26,再誕
雨は、翌朝には夢のように乾ききってその痕跡すら残らなかった。
給仕奴隷の一人が、剣闘奴隷の頭数が足りない事に気付いた。秘書の男はそれを聞いて、その日の訓練を中止し、全ての剣闘奴隷に自室での待機を命じて、他の奴隷に探索の指示を出した。
足りないのは二人。ヒカルとブライアンだった。
虱潰しに探せとの言いつけに従い、長らく放棄されていた地下の扉が開かれた。明かりを持って先頭を歩く少女がそれを発見した。筋肉が付き始めたとはいえ、未だにやせっぽちのその体――ヒカルが
すぐに医師が呼ばれたが、なすべき処置は一つもなかった。雨水の残滓で濡れた衣服を差し引いても尚その肉体は冷たく硬直し、如何なる呼びかけにも反応は全くなかった。
「しかし、妙だぞ」リクサンドル医師は死体の胸部に手を当てながら呟いた。「溺死ではない――死に繋がるような外傷も見られない。心臓発作か?」
「もう一人いただろう。あれが、何か妖術を用いたのではないか? あれと同郷の者はいないのか? 魔術は使えずとも、その性質くらいは知っているだろう」押っ取り刀で駆け付けたアントニウス氏が額の汗を拭いながら言った。
「二人いたはずです。聴取の場を設けましょう」秘書の男がそれに応じた。「取り敢えず、この死体の処分を――」
「まだだ」氏は遮った。「魔術の痕跡があるかもしれん」
しかし、聴取は空振りに終わる事となる。ブライアンと同郷である剣闘奴隷の
「まるで魂だけが抜け出して異界に行ったみたいですね」地下室より運び出された遺体を見て、弟の方がぽつりと言った。「なんの怪我もないのに死ぬなんて」
「そんな事があり得るのか?」秘書が仏頂面のまま尋ねた。
「神殿で神に仕える
暫くの黙考の後、アントニウス氏は口を開いた。「もういい。下がれ。死体の方は処分しろ。もう一人は何としても見つけ出せ、うちの沽券に関わる」
幼い死体は雑用奴隷の中でも力のある者に委ねられた。最早この国において奴隷の為に墓を掘る為の土地はなく、全ての死体は街を取り囲む巨大な堀に捨てる事と定められていた。
担架に乗せられた死骸に駆け寄る者がいた。シオンだった。
「何か用か?」
「あ……、えっと、お花。上げてもいいでしょう? 今朝見つけたの」そう言って彼女は死体の胸に小さな白い花を置いた。
「珍しいな、こんな季節に花なんて」もう冬と言って差し支えない時期である。
「でしょ? こんなものしか上げられないけど、なんだかこの子は他人と思えなくて……」
そうして
彼らは終ぞ知り得なかったが、ヒカルの肉体が拍動を止めたのは正に魂が欠けた故だった。代役を務めるはずだった『彼』もまた異界へ赴いた為に、肉体の活動を維持する生命力が断たれたのだ。
だが、それ故にクロノスの反魂の儀式は成功した。もしも『彼』が生命力を変わらず供給し続けていればヒカルの意識は戻る事能わず、術者は首を傾げる事になっただろう。
ヒカルがまず感じたのは倦怠感。まるで長い時間眠っていた時のようなそれ。次に、嗅覚を破壊しかねない程の悪臭だった。それはヘルが纏っていたものによく似ていた。彼は目を開けずにいられなかった。
完全に覚醒するまでは早かったが、意識が明瞭になっても自分の置かれている状況が分からなかった。何か、不快な柔らかさを持つものが自分の下に、横に、無数に積み上げられている。
構成物を仔細に眺めて、思わず飛び上った。程度の差こそあれ、それは腐敗し、おぞましくも膨脹し、あるいは爆ぜた皮から内容物を溢れさす、人間の死体の海だった。老若男女・人種を問わず――と言っても甚だしい腐敗と劣化で元の皮膚の色さえ不明瞭なものも少なくないのだが――屍肉と腐肉の狭間に、どう見ても生前から粗末であったらしい衣服の残骸が千切れ汚れていた。
すわまた異世界に飛ばされたのかと自分の体を見下ろせば、腐肉から染み出した液体で汚れてはいるが、袖口から覗く己の手は紛れもなく生者のそれだ。その手で頬に触れてみれば、適切な温度の熱を帯びている。ヒカルはわけが分からないなりに理解した。此処で生きているのは僕だけだ。
何となく空を見上げれば、赤と藍の混じる曇天が広がっていた。これは黄昏か、はたまた払暁か。自分が死のうとしてからどれくらいの時間が、どんな出来事があったのだろうか。
ふいにぽたり、冷たい滴が彼の額を打った。滴は少しずつその量を増しながら空より降り下り、つまりそれは雨だった。
雨をしのぐものとてなく、ヒカルはそれに打たれながら暫しぼんやりと座り込んでいた。これからどうすればいいだろう?
「――世界中を巡ってでも見つけだせ」そう言ったのは誰だっけ? 何を探せばいいんだっけ、死の眠りが記憶を削りとってしまったみたいだ、ああ、でも一つだけ覚えてる、あれは、そう――
「――
「此処から、出なくちゃ」崖のような死体の山は天に届く遥か手前で途切れていた。果てがある、という事だ。彼は登り始めた。
登攀は困難を極めた。掴まれそうな突起や、足場にしている屍肉が崩れたり、雨で滑ったりするのは一度や二度ではなかった。切り立った壁は絶えず悪臭を放ち、空っぽの胃袋が何度も不快感で身を捩った。それでもどうにか比較的新しい死体を探してそれに縋りついた。
ああ、僕は死体の山を登っているのだ。数えきれない程の死体を踏みつけて、足蹴にして、そうして自分だけがここから出て行こうというのだ。命を大切にしろ、なんて皆がよく言うけど、こうして捨てられた死体は踏みにじってもいいのだろうか。僕と彼らと、何が違うのだろう。僕の行きつく先には、一体何がある? そんな取り留めもない事を想いながら、それでも彼は登り続けた。死への恐怖、フェンリルの呪い、『ヒナタ』の言葉、あるいはまだ知らないものを知りたいと願う自己を抱えながら。
ある地点まで来た時、彼の手は人体にあるまじき感触を捉えた。硬く、広く――それは地面だった。登り切ったのだ、この地獄のような断崖を。喜びを感じる余裕もない程彼は疲れ切っていた。粗末な寝台さえ恋しいと思った。とかく眠りたかった。
彼は堀の淵に立った。どれ程の時間が経ったのか分からない。しかし、登攀の間降り続いた雨はようやくぽつぽつと途切れがちになっていた。
視界の先にはかつていた街。
どっちへ行こうか。とにかく、此処じゃない所へ。
雲の切れ間から、厳かな光を振り撒く
(第二部・完)
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