蛇の足


   人は赤子に生まれて

   夢のうちに一度死ぬ

   死の影絵を踏みしめて

   揺りかごから覚めるのだ





 バタフライエフェクト、という言葉がある。蝶の羽ばたきのようにごく小さな動きが、海の向こうで嵐を作り出す――かもしれない、と。

 ヒカルの辿った道が果たしてに関係があったのかは分からない。しかし、何かの作用はあったのだ。誰も確かめる事はなくとも。

 五代礼は親戚の家で暮らしていた。日がな一日窓辺に座り込み、一言も発しない。家主たる老婦人が促さなければ、食事も睡眠も摂らない。半年以上そんな有様だった。

 しかし、ある春の日の事だった。よく晴れて、窓の向こうに花が溢れていた。

 婦人が二人分のお茶を持って来た。

「お茶が入りましたよ。さあ飲みましょう。今日は本当に、いい天気ねえ」答えがなくとも何かしら話しかけるように、とは医師の指示であり、婦人の方針でもあった。

 その時だった。瞬き以外の動作をしない礼が、視線を明確に窓の外に遣ったのは。

「ひかる……?」その口から呟きが零れた。婦人はティーセットの載った盆を危うく取り落とす所だった。

「礼ちゃん? どうかしたの?」

「おばさま……」彼女は婦人をじっと見つめた。まるで長い夢からたった今醒めたような目が潤み、涙となって頬を伝った。

「わたし……、赤ちゃんを供養してあげなくちゃ……」礼は泣きながらそう言った。

 婦人は盆を脇へ置くと、礼を抱き締めた。

「――おかえり、礼ちゃん」彼女の道は険しい。だが、今日からやっと前に進めるのだ、婦人はそう思った。









 榊ヒカルの葬儀が行われていた。親族だけで、という父の希望により、それはとても規模の小さいものだった。昏睡状態のまま、その肉体は眠るように死んでいった。魂が世界の外殻を飛び出した際に肉体との繋がりが途絶えてしまった、とは周囲の人間には知る由もない事だ。

 母は無言で座っている。表面上は落ち着いて見えるが、それは演技なのだ、と紫苑は知っていた。女優としてのキャリアはこんな所でも発揮されるのか。

 紫苑はどうも実感が湧かなかった。黒い額縁に収められた、控えめに笑う弟の写真は現実感が希薄だ。病院へ行けばまだ彼はそこにいて、どうしたの、なんて尋ねてくるような気さえした。すぐにでも会場を飛び出して、確認しに行きたい衝動に駆られる。しかしそんな事は出来なかった。家族以外との交流がほとんどなかった弟の葬儀を抜け出すのは気が引けた。

 彼女は窓越しに外を見た。全国的に高気圧に覆われ、晴れて暖かくなるでしょう――気象予報士が今朝そう言っていた。

 その時、窓の外からこちらへやって来る人影が見えた。飛び抜けた長身で、長い髪を一つに結び、傍から見ても分かるくらいに慣れない礼服と革靴に四苦八苦する人物が。紫苑はその人物を知っていた。病院で会った事がある、彼は――

「……江崎、永理也さん?」

「……榊、ヒカル……くんの葬儀はここで合ってますか」彼は息を切らせつつ言った。





 紫苑と永理也は会場の外で話をする事にした。

「どうして――」どうしてここへ来たのか、彼は弟とそれ程親しかったろうか。

 永理也は首を捻った。「? 普段は新聞なんて読まないのに、今日は気紛れで開いてみたんだ。そうしたら、お悔やみ欄にヒカルの名前があった。行かなきゃいけないような気がして、親父に礼服と靴を借りて来たんだ」懐から煙草を慣れた仕草で取り出し、「あ」と彼は紫苑を見た。「吸ってもいいか?」

