8,鈴蘭

「ねえ、マイって本名は何て言うの?」ある朝食の席でヒカルは尋ねてみた。

「『マイ』が本名じゃないんですか?」

「昨日、マイの事を話してる人達がいたんだ」

 ――気味悪いよな、あいつ。

 ――名前も変だしな。マイ、マイ何だっけ?

 訓練場での休憩時間に聞こえた会話だ。彼らはヒカル達より少し先にここへ来た二流剣闘士マリーディアーンだ。

 ふいに笑い声が上がった。マイが腹を抱えて笑いだしたのだ。甲高いそれは内在する狂気を滲ませていた。

「え、これそんな面白い? 僕、何か変な事言った?」ヒカルは想定外の反応に面食らった。イライアスが嘆息した。

「ああ可笑しい。マイの本名、本名だって! そんな事訊いてどうするの? 奴隷に戸籍謄本なんてないのに! ヒカルは調べようもない事が気になるんだね!」笑い過ぎて口の端から零れた涎を手の甲で拭いながら、なおもヒカルの目の前の『それ』はけたけたと笑った。

「教えてやれ。どうせ減るもんでもあるまい」イライアスはそんな狂態は慣れっこらしい。

六つの生贄から成る鈴蘭マイグレックヒェン・アウス・ゼクス・オプファー

「えっ?」

「鈴蘭は中性だからマイにぴったりだと思って」マイがくすくす笑いながら付け足したが、その意味はヒカルには分からなかった。

「長いし呼びにくいから誰も呼ばないんだ」イライアスは自分の手を見つめていた。その手には匙が握られている。

「マイグレックヒェンでいいよーって言ってもみんな覚えられないとか言うからさあ」ようやく笑いが治まって弛緩したマイが卓に突っ伏す。

「そ、そうなんだ」戸惑うヒカルを見てマイがまた笑い始める。

「笑ってないで速く食え」イライアスはマイの頭を小突いた。

 その日、イライアスは鉢が空になっても匙を握っていた。その意味するところは彼とマイだけが知っていた。





 『仕入れ』られた二十人は七日の内に半数が脱落していった。或る者は戦いに敗れ、また或る者は脱走しようとして首輪に仕込まれた爆破装置によって頭を弾けさせた。

 首輪を無理矢理に外そうとして爆破装置を起動させた者が出た日、マイはヒカルの耳元に口を近づけた。

「今夜、前と同じ場所に来て。面白いモノ見せたげる」

 肌が粟立つ程に妖艶な声が囁いた。





 夜空に雲が流れ、星の光は度々遮られた。暗がりとほの明るいところが目まぐるしく入れ替わるのを、ヒカルは気味が悪いと感じた。

 建物の端、木の傍にマイは立っていた。枝葉が陰を作り、その表情を隠していた。

 近寄ると星の輝きが雲間から溢れ、スポットライトのようにマイを照らし出した。いつか見たような、蝋細工の仮面のような笑顔。

「話って、何かな」ヒカルは単刀直入に切り出した。

「言ったでしょ。面白いモノ。この前お風呂で見てくれなかったからさあ」マイはチュニックの裾に手を掛けると一気に捲り上げた。ヒカルが目を手で塞ごうとしたが間に合わなかった。

 白い裸身が照らされて、夜の闇に浮かび上がる。

 そこには女らしい脂肪の丸みも、男らしい筋肉の隆起もなかった。妖精のような華奢な体。滑らかな肌は『それ』を却って際立たせていた。

 マイの股座。

 赤黒いケロイド状の皮膚――体全体の成長について行けず引き攣れたらしいそれ――に覆われていた。

「――男、だったの?」ヒカルの問いかけに『それ』は呵々大笑した。

「『私』がまだ小さかった頃、その頃はまだマイじゃなかったんだけどね。ママが切り落として焼き潰したの。『人は孤独であらねばならない、こうすれば誰もお前を欲しがらない、お前も誰かが欲しくなったりしない』って言って。アントニウスさんはマイが使い物にならないおんなじゃないって知らないでマイを買った。ああ、でも、売る時に教えなかった人が悪いのかな? あはは、あっはははは!」『それ』の狂的な高笑い。ヒカルは硬直した。目を逸らし耳を塞ぐ事を思ったが体が動かなかった。

