13,腕

 覚悟しておいてください。主治医が両親に告げるのを、ヒカルはカーテン越しに聞いていた。小さな声だったはずだがそれだけは妙にはっきりと聞き取れた。

 彼の心臓は先天的な欠陥を抱えていた。大人になるまでもたないかも。問い詰めた医師はそう漏らした。

 ずっと病院の窓から外の景色を眺める人生。いや、自分が病院だと思っていただけで、それは別の施設だったかもしれない。物心つく前からその中で暮らしていた光はその建物の外観さえ知らなかった。

 見舞いに来ては「ごめんね、ごめんね」と泣く母。あれこれと差し入れを持って来て「必ず良くなるから、気をしっかり持つんだぞ」と励ます父。父は息子が自分の寿命について知っていることに気付いたそぶりはなかった。

 友達が出来てもすぐにいなくなってしまう。快復して退院したのか、あるいは死んだのか。宛がわれた個室で本を読む事が多くなった。神話の本がお気に入りだった。現代の、『健康な』人を描いたものは読みたくなかった。不出来な自分を見出してしまうから。遠い世界に憧れた。

 十四年と半年。九月の終わりだった。

 光は息が詰まるような感覚を覚えた。手足が痺れる、というより感覚が抜け落ちていく。ナースコールを手に取る事も出来ない。ああこれで自分はお終いなんだ、さようなら狭苦しい世界。

 ふいに不可解な感覚が彼に圧し掛かった。閉じかけていた目をどうにか開くと『何か』が自分の腹の上に乗っていた。

 人の子よ、懼るな、汝は我が恵みを得たり。『何か』は彼の知るどんなものとも似ていない塊だった。その言葉は耳で聞くというより脳髄に直接流し込まれているようだった。

 我が能力ちから汝をおおわん、汝いと高き塔を目指すべし。両性具有の神はかの世界にて我を作れり、されど我が玉座を作らず。汝に新たなる肉体うつわを与えたれば、これを以て我が身を夜の天蓋に運ぶべし。なんとなれば、我が名はルーナなれば。意味にして大体このようなことを『それ』は言っていた。

 死ぬ前の幻覚にしては変だなあ。それが意識の最後で彼が思った事だった。





 目を覚ますとヒカルは自分が賑やかな通りに立っているのに気付いた。自分でもよく分からない程体は力に溢れ、それを覆う衣服も変わっていた。

 僕は死んだんじゃなかったのか。あるいは、脳髄が最後に見せている幻か。唐突に『何か』が言った言葉を思い出して空を見上げた。驚く程大きな星が散りばめられたそこには月がなかった。

 夢でも何でもいい、病床で臥せったまま人生を終わらせたくない。ヒカルは塔を探そうと決めた。


 その後間もなく彼はおかしな事を聞いて回る不審者として警邏に捕まった。身分を証明できるものが何一つなく、基本的な社会構造も理解していない彼は異端者、つまり罪人となった。程度の軽い罪を犯した者を奴隷として買い取る業者がやって来ていそいそと彼の首に金属製の輪を嵌めた。

 そして剣闘奴隷として買われたのである。『何か』は姿を現す事もなく、ヒカルの呼びかけに応じることもなかった。





 ある朝の事であった。いつものように食堂に整列し、自分の順番が来たイライアスは渡された盆を受け取った。

 次の瞬間、その盆は床に落ちた。器がひっくり返って中身がぶちまけられる。イライアスは目を丸くした。両腕が力なく垂れ下がっていた。

「え――」

「あっちゃー、イライアスったら疲れちゃったのかなー? これは大変だあ。さあ医務室に行こうねえ」マイがぐいと彼の肩を引く。「ごはん先食べてて」とヒカルとレトに言い残して二人は食堂を出て行った。

 シオンが床の掃除のために飛び出した。ヒカルは他の配給係から食事を受け取った。

「どうしたんだろう」

「さあ……?」レトと揃って首を傾げるばかりだ。

「あれは――」シオンが言いかけて口を噤んだ。尋ねても彼女はそれ以上何も言わなかった。





「センセー、イライアスの腕の神経視てもらえますー?」マイはイライアスを前方に押しやった。奇しくも以前のヒカルとレトと同じ構図になった。

「腕を上げてもらえるかね?」医師はそう言った。イライアスは腕を胸の高さまで上げようとして、出来なかった。彼は血の気が引く心地がした。

 ふむ、と医師は短く唸る。「前回の試合で接合したのは右だったかな」イライアスは頷いた。医師はだらりと下がる腕を取った。視覚でそれを理解してもそこには触覚がなかった。「感覚はあるかな?」首を横に振った。