「どうぞ」

「どうも」

 二人は暫し無言だった。紫煙が春風に流され散っていく。

「……その、弟さんは見つかったんですか?」紫苑は思い切って尋ねた。

「ああ、見つかったよ」彼は煙草を口から離した。「墓の中にな」

「――」

「あいつは、何処にも行ってなんかなかった。俺が見落として……、いや、見ないふりをしてただけで。退院してすぐ墓参りに行ったよ」

「――光も、何処にも行ってない、って思いますか?」

「さあ、どうだろうな。少なくとも俺は病院を出てから会ってないし」

「何だか実感が湧かないんです。病院に行けば、まだ会えるような気がして」

 永理也は長々と煙を吐き出した。「俺は学がないし、あんまり上手い事は言えないが……、すぐに受け入れなくてもいいんじゃないか? 俺も随分かかったし、ある日ふっと『ああ、もうあいつはいないんだな』って気が付くんだろうよ」

「そういうものでしょうか」

「死んだ人間に、生きている人間がしてやれる事はそれ程多くないんだ。過去に囚われていてはいけない。普段は自分のやるべき事をやって、時々思い出してやるくらいでちょうどいいんだ――ってのは坊さんの受け売りだけど」

 背後の会場が俄かに騒がしくなった。二人は振り向いたが、目の前には壁しかない。

「何かあったんでしょうか?」

「さあ?」

 喧噪は次第に近くなる。その最前列が二人の前に飛び出す。痩せ細った体に死に装束を着せつけられ、むしり取った天冠を手に、は紫苑に向き直った。

「――ただいま、紫苑」

 そして彼女は、困惑と次第に湧き起こる喜びを確かに感じながら、

「おかえり、ヒカル」と返した。

 陽光の下で桜のつぼみが綻び、満天星ドウダンは夏恋しげに空を見上げていた。


































 事の語事も是をばこの物語はこれでお終いです、ってね。

 あれ、まだ聞いてたんだ? 『僕』の話を全部聞いてくれるの? 嬉しいなあ。じゃあ、『僕』ももう少しだけ話をしてみようかな。

 ――ああ、そう言えばまだ名前を名乗ってなかったね?

 『僕』は『榊ヒカル』。『光』の神が落とした動力炉が、榊ヒカルの無意識下の欲求や思考に反応して出来た人格。ヒナタ? 十五年前に死んだよ。『僕』はそう名乗った覚えはないけど。まあヒカル本人には勘違いさせたままでもいいんじゃない? きょうだいの分まで生きると思えば、死のうなんて考えも起こさないでしょ。

 それに、もう『僕』は彼と言葉を交わす事はないしね。

 『光』の神は既に『僕』らの世界から遠く離れた所へ行った。ヒカルには「誤差はあるだろうが、三十年以内に望む全ての人間に会えるだろう」って言ってたから、運命を少し調整したんだと思う。動力炉が作り出した『僕』を維持出来るだけの魔力はもうヒカルにはない。『僕』はもうじき彼の人格の底で眠りに就く。死にそうになっても、もう助けてあげられない。

 だから、『僕』はこの話を始めたんだ。あの世界であった事を覚えていてほしくて。誰かの記憶に残ったなら、苦しみも悲しみもきっと無駄にはならないから。


 それにしても、ヒカルはこれから先どうなるんだろうね? 生まれてからずっと病室で生きてきた彼には、あの世界にあったものとは別種の苦労が待ち受けている。怒涛の日々を生きるうちに、かつての記憶は夢として忘れられていくのかもしれない。でも、『僕』はそれでも構わないのさ。

 だって『僕』はから。眠りに就いても死ぬわけじゃなし、最後の時まであの日々の記憶を手放しはしないよ。


 さて、それじゃあここまで聞いてくれたあなたにをあげよう。もっともここからじゃ上手く届かないかもしれないけど、その時は笑って許してほしいな。この喜劇は正義じゃなくて赦しを重んじるものだからさ。


 あなたの行く道、選ぶ道――その全てに、絶えざる光の祝福あれ。








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天蓋を穿て 鼓ブリキ @blechmitmilch

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