7,奴隷の市場


「おめでとー!」マイが入り口から走り出てヒカルに抱き着き、頬に接吻した。しかし、ヒカルは返す言葉がなかった。

「マイのお守り役に立ったかなー?」ヒカルは背筋に冷たいものを感じた。まるで剣自体が意志を持ったようなあの一撃。編込みに触れる。しかしそこには髪の毛以外の物はない。

「勝ったとは思えないくらい陰気な顔だな。まるで葬式の参列者だ。しかし手足が落とされたならこんなに早く戻って来るはずはない。一体何があったんだ?」イライアスがそれに遅れて現れた。戻って来た二人の顔を見て彼は訝しんだ。

「何が、って言われても……」どう答えればいいのだろう。口ごもるヒカルに代わってレトが答えた。

「殺さずに勝つつもりだったんです。でも、乱戦になって……」

「甘い。砂糖菓子より甘い考えだよそれは」マイがいつになく真剣な顔をした。「そんな考えが通用する程この世界は簡単じゃないの。まして何日か前までずぶの素人だったキミ達が。それを貫くには並大抵の腕じゃ――」

「ずぶの素人なんかじゃありません!」レトが顔を上げた。「私は――」

「知ってるよ。コリントスの神殿騎士見習いで、それなりに鍛えてたって言いたいんでしょ。でもね、マイ達は騎士じゃない。剣闘の為に生かされてる奴隷なんだよ? 誇りなんて持ってても役には立たないの。今日の実践でそれが分かったんじゃないの?」レトは閉口した。

「大体、レトの故郷くににだって拳闘パンクラチオンがあるってのに――」

「帰って早々、喧嘩を始めるな。丁度良かったじゃないか。初戦でそれが出来てたら、お前達は勘違いしたままだったろう。俺だって必ず相手を生かしておくわけじゃない。必要なら殺す。それを間違えるな」

「悪い子はごはん抜きだよ! ぷんぷん!」マイは頬を膨れさせた。

「怒るのかふざけるのかどっちかにしろ。お前達も早く来い。今日はさっさと夕飯を食べて、よく休むことだ」イライアスが踵を返す。

 ヒカルとレトはその後消灯まで無言だった。許さない。その言葉が脳髄でリフレインしている気がした。




 翌朝、いっそ残酷な程の晴天だった。

「今日は二人でお出かけー?」マイが朝食を口に詰め込みながら首を傾げた。

「……そうですね、それがいいかもしれません」

「え、いや、出掛けるってどこに? 訓練は?」ヒカルは突然の話について行けない。

「今日はお休みですよ、ヒカル」レトがうっすらと笑った。「外の景色を見れば、気も紛れると思います」

「マイもついて行っていいかなー?」

「いいわけあるか。お前は休みじゃない。その上新人に嘘を吹き込んだ前科もある」イライアスが呆れた目で隣のマイを見やる。

「嘘? 僕達今まで何か騙されてたの?」

「お前達にじゃない。以前にいた奴らだ。市場で売り物を『これはタダで持って行っていいんだよ』とか言ったらしい。おかげで同行しなかった俺まで連帯責任で減給だ。いいか、市場にタダの物なんて置いてない。ちゃんと店の人間に値段を確認しろよ」

「昔と言えばねー」マイはあっけらかんとしている。「昔はもっとごはんが豪華だったんだあ。試合の前日にはごちそうが山盛りでさあ」

「その話は市場と何か関係が?」

「こいつが脈絡のない事を言うのはいつもの事だ。いちいち相手にしてたら消耗するだけだぞ」イライアスが匙を置いた。

「――消耗した経験が?」

「その話はやめろ。思い出すと腹が立って来る」ヒカルは彼の表情ですべてを察した。





 自室に戻ると秘書の男が待っていた。「だいぶ遅かったな。食事はもっと迅速に食べるべきだ」

「次から気をつけます。今日はどのようなご用件で?」レトはヒカルの一歩前へ進み出た。

「給料の支払いだ」男は小さな包みを二つ持っていた。「休みだからといって羽目を外し過ぎるな。門限を過ぎれば首輪の脱走防止機構が作動して爆発する」包みをレトに渡すと去っていった。

