12,憧憬
浴場での事である。
「ねえイライアス、ちょっと訊いてもいいかな」
「何だ」
「イライアスもさ、僕と同じくらいの年でここに来たわけでしょ?」
彼は指を折って数を数える素振りをした。「まあそうだな。十年前、俺が十五の時だ」
「その時の君って、今の僕より身長あった?」
イライアスはヒカルの頭に目を遣った。「あったはずだ。それがどうかしたか」
ヒカルはその質問には答えなかった。「……えーと、どのぐらい大きかったか覚えてる?」
「どのぐらい、ね。ふむ、俺と同時期に連れて来られたマイはほとんど背丈が変わってないはずだが、十年前でも俺はあいつより大きかった事は覚えてる。で、それが何かと関係があるのか」
ヒカルは羞恥の為に俯いた。「いや、ほら……僕ってチビだなあって」
「まあ小さいな」イライアスは躊躇なく頷いた。
「どうすれば、背って伸びるのかな」
「どうにもなるまい。心配しても伸びはしない。気にしない事だ」
ヒカルはイライアスが羨ましかった。その背丈と体格に比すれば、己の何と貧弱なことか。しかも彼は自分と同じ年ごろにはそれを、何の労苦もなしに獲得したのだ。
「……あのさ」ヒカルは顔を上げた。相手の氷のような色の目が静かにこちらを見ていた。
「イライアスの故郷には、生まれつき体が弱い人とかはいなかったの?」
「いたと思う」
「そういう人達はどうしてたの?どうやって暮らしてた?」
彼は束の間視線を宙に向けた。「おおよそは他の家族が養ってたんじゃないか。でも」
「でも?」思わず身を乗り出した。
「そういうのは大体成人する前に死んだ。あっちにはここみたいな医者も道具もなかった」
ヒカルは肩を落とした。「そっか……」
「例外があるとすれば俺の弟くらいか。あいつは歩けないが、頭が良いし手先も器用だった。狩りの道具を作ったり、手入れをしたら右に出る者がいない。そうやって暮らしていけば十分幸せになれる、と思ってたんだが」イライアスはそこまで言って口を噤んだ。夢物語が断ち切られた事を言外に示すように。
「もしかして、弟さんの脚は
「商人連中が俺達の目の前で話してた。『生まれつきじゃあどうしようもない』ってな。村の占い師が言うには『脚には何の問題もないが、この子の魂は脚の使い方を知らない』んだと。なあ、お前、歩けない奴隷はどうやって主に仕えると思う?」
今度は相手がこちらに迫る番だった。ヒカルは思わずたじろいだ。
「え、頭が良くて器用なら何かしらは仕事はあるんじゃないの?」
「そりゃあ仕事はあるだろうよ。だが待遇はどうだ? 剣闘の興行主より金持ちの市民はそれ程多くないそうだ。俺達でさえこの扱いなら、それ以下の奴隷はどうしている?」
答えようとして、頭がくらくらした。どうやら長湯をし過ぎたらしい。
「一旦上がってから考えない?」
「……ああ、そうだな。俺ものぼせたようだ」
彼がその後その話題を持ち出す事はなかった。
――あ、お父さん、またお話考えてるの? 今度はどんな話?
――ああ、次の劇は日本神話をモチーフにしようと思ってて……
瞬き程の間に突如視界を埋めた、これは何の光景だろう? それを考える暇はなかった。レトが振り下ろした棒が速度を緩める事なく目前に迫っていた。
嫌な音と、目から火花が散る錯覚。平衡感覚が保てなくなった肉体が地面に崩れ落ちるのを感じた。
「え、わ、ちょ、大丈夫ですか?」レトが駆け寄って来てヒカルを抱き起した。「ごめんなさい、避けるか受け流すかすると思って……」
「あー、こっちこそごめん。ちょっとぼーっとしてたみたい」彼は立ち上がり土を払った。
「どこか調子でも悪いんですか?」彼女が心配そうに見つめている。
「大丈夫だよ。さ、仕切り直してもう一回やろう」
「あまり無理はしない方がいいと思いますが」
「平気だって。本当の事言うとさ、僕は楽しいんだ」
「楽しい?」レトが首を傾げた。
「僕は生まれつき病気で、ずっと寝たきりだったんだ。こんな状況で言うのは不謹慎かもしれないけど、外に出て思い切り動き回るのが夢だった。殺し合いをしたくはないけど、なんか生きてるって実感出来るのが嬉しくって」
「ずっと寝たきり――」相手がゆっくりと息を詰める。「それで剣闘士になれるものなのですか?」
「あー、それは」どう説明したら良いものか。以前はトイレに駆け込むだけで全身が軋むような感覚に喘いでいたが、この世界に来てからはまるで初めから普通だったかのようにいくら走ったりしてもなんともない。
「……まあ、
それから二人は暫し無言で打ち合いを続けた。
「ところで、ヒカルはきょうだいとかいるんですか?」休憩中にレトが尋ねた。「イライアスとマイは聞いた事がありますが、そういえばあなたの事は知りませんもの」
「ああ、僕には姉がいるんだ」
「名前をうかがっても?」
何気ない言葉が、されど先刻の
「名前……ええと、姉さんの名前は――」『姉さん』という響きが舌に馴染まない。何故だ? だって姉を、他にどう呼ぶというのだろう。「名前、知ってるはずなんだ、なのに……」
レトが彼の肩に手を置いた。「言いたくないなら、結構ですから。ちょっと訊いてみただけです」
「違う、言いたくないんじゃなくて――」混乱の中でヒカルには一つの確信が浮かんだ。
僕は、大事なものをなくして、ここにいる。
頭の中がぐちゃぐちゃでは、とても眠れない。夢遊病者のように彷徨う。意識したわけではなかったが、気付くとマイの元へ来ていた。
「寝ないと大きくなれないぞー? って、マイが言っても説得力ないか、あは」その屈託のない笑みは子供か狂人のそれだ。並び立つとヒカルは一回り小さく、自然とその顔を見上げる格好になる。
「どうして」
「うん?」
「どうして、僕は大きくなれないの」
「――君は、どこまで知ってるの」
「なあんにも、知らないよ!」マイは声を上げて笑う。今日はそれが、ひどく耳障りなものに思えた。「マイは所詮、下っ端だもの。もっと偉い人を探しなよ、他の道は、あったとしても塞がってるよ!」
「偉い人って、例えば」
「皇帝陛下なんてどう? ああでも、空を目指すなら『夜の女王』もいいかもね」
「夜の女王?」自分の意志とは無関係に言葉が紡がれていく。
「太陽はほら、熱過ぎて近づけないからさあ」そう言ってマイは空を指した。肉の薄い肢体はまるで、手足ばかり伸びた子供のようだった。
夜空は数多の星を抱いていた。しかしそのどれも、『僕』の目指すものではないのだ。
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