうなのか。

 でも、だとするなら――もう一つ、手はあるかもしれない。


「……なら、別の魂を使っても駄目なんですか?」


「いや、違う魂のエネルギーが他の魂のエネルギーとして適応できるかどうか――待て。まさか、君は――」


「はい。わたしの魂を使って、灯醒志の魂の欠落分を補填できるのなら……それが最善だと思うんです」


 その発言に、琉天寺さんは目を見開いた。


「――君たちは互いに霊体で、かつ、ずっと結合リンクが繋がっていた。そして何より、心が通じ合っているように見える。それならば、たしかに成功確率はゼロではないだろう。

 しかしわかっているのか。魂を純粋なエネルギーに変換して、他者の魂の欠落部分を補填する。そんなことをすれば、今度は君の魂が消えるんだぞ。

 彼の魂が消滅するのを防ぐために、君の魂が消滅する。それではまるで、身代わりだ」


「……わかっています。

 そもそもわたしが悪霊だったとき、灯醒志に魂を破壊させられても文句は言えない状況だった。にも関わらず、灯醒志は自らの苦しみも厭わずに、わたしを助けてくれたんです。

 そのうえ、悪魔を解放してしまったときも助けてくれました。なら、今度はわたしが灯醒志を助けないと」


 灯醒志は、悲しむかもしれない。でも、これが今のわたしにできる精一杯だから。

 わたしは、そんな思いを琉天寺さんに吐露した。


「……そのための術式は一応つくっておく。だが、もう一度冷静になって考えた方が良い」


 わたしの懇願に、ついに琉天寺さんは根負けした。

 灯醒志がわたしを助けてくれたように、わたしも灯醒志を助けたい。

 この行為だけですべての恩を返しきれるとは到底思えないけど。

 でも何よりも、わたしは灯醒志に生きていてほしいのだ。

 だから。

 決意は、とっくに固まっていた。



◇◇◇



 欠けていた魂を満たしていくこの暖かな感じ。考えるまでもない。これは――


「妃香華――まさか……っ!?」


「……うん、そうだよ。わたしの魂を使えば、灯醒志の魂は元に戻る」


 僕の中に流れ込んでくる妃香華の存在すべてが、そう語り掛けてくる。

 その言葉が本当なら……止めないと……っ!


「そんなの、納得できない……っ! だってそれじゃあ、妃香華の魂が――」


「……それは違うよ。

 たしかにわたしの魂は、もうわたしの魂じゃなくなる。でもそれって、どの道そうなんだよ。

 この先わたしが成仏できなければ、わたしは霊として、永遠にこの地上に残り続ける。

 巫さんや他の抑霊衆の人たちが生きている間はわたしのことを守ってくれるだろうけど、その後、わたしは除霊されるか、放り出されて悪霊に戻るか、その二択しか残されていない。

 仮に成仏できたとしても、輪廻の枠に入って別の存在になるだけ。そうなってしまえばもう、それはわたしとは言えない」


 たしかにそうだ。ここで僕が死ねば、どのみち妃香華に未来はない。僕が神で在り続け、永遠の時を妃香華と共に生き続けるしか、彼女が救われる術はないのだ。


「でも、ここで灯醒志の魂を再生する一助になれたのなら、私の魂を形成していたエネルギーは灯醒志の魂に残り続ける。

 生きているときは周りに負の感情以外何も残せなかったわたしが、最後の最後で、それ以外のものを残すことができる。だからこれは、わたしのためでもあるんだよ」


「……それは単なる理由付けであって、本当は僕を助けるために無理してくれているんじゃないのか?」


「ううん、そんなことない。これは――灯醒志と共にあるための、唯一の方法。わたしという存在が消えたように見えても、これからはずっと、灯醒志の中に在り続けるから」


 そう言って、妃香華はこちらを安心させるように笑みを浮かべた。


「だから悲しまないで、灯醒志。本来ならこれは、喜ぶべきことだよ」


「妃香華――」


 妃香華は消えるわけじゃない。僕の中に、永遠に在り続ける。正直、納得はできなかった。やはり妃香華は、また自分を犠牲にしているだけなんじゃあないか、そんな風に思ってしまう。

 けれど。

 妃香華の慈愛と決意に満ち溢れた表情を見たら、否定することなんてできなかった。


「……本当に、それが妃香華の幸せなんだよな……?」


「うん。それは、誓って本当」


「わかった。それじゃあ」


 せめて、笑顔で見送ろう――

 僕はそう思い、妃香華に微笑みかけ、

 そして、抱き締めた。


「妃香華……ありがとう」


「ううん、お礼を言うのはこっちの方。灯醒志は、なんどもわたしを助けてくれたから。灯醒志は、本当に、ずっとわたしのヒーローでいてくれた。だから――」


 ありとあらゆる感情を内包した声で、妃香華は言った。


「ありがとう。これからはずっと、一緒だよ」


 そして、暖かいもの妃香華の魂が僕の中に余さず入り込んでくる。

 妃香華の存在そのものが、僕を満たしていく。

 そして、妃香華の存在そのものが消えていくという相反する感覚も同時に感じられ――

 刹那とも永劫とも感じる、とても幸せで、とてつもなく悲しい時間の後に。

 僕の魂は、すっかり元通りとなった。



◇◇◇



 目を開けた。

 ……体が重い。

 どうやら神としての力は、一度魂が壊れたことにより完全になくなってしまったようだ。

 だけど今となっては、そんなことなどどうでもよかった。


「妃香華……」


 名前を呼ぶ。もう彼女の存在が消えてしまったことはわかっているのに。


「妃香華……っ!」


 いや、妃香華は消えたのではない。僕の中にずっとあり続けているのだ。だから、これは喜ぶべきこと。妃香華自身、そう言っていたじゃないか。


「妃、香華……」


 だと言うのに。

 どうしてこんなにも、涙が溢れて止まらないんだ。


「う、あああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっ!」


 泣いた。生まれてから今までで、これほどまでに泣いたことがあっただろうか。

 途方もなく広い、天界全土に響き渡るほどに。

 僕は、ただ泣き続けた。

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