第三十七話 悪魔マモン

 人間は強欲な生き物だ。

 どんなに満たされていても、次々欲望が湧いてくる。

 富や財の化身であるこのオレ――悪魔マモンは、人間のそんな在り方を気に入っていた。


 故にオレは、人間を惑わすことはあっても精神を乗っ取ることはしなかった。あくまでも本人の意思で、その欲望を解放させることに快楽を覚えていたからだ。

 金銀財宝を発掘する術を教えたりもしたので、そういったことも含めれば、この世の富の多くはオレがいたからこそ人間の手に渡ったと言ってもいいかもしれない。


 ともかく、長い間そうやって生きていたオレだったが、ある時そんな生き方に変化が起こった。

 眠りから目が覚めると、霊的な研究室にいたのである。否。正確には、そこにいた少女に知らぬ間に憑いていたのだ。

 状況はすぐに察しがついた。おそらく悪魔崇拝者か、あるいは悪魔の力を利用しようとしている輩が人工的に悪魔憑きをつくろうと思い立ち、この少女にオレを憑依させたのだろう。

 なるほど、人知を超越した悪魔の力すら意のままに操ろうとする人間の飽くなき欲望は見事なものである。そう初めの頃は感心していたのだが、しかしそれはすぐに間違いだと気付いた。


 オレをこの少女に憑依させた奴らは、悪魔憑きを解析するためか、あるいは制御するためか、多くの実験を繰り返した。

 オレは奴らにとって、ただの実験体に過ぎなかったのだ。まあ、悪魔であるオレはまだいい。人間にとって、違う種の生命を実験に使うのは至って常識だ。

 だから、オレ自身を実験に使うだけだったらなんの問題もなかった。むしろ、悪魔も畏れぬその強欲さに尊敬の念すら覚えただろう。


 しかし。奴らはオレの依り代となった少女すら実験対象として見ていた。

 どころか、悪魔を制御するには悪魔憑きの生体反応が鍵になるとでも思ったのか、少女に対して、肉体的にも精神的にも、多大な負荷をかけ続けた。

 結果、名前すら与えられなかったその少女は、身も心も粉々に壊されてしまった。


 あの頃、オレは少女に尋ねたことがある。オマエに欲望はないのか、と。

 少女は言った。この苦しみから抜け出したいと。

 それは欲望ではない。ただ、当たり前の望みでしかないのだ。それなのに、それすら叶えてやることができない。

 本当に叶えてやりたかった。しかし、もともと悪魔憑きを研究しようとしていた連中に捕まっているのだ。オレの反乱に対する守りセーフティーは万全だった。


 そして少女とオレは、実験体としてずっと苦しめられ続けた。

 その後オレたちを拘束していた奴らは外部組織の介入によって壊滅し、その際、オレは秋空に助けてもらったのだ。まあ、オレを利用するための行為だったのだろうが。

 しかし、それはあまりに遅すぎた。その頃には既に少女の心は完全に壊れ、機能を停止していたのだから。

 少女は自らの心に鍵をかけることで苦しみを遮断したのだ。そうせざるを得なかったのだろう。それほどまでに、少女は追い詰められていたのだ。

 そしてそうなってしまえば、待っているのはゆるやかな死のみ。心の働きが失われれば、肉体と魂の連結が曖昧になってしまうからだ。

 故に、オレがこの少女の意識の主となることにした。紛い物だとしても、意識が――心が存在していれば、なんとか魂と肉体の繋がりを保つことができる。

 所詮その場しのぎの姑息療法ではあるが、しかしそうとわかっていても、そうせざるを得なかったのだ。


 欲望を持つこともできず、当たり前の望みすら敵わないまま、心を閉ざしてしまった少女。

 きっと同じような運命を背負わされた人間も、この世の中のどこかにはいるのだろう。

 赦せなかった。

 飽くなき欲望を満たせる人間がいる中で、欲望を抱くことすらゆるされず、ただ苦しみの中に生きなくてはならない人間がいる事実が。そんな理不尽を人の身に背負わせる運命が。

 そして、そんな運命を背負った人間を救う方法は存在する。しかし、それを実現するためには秋空の能力が必要だ。

 オレは中住の力を奪った。神々の力と悪魔の力を合わせれば、秋空の未来視をかいくぐり、その能力を奪えるはず。

 そして創り出すのだ。すべての人間が、当たり前の幸せを手にできる世界を。欲望すら持てない、そんな境遇に、もう誰も陥らない世界を。

 そんな世界になれば、この少女もきっと心を取り戻せるはずだから。

 そうすれば、この体の主導権を少女へと返しても大丈夫だ。


「天使と悪魔が戦いを始めたようだね。あいつらを一掃するためには多量のエネルギーが必要だ。

 さあ、リーダーから奪ったその力、僕に渡してくれ。多くの神々を取り込んだその力なら、エネルギーとしては申し分ないだろう」


「ああ、そうだな。だが、逆でもいいんじゃねえのか?」


 オレは、少女のものではなく、オレ自らの腕を出現させた。そして、


「つまり、オレがオマエの力を奪えばいいのさ――強欲の腕avaritia!」


 それを秋空は簡単に避ける。

 だが、負けない。オレには、中住から奪い取った神々の力があるんだから――!

 しかし。



 ゾワッ、と全身の身の毛がよだった。


「おまえ……、多量のエネルギーを使わないとその力は使えないんじゃあ……」


「そうだね。今この状況じゃあ数回しか使えないよ」


 つまり――

 オレ一人を殺すのには十分じゃあないか……っ!


「さあ、答えるんだ。ここで死ぬか、大人しく力を差し出して、僕を出し抜くチャンスを探るか」


「うう……」


「たしかに僕は君が死ぬと困るけど、まあ、また別の協力者を探して再び計画を始めればいいだけだし、君を殺すのに躊躇はしないよ。

 それに君が意識を所有していることで彼女は生きているけど……僕が君を殺して、心を失った今の彼女に身体の所有権が戻ったらどうなるかな?」


「ううううううう……っ!」


「決めるのは君自身だ。力を渡すか、ここで死ぬか。さあ、どうする?」


 いつも通りの笑みで、秋空緋紅麗は冷酷に告げた。

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