 レトは包みの一方を差し出した。「どうぞ」ヒカルはそれを受け取る。金が手に入ったとはいえ、昨日の事が頭を過ぎって喜べなかった。

「とりあえず出掛けてみましょう。実際に見れば何か欲しい物が見つかるかもしれないですし」





「レトって戦ったことあるんだね。知らなかったよ」どうにか間をもたせようと思考を巡らせた言葉がそれだった。

「いえ、私は見習いだったので。実戦経験はありませんでした」

「そうなんだ」

「――あ、そういえば」

「ん?」

「市場ってどの道を行けばあるのか聞いておくのを忘れてました」

「あー、まあ、車のタイヤ――車輪の跡をたどればいいんじゃない?」

「成程。ヒカルは冴えてますね」

「それほどでも」ヒカルは頬が緩むのを感じた。





 果たしてその直感は当たっていた。轍を辿って歩いて行くと人々が敷物の上に雑多な品を並べて座り込む通りに出た。

「ところで、マイはいつも裸足ですよね。不便じゃないんでしょうか?」他の奴隷は大体が簡素なサンダルか靴を履いている。

「普段は靴を履かない地域の生まれとか?」辺りを見回しながらヒカルは答えた。店番をしているのは皆見覚えのある首輪を嵌めた人間だという事に気付いた。

「ゲルマニアはそれほど温かい所ではないと聞いた事があります。生まれは別の土地だったりするのでしょうか」

「そうかもね」マイの姿を思い浮かべた。黒い袖なしのチュニック一枚でいつも過ごしている。試合の時も脚絆すら身に着けない。着るものに頓着がないというより、むしろその恰好にこそ拘っているような気がした。

「ああ、ほら、あっちで果物を売ってますよ。見てみませんか?」





「やっとお粥以外の物が食べられます」レトは並べられた果物からリンゴを一つ取った。赤い木の実は些か熟し過ぎているように見えたが、他の物もおよそ似たような状態だった。

「お粥? あんた達、ひょっとして剣闘奴隷かい?」敷物の中央に座る中年の女が言った。

「ええ、そうです。奥様は見た事がありませんか?」レトが包みから紙幣を取り出す。

「奴隷に見せる娯楽なんてないんだよ、お嬢さん。あんた達のその金と外出許可は命と引き換えの労働があるからさ。あたしは毎日こうして――天気の悪い日は雨避けを立てて――腐りかけの果物を売らなきゃならない。でも殺される心配はないし、さてどっちが幸せなのかねえ」女は陰気に笑った。

 ヒカルは果物を眺めていたが、ふとマイに貰ったショコラの味を思い出した。「あの、ショコラってありますか?」

 女は頷いた。「加工したお菓子は置いてないねえ。他を当たってくんな」

「否定するのに首を縦に振るのは変じゃないですか?」

「あたしの生まれた所じゃあ、それが普通なんだ」女は悪戯っぽく片目をつぶる。同じ遣り取りを何度もした事があるようだ。「あんたも何か買って行きなよ。質は良くないけど、食べるには十分さね」





 ヒカルはオレンジを買ったが、すぐにそれを後悔した。皮を剥くのにナイフの類が必要である事を失念していた。無理に皮を剥がそうとすれば潰してしまうだろう。

「どうしよう、これ」

「厨房の人に頼んでみてはどうでしょう?」レトはリンゴを皮付きのまま齧る。

「お粥しか出ない厨房に刃物があるかなあ」

「以前は他のメニューも出していたそうですし、使ってないだけで道具はあると思います」

 市場をよく見れば、客もほとんどが奴隷だった。首輪をしていない者は風呂にも入っていないような薄汚れた格好をしている。

「ショコラなんて初めて聞きました。ヒカルの故郷の食べ物なんですか?」

「いや、そうじゃないけど。この前マイに少し貰ったんだ」

「いつの間に?」

「あー、夜だったんだ。眠れなくて宿舎を歩いてた時」

「成程、そんな事が」

「レトは他に買いたい物ってある?」

「お肉とか食べたいんですけど、さすがに料理屋はなさそうですね」彼女はリンゴを頬張りながら辺りを見回す。もう少し先で露店の並びは途切れ、道路を挟んで少し距離を開けた向こうにはもっと賑わっているらしい店が並んでいる。

「あっちまで行ってみようか」

「やめときなよ」不意に声を掛けられた。声がした方を見ると男がいた。首輪はないが奴隷よりも汚らしい服装で、肌は垢で浅黒くなっていた。

「あっちは金のある市民用の市場だよ。何も売ってもらえないし、それどころか石をぶつけられたりする。まったく、いい趣味してるよ」男は髭が伸び放題で一見すると中年にも見えたが、その声は若かった。

「あなたは? 見た所奴隷ではないようですが」レトがしげしげと男を見つめた。

「まあ、身分自体は自由市民だけど。親を早くに亡くしてさ。家も取られて、今じゃ野良犬と同じ。たまに日雇いの仕事なんかしてるけど、君らより貧乏だ。ぼくと君らとどっちがマシだろうね?」