「普通はこんな風にはならないんだ。恐らく切断と再接合を繰り返したために君の脳は腕の存在を認識出来なくなりつつあるんだろう。率直に言って、もう限界だ。今は一時的な感覚の消失のようだが、次はどんなに精密な再接合を施しても――」もう聞きたくもない。それでも耳を塞ぐ事さえ出来やしない。

先生ドクトレ、俺は今辞める訳にはいかないんだ」声が震えるのが分かる。「なんとかしてくれ。そのためにあんたはいるんだろう。奴隷を戦わせるために」

 医師は嘆息した。「私の仕事はそれだけではないよ。肉体的、あるいは精神的な問題で出場出来ない者をアントニウスさんに報告しなきゃ――」

「まだ戦える!」イライアスは椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。「武器が持てなくとも相手を殺すくらい――」

「無理だよ」医師は困ったような顔で言った。「いくら筆頭剣闘士でも、丸腰で武器を持った相手と戦うのは無謀だ。そこの寝台に横になりたまえ。ちゃんと調べて調整しなけりゃならん」医師は傍の寝台を指した。





 医師は諸々の器具を用いてイライアスの腕を調べた。最終的には皮下注射を行った。「今夜はここで寝たまえ。明日には今よりマシになるだろう」そう言うと道具を片付け、食事を摂るために出て行った。

 それと入れ違いにいつの間にか部屋を出ていたマイがやって来た。片手に粥を載せた盆を携えている。イライアスを見るとにやっと笑った。

「『あーん』ってしてあげようか?」

「そこに置いておけ。後で自分で食べる」

 マイは医師が座っていた椅子を寝台の近くへ引き寄せるとそれに腰を下ろした。

「注射してもらったんだ。一本いくらだろうねー?」嗜虐的な笑みを浮かべている。

「うるさい。黙れ」

「治療費、また取られちゃうねえ? あれあれあれえ? 一生懸命貯めたお金がどんどん減っていくよー? そのうち貰う分より払う分の方が多くなっちゃうかもー?」

「叩き出すぞ」

「耳に痛い、ってやつかなあ? でも駄目だよお。これは夢なんかじゃないんだから。イライアスのお家は取り壊されて、弟以外は家族も親戚もみいんな殺された。ねえ知ってる? この前ねえ、ここより南の闘技場でんだって。出場者には蛇の格好をさせてね。弟さん、出てなければいいねえ?」

「聞きたくないんだよ」

「もしマイが弟さんが今どこでどうしてるか知ってるって言っても?」

「どうせ嘘なんだろう」

「うん、じゃあそれで。今から言うのは全部噓っぱち。シキリアのある大富豪は奴隷をたくさん持ってるの。一番のお気に入りは、十年前に買った歩けない奴隷。そいつすごい変態、ってわかんないか、普通の遊びじゃ満足できない性分でさあ。好みの奴隷に怪しいお薬をどっさり投与して自分に依存させて、身も心もボロボロにしてるらしいんだあ」

「頼む、やめてくれ」

「その奴隷には生き別れの兄さんがいるんだって。お兄ちゃんと弟、どっちがより深刻な状態かなんてマイは知らないよ。だってこれは嘘なんだから。もし兄弟が自由になれたとしても、幸せにはなれないだろうねえ。お兄ちゃんがいくら頑張っても、弟は完全に壊れてる。見捨てない限り一生面倒を見るしかない。帰る所ももうないのに! 新しく土地を買うとしていくら掛かるかなあ? どこからそんなお金を出すつもりかなあ!」笑い声が爆ぜた。

「――」

「もう諦めなよ。アンタは無用な殺生はしたくないなんてごねてたけど、そのツケが今になって回って来たんだよ。土台、分の悪い賭けだったんだもの。弟は死んだって事にしてさ、自分だけが幸せになれる方法でも考えれば?」一転して優しい囁きがイライアスの耳朶を打った。内容は彼にとってこの上なく残酷だったが。

「ああ、でも、もし絶対諦めたくないってんなら、もう少し安上がりな解決策がなくもないけど」

「……どういう事だ」

「あー、やっぱりこれ言わない方がいいかなあ。優しいイライアスには酷な話かなあ」目が合った。言葉に反してマイは笑っている。こちらを試しているのだ。

「何を、考えている」

「さて、何でしょう? ヒントは人間の尊厳をどこまで諦めるか」

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