5,編込み


 走り込みをしてもその日は倒れる程の疲労にならなかった。運動後に飲んだ飲料の薬効が表れていた。

 テレーズは木剣の他に長短それぞれの木の棒を持って来た。長い方をレトに、短い方をヒカルに投げて寄越した。

「あなた方の出場が決まりました。三日後。それまでに最低限の戦い方を覚えてもらいます」やけに投げ槍な口調だった。

「何かあったんですか、先生?」

「いいえ……」ヒカルの問いかけにも頭を振っただけだった。





「早すぎる」ヒカル達の出場日程が決まった事を聞いたイライアスはそう言った。

「少なくとも三十日は訓練をする決まりだったはずだ。連中は何を考えている」

 粥を飲み込んだマイがけらけらと笑う。「わっかんないかなあイライアス。間引きだよお」

「間引き?」ヒカルは何か引っかかるものを感じた。

「そう。口減らしと言ってもいいかな」マイは食堂の大きな卓に肘をつく。「帝国の属州はどんどん増えている。属州民も増える。もう養いきれないくらいになってるの。だから市民を選抜して他は奴隷にする。初めは市民の生存圏拡大の為の事業だった対外政策だけど、そこに住んでいる人間の扱いを考慮していなかった。でももう引き返せないんだよ。坂道を転がりだした石が止まれないのと同じ。帝国はこの大陸のほとんどと、南方大陸の上半分まで手を伸ばしている」

「増えた人口を減らすには殺すしかないの。奴隷だってごはんを食べて寝る必要がある。剣闘はもう、単なる自由市民のための娯楽ってだけじゃなくなってるの。三日後にはここに二十体の奴隷が連れて来られる。――これからは手足が千切れてもくっつけてもらえないかもね?」くすくす笑い。マイが発していた。

 呆然としつつもヒカルの口は動いていた。「なんで、そんな事……」

「なんでマイが知ってるのかって? 夜鷹が教えてくれるんだあ。夜鷹はマイのいとこみたいなものだし」屈託のない笑顔からは本当とも嘘とも分からなかった。

「殺すためだけに連れて来るんですか!?」レトの表情は驚愕と怒りが綯い交ぜになっていた。「家畜より酷いじゃないですか!」

「そうだよ。酷い事をするんだよ。それはマイ達だって同じ事」彼女の笑顔は変わらない。だがそれに狂気が満ち始めていた。「自分が生き残りたいからって相手を殺す。そうやって興行主さんや帝国のやり方に加担する。きっと面白い事になるよねえ。色んな所から殺されるために集められた、経歴も能力もばらばらの人達。なんで剣闘奴隷には若い子しかいなかったかわかる?」

「え? えーと、やっぱり体力的な理由とか?」レトが首を捻った。ヒカルはイライアスが暗い目をしているのに気付いた。

「ちょっと違うんだなあ。若くないと手足の再接合の成功率が低くなるからだよ。だからみんな若い内に辞めちゃうの。訓練士のテレーズ、あれもマイ達と同じくらいにここに来たんだよ。普通は市民権を買えるだけ稼いだら引退して他の仕事に就くの。マイ達みたいなのはほとんどいない……」マイはイライアスの方を向いた。「ねー?」

「お前と一緒にするな。俺はここを辞める目途は立ってる。あと二回も試合に出れば終わりだ」

「試合に勝てば、でしょー?」

「やかましい。食べ終わったんなら早く片付けろ。シオンがこっちを見てるぞ」





 自室に戻る途で、レトがヒカルの肩を叩いた。

 振り向くと真剣な目と視線があった。

「勝ちましょうね」何に、とは言わなかった。

 マイが忍び笑いを漏らした。



 ところで、訓練場には浴場が併設されている。二十余人の剣闘奴隷はともかくとして、配膳や清掃を担当する奴隷や、訓練士と興行主アントニウス氏も入るのでそれなりに立派なつくりをしているのだ。

 入浴には順序があり、まず雇用主であるアントニウス氏、次に訓練士や医師など自由市民階級の男、テレーズを含む自由市民の女、剣闘奴隷――まず男、女はその後――と続いて、剣闘に出ない奴隷は一番最後に浴場の清掃を兼ねて入る。

 ヒカル達は入浴中だった。

 自由市民であるならば諸々の体の手入れを任せる者が場内に点在するだろうが、彼らは皆奴隷階級のためそういった事は全て各自でやることになっていた。

 ヒカルは浴槽に浸かるイライアスの体を湯気越しに見た。

 飛び抜けて背の高い彼は当然の如く長く伸びた四肢を持っていて、うっすらと白っぽい傷跡の残る皮膚を山脈のような筋肉が持ち上げていた。後ろ髪を纏めて一つに編み、それが濡れてうなじに貼り付いている様は一匹の蛇を思わせた。