 レトは紙幣を抜き取ると男に差し出した。「これ、よかったら」

 男は自嘲的に笑った。「君は変な奴隷だね。訊かれたから答えただけで、同情が欲しかったわけじゃないんだけど」そう言いつつ彼は紙幣を取った。「あんまりこういう事しちゃ駄目だよ。世の中意地の悪い奴もいるんだから。寸借詐欺に引っ掛かる奴隷がいるなんて噂になったら他の人にも迷惑になるからね」金を懐にしまうと片足を引き摺りながら何処かへ去って行った。

 レトは男の歩いて行った方をずっと見つめていた。




 結局その後ヒカルとレトは干し肉を幾つか買って戻った。

 レトはイライアスとマイの分も買ったが、イライアスは受け取らなかった。

「お前の稼ぎで俺が腹を膨らませる道理はない」差し出された土産を一瞥して彼はそう言った。

「あなたに食べてほしくて買ったんです。私は要りません」

「施しを受けるのは信条に反する。俺は弟を助け出すまで一切の贅沢はしないと雷神トールに誓いを立てた。自分に必要のない物は金輪際買って来ない事だな」

 そういう訳で、その日の夕飯はマイとヒカルには干し肉が付くものになった。ヒカルはシオンにオレンジを剥いて貰ったので、その卓では一番豪華な食事に見えた。

「本当に要らなかったの、レト?」彼女の買った分は他の奴隷に遣ってしまった。

「ええ、あまり食欲がなくて」

「良くない話だ。疲れてるのか?」イライアスの問いにレトは唯首を横に振った。心なしか顔色が悪いように見えた。

「そうだ、ねえマイ、ショコラってどこに売ってるの?」干し肉を噛みながらヒカルは尋ねた。陰鬱な空気を変えたかった。

「あー、奴隷の人がやってるお店だとないかもねー」マイは肉を細かく千切って粥に混ぜながら答える。「通りを挟んだ向こうで買えるよ」

「そこは市民向けだと言われましたが」レトが粥を飲み込んで言った。「奴隷には何も売ってもらえないとも」

「マイはほら、筆頭剣闘士プリームス・パールスでしょお? 有名人みたいなものだから融通を利かせてもらえるんだあ」

「そっか」ヒカルは肩を落とした。あの味の記憶が色褪せて行くような気がした。

「筆頭剣闘士だから、というだけではあるまい」イライアスが口を挟んだ。「あれだけ残虐な事を平気で行うような人間だ。店の連中も怖くて逆らえないんだろうよ」

「え、何それは……」ヒカルの顔が引き攣る。マイは愉快なジョークを聞いたかのように笑い声を上げた。

「そういえば、ヒカルとマイは約束をしてたね」

「何だっけ?」

「マイのお姉ちゃんの話。部屋に戻ったらしてあげるね」

「マイにもきょうだいがいたんですね」とレト。

「きょうだいは別にいたんだけど。お姉ちゃんはきょうだいとは別だよー」

「?」ヒカルとレトが首を傾げた。図らずも同じタイミングだった。

「こいつの言う事を深く考えても無駄だ」イライアスは呆れ顔で空の鉢に匙を放り込んだ。






「じゃーん! マイのお姉ちゃん!」

「……はい?」ヒカルの顔が強張った。マイの『お姉ちゃん』として紹介したのは小さな人形だった。

「ねー? お姉ちゃんそっくりでしょお?」マイは人形の頭を撫でた。木を彫って作ったらしいそれは髪を結い上げた形で造形されていた。

「いや、知らないけど……」

「二年前に市場で買った人形だ」寝台に寝そべるイライアスが補足した。

「うーん……」なんとも感想しづらい。レトは人形そのものに興味があるらしく、それを近寄って見つめた。

「関節があるんですね」布を巻き付けて衣服の代わりにしているが、下半身にもそれがあるようだった。

「そうだよお。座ったり、物を持ったりできるの。なかなかすごいでしょー」

「たまに独り言を言っていると思っていましたが、これとお話していたんですか?」

「『これ』とか言うのはやめてくれない? マイの大事なお姉ちゃんなんだから」マイが眉を顰めた。

「あ、すみません。お姉さんとお話してたんですね?」

「そうそう」マイがすぐに笑顔になる。

 ヒカルは入浴の準備をするふりをしてやり過ごした。マイの正気を疑う方に意識が向きそうになる。そんな事を知ってもどうにもならないと理解しながらも、脳髄の何処かが違和感を訴えていた。

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