14,出来損ない


 朝。雲の多い黎明がイライアスを出迎えた。

 彼は一人で歩いていた。拳を握れる程度には回復している。マイはその後戻って来た医師に追い返された。それでも彼は安眠出来なかった。

 マイグレックヒェン。二年前に欠員のために組まされた以前はほとんど会話をする事はなかった。同じ部屋で寝起きし、共に死線を潜り抜けても何も分からない。故郷の事、家族の事、ここへ至るまでの道程――聞く度に答えが変わるのだ。

 昨夜の態度。あからさまに自分をいたぶって楽しんでいた。その時の表情は動けなくなった敵を前にした時と同様の喜悦に満ちていた。背筋が冷えたのは気温の所為ではあるまい。

「お前には、敵味方の区別もないのか?」

 応える声はそこにはない。恐らくまだ眠っているだろう。

 それでも聞かなければなるまい。昨夜の最後の謎かけ、その答えを。





 四人部屋には自分を除いた三人がそれぞれの寝台で眠っていた。ヒカルとレトを起こさないようにしながら、マイの体を揺する。彼の目線は横たわるマイの高さとほぼ同じだ。

 マイは寝ぼけ眼を差し引いても不機嫌そうな顔をした。「まだ起床時間じゃないでしょお」

「いいから起きろ。話がある。昨日の続きだ」半ば引き摺るようにして廊下へ連れ出した。

「マイには話したい事なんてないんだけどお」

「頼むから教えてくれ。昨日言ってた『安上がりな』方法ってのは何なんだ」

「分かんなかった?」

「ソンゲンだとか言われても分からないんだよ、俺は学もないから」

 マイは大きな欠伸をした。「人に物を頼む時にはそれなりの態度ってものがあるんだよ。不作法さんだと自由市民になってから苦労するよー?」そう言って口端を上げる。

「まあそれは今いいや。あのね、一応断っておくけど確実な方法ではないからそのつもりで聞いてね」とろんとした目で笑うその顔を、猫みたいだと思った。「イライアスが自由市民になって、弟さんを奴隷のまま買い取るの」

「は……?」

「ぶっちゃけた話、弟さんは一人じゃ生きていけないでしょ? 自分の奴隷にどんな態度を取ろうがそれは自由だから、イライアスは奴隷としてでなく兄弟として弟さんに接すればいい。田舎に引っ込むんなら周りの言う事なんて無視しても問題ない。二度と会わない連中なんだから。一人分の市民権と奴隷の購入費用と土地代くらいなら今すぐ引退しても払えるんじゃない?」

「……お前、頭良いんだな」

「問題がないわけじゃないよ。脚の悪い奴隷をそれでも十年生かしておいてるならそれなりに気に入ってるんだろうし、個人間の奴隷取引だと相場が当てにならないかもしれない。高値を吹っ掛けられるかもね。交渉中に相手を殴ったりしたら駄目だよ。後は弟さんへの対応とか――」

「いや、もう分かった」イライアスはマイの話を手で制した。「今日にも興行主と話をつけて来よう。ありがとう、マイ」

「引退かあ。じゃあ最後に本当の事を教えてあげるね。マイは、本当は東の国の王子様なんだ」

「突然何を言うんだ」

「パパはオイゲンっていう王様。ママは娼婦兼女衒。ある日パパがこっそりママを買って、ママはこっそり私を産んだ。いつか自分の子供を王様にすれば、それまでと比べ物にならないくらい裕福な暮らしが出来る、ってね」

「……去勢された私生児が王になれるわけがない。やっぱり嘘だろう」

「ばれちゃった」マイが舌を出して笑ってみせた。

 起床の笛の音が聞こえた。

「ヒカルとレトを呼んで来る」背を向けたイライアスをマイは暗い目で見ていた。






 アントニウス氏はイライアスの引退に一つ条件を付けた。「明後日の試合だ。もう予定が組まれている。それに出場したら認めてやる」断る理由もなかった。

 退室しようとしたイライアスを氏は引き留めた。「浮かれて失敗するなよ。相手は最近連れて来られた連中だが、元は名うての戦士らしいからな」

「無論です」対戦相手の情報をこの男が漏らすとは珍しい。何か考えがあるかもしれないと氏の顔を見た。そこには憂いがあった。

「ご主人様、今期の会計ですが――」秘書の男が割って入った。氏は手振りでイライアスに出て行くよう促した。

 やっと、ここから出て行ける。高揚しないはずがない。しかしそれは上手く顔に出ない。最後に笑ったのはいつの事だったろう?





「それじゃあ、寂しくなりますね」夕食の席でレトがそう言った。「本当なら、何かお祝いでもしたいところですが」

「要らん。金は自分のために使え」

「マイは? マイはどうするの?」ヒカルは尋ねた。

「マイは生涯現役のつもりだよー」からからとマイは笑う。「また新しい相方を探してもらわなきゃ」

「そういえば、マイの戦う理由って何ですか?」レトは顔を上げた。「まだ聞いた事がないと思います」

「何だと思うー?」マイの笑顔に狂気が満ちて行く。冷たい目の輝きは微笑する口元を裏切っていた。

「いえ、分からないからこうして――」

「殺して殺して殺すためだよ」

「えっ?」

「マイは人を惨たらしく殺すのが大好き! 男でも女でもない、出来損ないのマイがいろんな人間を滅茶苦茶にしてやるの! 肉体からだも、精神こころも! それがマイの最高の幸せ! 狂ってるのは分かってるよ。 でも楽しくって! こんな制度を造った帝国万歳! 皇帝陛下万歳!」マイは両腕を振り上げた。

 ヒカルは自分が恐怖している事に気付いた。傍らのレトは険しい顔をしていた。

「もし、自分が殺される立場になっても、同じ事が言えますか?」彼女はゆっくりと、詰めた息を吐き出すように言った。

 マイはその言葉を受けてにっこり笑った。「願ってもない事だよ」

 レトはがっくりと俯いた。

「あー、ところで話は変わるんだけど」マイが口調を変えた。「みんな、気を付けた方がいいよ。今度の試合、ひと味違う連中が相手みたい」

「どういう事?」ヒカルが尋ねるとマイは食堂の隅を指した。

「ネズミがそう言ってた」全員がマイの示す方向を見た。ヒカルの小指の先程の大きさの隙間があった。

「そんな小さいネズミなんている?」

「まあ、嘘なんだけど」マイは悪戯っぽく笑った。「せっかくみんなでゆっくりできる時間に言い争いなんて嫌だからさあ。うたにもある通り、『道学先生プラトーンのしかめ面なぞ気にするな』ってね」

 誰ももう笑わなかった。



 消灯時間の少し前、レトがヒカルを呼んだ。振り向くと、湯上りの上気した頬の上に真剣な色をした目があった。

「ヒカル、いつもありがとうございます。誰も殺さないでいてくれて」

「……誰も、じゃないよ」

「誰だって初めは間違う事もあります。気に病む事はありません」

 ヒカルはどう返せばいいのか分からなかった。彼が自分の意志で不殺を貫いているのではない。どういうわけか、試合が始まると手にした剣がぐいぐいと彼を引っ張り、敵の手足を狙うのだ。彼はそれに合わせているだけ。相手の太刀筋が見えるようになった事くらいしか、鍛錬の成果を実感出来るものがない。

 黙っている内に消灯時間になり、思いは闇に覆われて誰にも見えなくなった。

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