「それ、解かないの? 洗う時邪魔じゃない?」ヒカルは彼の編んだ髪を指した。

「解いたらいけないんだ。成人の証だからな」

「ずっと伸ばしてるの?」

「流石に腰の辺りまで伸びたら切ってもらうが」

「自分で切るんじゃないんだ」

「奴隷に刃物を持たせるなんて普通はしないと思うぞ」

「あ、そっか」

 イライアスは立ち上がった。波が生まれ、ヒカルの肩に触れた。「先に上がる。ここは暑くてかなわん。あんまり遅れると女衆が入って来るから長居するなよ」そう言って彼は出て行った。

 それを皮切りに、奴隷達が浴場を出て行く。もう少し温まってから上がろうと考えていたヒカルは一人取り残される形になった。

 引き戸を開ける音。ひたひたと足音が近づいて来る。ヒカルは硬直した。

 足音が石の床を蹴った。浴槽に勢いをつけた何かが跳び込んだ。次いで笑い声。よく知った声だ。

「……マイ?」

「あ、ヒカルだー」頭の天辺からずぶ濡れになったマイが髪を絞りながら振り向いた。「まだ入ってたのー?」

「いや、それは見ての通りだけど」ヒカルは狼狽えた。マイがここまで型破りだとは思っていなかった。「誰か止めに来なかったの?」

「誰もいなかったけどー?」

「そう? あっ、じゃあ僕もう上がるね」顔に感じる熱はのぼせたせいではあるまい。体を起こそうとして、出来なかった。マイが両肩を抑えていた。

「ちょっと待ってね」手が肩から頭に移動した。ヒカルは髪の房を掴まれていると気付いた。目の前にはマイの顔。視線を下に下げる事が出来ない。

「はい、もういいよお」マイが離れた。「ほんとはお守りでもあげたいけど。今はそれが精いっぱい」髪が引っ張られている感覚があった。そこに手をやる。どうやら側頭部の髪の毛を編み込んだらしい。

「マイとおそろい」えへへと笑ってマイが髪をかき上げた。細い編込みブレードが、他の髪に隠れるようにしてそこにあった。

「なんで?」ヒカルは自分の編込みを撫でながら尋ねた。「なんで僕にこれを?」

「イライアスは頭を他人に触られるのを嫌がるし、レトは髪が短過ぎて編めないでしょお? 長い髪の毛はね、魔法に使えるの。結んだり解いたりして力を望む方向に向けてやるんだって。お姉ちゃんが言ってた」

「お姉ちゃん?」

「次の試合で生き残ったら教えてあげる」くすくす笑い。マイなりに発破をかけてくれているのだと思った。

「そろそろ本当に女の子達が来るよ。もう上がんなよ」そういえばそうだったとヒカルは思い出した。

 部屋に戻る途中で何かが頭の中で引っ掛かったが、正体はわからなかった。

「ヒカル、その髪どうしたんですか?」部屋ではレトが椅子に座って風呂を順番待ちをしていた。イライアスは既に寝台に横になっていた。

「まあ、ちょっとね。レトはお風呂入らないの?」ヒカルは編込みをそっと撫でた。

「? 今から入りますよ?」

「そっか」やはり何か違和感がある。




 その夜のマイは木の根元に腰を下ろしていた。手ぶらだった。

「ヒカル、どうしたの? また眠れなくなった?」

「ちょっと、ね」笑顔を作って見せたが、上手く笑えているかは分からなかった。「今日は木の上じゃないんだ」

「まあね。ニンゲン、地に足のついた生き方をしなくっちゃ」彼女の答えはずれていると思ったが指摘せず、曖昧な笑みだけを返した。

「隣、座ってもいいかな」

「どうぞ」

「ここは星が綺麗だね」

「そうかなあ? どこも大して変わらないと思うよ」

「この空にさ、もっともっと大きな、太陽くらいの大きさの星があったらどんな風に見えるかな?」

「太陽くらいの星?」マイは空を見上げた。木の枝や葉に遮られてもなお星々が輝いている。「白夜みたいになるのかな。夜もずっと明るくなって」

「そんなに明るくはないんだけど。昼間よりは暗いけど、その大きな星と他の星が一緒に見えるんだ」

「楽しそうだね、それ。キミの生まれた所だとそういうのが見えたりするの?」

「マイは見たことない?」

「今話を聞くまで考えた事もなかったなあ」マイは自分の顎を手で撫でた。「それで、話って何?」

「えっ? 僕、別に話があったわけじゃ――」

「用がなきゃこんなとこに来ないでしょ」マイは笑った。星の光に白く照らされたそれは思わず胸が高鳴るような美しさがあった。

「……あのさ」ヒカルはやや躊躇ったが、話を切り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る