第三部 天にありてルーナ

27,元敗残者達の帝国

 およそ二百万の夜と昼を巻き戻せば、そこには始点がある。

 男は廃墟に囲まれて立ち尽くしていた。戦火は苛烈を極め、栄華なる祖国も、倒すべき敵国も、皆等しく薙ぎ払われた。彼だけが最後に残った一人だった。

 何が間違っていたのか、これからどうするべきか、何も考えが浮かばない。カサンドラの予言、破滅の定めが脳裏に浮かぶ。自分達は何故あれ程頑なに彼女の言葉を信じようとしなかったのだろうか。何もかも、あの言葉通りになったではないか。自分の喉を掻っ切る気力さえ残ってはいない。鈍色の曇天のように厚く心を覆う憂鬱を払う術とてないまま、ただ茫然とそこにあった。

 だから、最初は聞き間違いだと思ったのだ。この地に最早、自分の名を呼ぶ者がいる筈はない、と。しかし二度目はさらにはっきりと耳朶を打った。

「アエネイス」年老いた男のそれだった。「、わしの声が聞こえぬか」呼びかける声に少し焦れた色が滲んだ。

「誰だ……?」首を回して辺りを見るが、誰もいない――いや、。崩れ落ちたやぐらの陰に溶け込むように立つ、ローブを纏った長身の人影。顔はフードに隠されていたが、そこから灰色の長いひげが垂れていた。

「わしはお前を呼びに来たのだ、アエネイス。華やいだ王国トロイアの最後の生き残りよ」

「誰なんだ。こちらへ来てくれないか」歩み寄るには余りに疲れ過ぎていた。

「それはならぬ。わしは日の下を追われた身故、陰にしか立つ事は出来ぬのだ」自嘲的な笑い声と共に髭が揺れた。

「俺を呼んで、どうするつもりだ。もう何も残っちゃいない。俺と俺の国は負けたんだ。今から何を成し得る筈もない」

「しかし、お前は未だ死んではおらん。傷ついてはいるものの、五体に欠ける所もない。わしと一緒に来るのだ。二度と敗北する事のない帝国を築く為に」

「はあ……?」老人の話はアエネイスには理解出来ないものだった。

「わしとて敗北者よ。息子達の軍勢に敗れ、故郷を追われた身。しかし、わしもまた権能をふるうに支障はない。故に目指すのだ。未だくらい地にて新たな神としてひらくべし、とな」

「……あてはあるのか、その帝国とやら」曇天の隙間より光が差し始めた。まだやれる事がある。それだけで、枯れ果てた精神が息を吹き返すのを感じた。

「ある。さして遠くない地に。北の神々も死に絶えた今、わしらの帝国を阻む者もあるまいて」

「北? ヒュペルボレオスの事か?」

 老人は苦笑したらしかった。「いや、そうではない――北の果てに楽園などなかったのだ。氷と共に暮らす神と人とがいただけの事」

「――そういえば、まだあんたの名前を聞いてなかったな。俺の名前は知っているようだから、名乗りは必要あるまい。敗北せし神よ、その名を教えてくれ」

 老人が音もなく片手を挙げた。その手には鎌が握られていた。「聞いて驚くなよ。我が名は。我が鎌に刈り取れぬものはなく、お前の帝国に果てのない豊穣を約束しよう」

 驚かないわけにはいかなかった。

 これが、際限なく肥え太る帝国の始まり。




 アエネイスはこの時、クロノスと名乗る老人の背後に立つ影に気付く事はなかった。









「お腹空いた……ぁ」ヒカルは呻いた。

 堀から這い上がる最中、またその直後は熱病めいた集中力で他の事に思いを馳せる余地がなかったのだが、生きている以上空腹にはなる。しかし、今の彼にそれを満たす方法はない。金銭の類は持ち合わせておらず、汚らしい身なりでは食べ物を恵んでくれそうな身分の人に近づく事さえ出来ず、飢えが彼を苛み続けた。何の本で読んだのだったか、餓死は最も苦しむ死に方だという言葉を思い出す。この苦しみが薄れ始めた時、それは肉体が死に傾いた事を意味するのだろう。

 いっそ土でもいいから口に入れられないものかと探しても、ルテティアの街はかなり発達し、無数の石で舗装された地面には雑草の忍び込む隙間さえない。それでも彼は這うようにして進み続けた。生きなくては、きょうだいヒナタの分まで生きなければならないのだ、という気力だけでどうにか自我を保っていた。

「もし、そこなお方」穏やかで知的な声が頭上から聞こえ、ヒカルは反射的に顔を上げた。黒いローブに身を包んだ、上品な雰囲気の老爺が自分を見下ろしていた。何ですか、と尋ねようとして、言葉が出ない。渇きが舌と喉を奪ってしまったようだ。

「見た所、大分お困りのご様子。食事も摂ってはおられぬようだ。私はちょうど果物を持っているのですが、よろしければ召し上がりますかな」そう言って老爺は袖から大振りのリンゴを取り出した。甘く、それでいて爽やかな香りがどうしようもなくヒカルの食欲を刺激した。彼は必死で頷いた。

「星の巡り合わせの妙なる事、幾つになっても驚かされますな。これは朝食で供されたものですが、どういうわけか私はこれを食べる前に満腹になってしまったのですよ」そんな老人の話を、ヒカルはほとんど聞いていなかった。赤く熟れたリンゴが意識を全て惹きつけていた。

 差し出された木の実を受け取る。蜜が手にべたつくのすら愛おしい。かぶりついてみれば、それは脳裏に描いたものと寸分違わぬ瑞々しい味わい。あっという間に食べ尽くしてしまった。

「あの、ありがとうございます。なんてお礼を言ったらいいか……」潤った舌で礼を言うと、老爺は穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。

「礼には及びませんよ。私は自分の成すべき事をしたまで。そうだ、私の館においでになりますかな。誰にでも施しをするわけではありませんが、あなたは星の定めの下で出会ったお方。他にあてがないのであれば、是非うちで体を休めては――」

 いや、そんなに、悪いですよ。そう返そうとして出来なかった。猛烈な眠気がヒカルを襲った。きっと疲れていたからだろうと、その睡魔に身を委ねた。

「おやおや、こんな道端で寝入ってしまうとは」老爺は用心深く周囲を見渡した。行き交う人々は、乞食然としたヒカルに目もくれず去って行く。

はもう目覚めなくていい。眠ったまま、その力だけを一滴残らず絞ってやろう。しかし、はなんと慈悲深い事か! 死に行く者に麻酔をかけてやるとは、かつての生では思いもよらぬ事だったというのにな!」老爺は最早先程までの、知的で上品な老人ではなかった。魔術による変装を剥がしたそこには、蛇の目をした魔性が、冷笑を湛えてヒカルを見下ろしていた。

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