「それと、もう一つ」マイは自分の首輪に手を回した。しばらくそれを弄っていると、がしゃんと音を立ててそれが地面に落ちた。

「『私』はこれを外せるの。別に特別な技術はいらない。細い木の枝が一本あれば十分」その手には針のように小さな小枝があった。

「なんで、それを」ヒカルが硬直から回復してまず疑問を口にした。

「なんで知ってるかって? 『私』は夜の子供。アダムとイブの子孫がこの世界にはいっぱいいるけど、リリスも子供を産んだんだよ。だから――」

「それを僕に教えて、どうしたいの」ヒカルは体が震えるのを感じた。

 また笑い。長々と続くそれは怪鳥の鳴き声を思わせた。「どうしたい? どうしたいだって! ヒカルは私にどうして欲しい? 首輪を外してここから出たい? 君はそんなに非道になれる? 一方が脱走すれば残された相方は罰を受ける決まりがあると知っても? いつかマイの本名を訊いたよね? マイは生まれた時からマイグレックヒェンだったわけじゃないよ! でもそれは本当の事? マイのお姉ちゃんの名前はエイオストレって言うんだよ、でもそれが本当の事だと思う? 私が嘘を吐かなくてもこの世界は出鱈目ばっかり。赤ちゃんの皮より薄くて柔らかいものが壁の役割をしてるだけ! そこにあるものにどれだけの意味があると思うの? 永遠に辿り着けない世界の果ては存在する意味がある? ただびっくりさせたかっただけだよ! でもそれだって嘘! それじゃ足りないと思う?」

 ヒカルは目の前の『それ』が言っている事の半分も理解出来なかった。ただそこにある棘だらけの狂気だけが突き刺さる。

「意味なんて、ないの?」返せたのはその言葉だけ。

「それは君が決める事。あって欲しいか、なくてもいいか」マイは先程放り投げたチュニックを拾うとまたそれを着た。

「もう帰っていいよ。わざわざ来てくれてありがとう。これからもマイをよろしくねー」マイはヒカルに向ってにっこり笑った。何度も見たそれが、今は違うニュアンスを持っているように見えた。






「ああ、言ってなかったか?」翌朝、朝食前のヒカルの暴露に対してイライアスはそんな言葉を返した。レトはマイの顔を凝視している。マイはいつものように笑うだけだ。

「いや、聞いてないよ!」

「悪かったな。多分、口に出すのも憚られるおぞましさで言いそびれたんだろう。慰安用に買われたが、そいつはその通りだった。その口振りだとお前も見たんだろう。荒っぽい連中がいてな。みんなの前でそいつを脱がせた。そしたら『それ』だ。どいつも縮み上がってしまった。しかし他の仕事も満足に出来ない。興行主は八つ当たりでもしたかったんだろうが、そいつに訓練で使う棒を持たせて他の奴に襲わせた。だがマイは攻撃を全て避け、逆に相手を殴り倒した。それで剣闘奴隷として使われる事になった――と、こういう話があったんだ」

「ええー……」とんでもない経歴にヒカルは開いた口が塞がらない。

「どこかで戦闘訓練を受けてたんですか?」レトが尋ねた。

「マイはアテーナ―の化身だからさあ」マイはえへへと笑う。

「前に聞いたときは女戦士ワルキューレの子供とか言ってたよな」イライアスがそれに突っ込んだ。

「再生手術を受けてはどうですか?」とレトの提案。

「千切れた腕をくっつけるのと、もう存在しない器官を一から作り直すのは全然違うよ? どうせマイは結婚とか子供とか興味ないもの。そのお金でお菓子を買って食べた方が幸せってもんだよ」

「綺麗な顔をしているが、服の下は醜い肌。まったくこいつはおとぎ話の悪魔そのものだな」

「まあまあそんな事どうだっていいじゃない。ここにいるのはみんな異邦人、確かめる術とて持たぬ者のみ。ごはん食べに行こうよお」マイの瞳を過ぎる暗い光は誰も気付かなかった。

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