3,罪人処刑


 訓練場は円形闘技場をそのまま再利用したものらしかった。すり鉢状の壁際には観客席がずらりと並ぶ。

 扉の先で木剣を持った一人の女が待ち構えていた。ヒカル達を見ると口角を吊り上げた。

「御機嫌よう、新兵諸君。私が訓練士ドクトレのテレーズです。ああ、名前は聞いているので名乗らなくても結構。ではまず――」

 テレーズはその薄い唇を舐めた。「体力作りを始めます。ここを三十周走って来なさい」

 ヒカルは訓練場の端を見やった。一周二百メートルは下らないだろう。



「途中で音を上げるかと思いましたが、成程、根性はそこそこあるようですね」

 ヒカルは何も言えなかった。体が呼吸以外の事をしている暇はないと訴えてくる。ゆっくりと登って来る太陽がじわじわと体力を削っていったことを思い出す。隣のレトもほぼ同じ状態だった。

「どうせその様子では今日はもう動けないでしょう。『ノウシウス』の見学にでも行きますか。向こうの救護所で飲み物を貰ってくるように。筋肉の増強を促進する作用があるので」

 倒れ込んで動けない二人に向って彼女は木剣を振るった。腿を強かに打ち据えられてヒカルは悶絶した。

「速く行きなさい。あなた達は奴隷です。命令を聞く以外にするべき事はありませんし許可されません」瞳の冷たい光と嗜虐的な笑みは木剣よりも恐ろしく見えた。





 太陽が中天に至る頃、イライアスとマイは輸送車両の荷台に乗り込む所だった。

「何の用だ、テレーズ。こいつらはまだ出番じゃないだろう」

「先輩の戦いぶりを見学させるのも訓練になるでしょう。せいぜい無様を晒さないようになさい、イライアス」

「持ち場を離れていいのか」

「新入りの指導は一任されています。教練士マギステルは他にもいるのは知っているでしょう。あまり口答えするならアントニウス氏にあなたの態度を報告しなければなりませんが」

 イライアスは口を閉じた。テレーズに促されてヒカルとレトは荷台に乗った。

 マイは膝を抱えて俯いていた。ヒカルは声を掛けようとして、彼女が寝入っていることに気付いた。

 車両が動き出した。




 闘技場は養成所ルドゥスのある森を抜けた先にあった。観客用の入り口とは別に、出場者用の通用口が設けられていた。

 イライアスは荷台から降りる際に、一緒に積み込まれていた長物を手に取った。彼の背丈よりも長いそれは一方の端に革の鞘が取り付けられていて、さながら薙刀グレイブのようだった。

 マイの方は短剣を握っていた。彼女は荷台から飛び降りると大きく伸びをした。

「人に見られながら戦うのってなんかドキドキするねー!」満面の笑みでそう言った。

「毎回観客は山程いるだろうが。二人増えたくらいで変わるか」

「二人とも、頑張ってくださいね!」レトが二人に言葉を送った。

「うん! 超頑張るから見ててねー!」マイは飛び跳ねるように動きながら手を振った。イライアスは答えなかった。二人は通用口の奥に消えた。

「いや、あなた達も行くんですよ」テレーズは通用口を指した。「関係者席がありますから」





 関係者席は観客席の一部分、最前五列を仕切る事で作られていた。知らない顔が何人か座っていた。

「ようテレーズ、今日は休みか? お前がここに来るなんて珍しいな」知らない男が振り向いた。どうやら彼女の知り合いらしい。

「新兵に見学をさせに」テレーズは怜悧な笑みを浮かべた。ヒカルはそれが彼女にとって普通の笑顔であるらしいと知った。

 ヒカル達は最前列に座らされた。

 歓声、怒号、野次、それらが渾然一体となって割れんばかりだった。





 めった刺しにされた獅子が運ばれて行く。午前に行われた『闘獣』の結果だろう。濃厚な血の匂いと獣臭を放つそれは事切れているようだった。

 イライアスはグレイブの鞘を外した。「しくじるなよ」

 短剣の刃を指でなぞっていたマイが顔を上げた。「うん」何度となく繰り返された遣り取りだ。

 審判員の一人が彼らを呼びに来た。二人は闘技場コロッセウムへ歩いていった。




 円形の広間は観客の声でいっぱいだった。二人が中央へ進み出るとその多くは歓声に変わった。

 相手の男二人は既に中央で待っていた。一人は長剣、もう一人は槍をそれぞれ携えていた。がっしりした体格と蔑みの視線が共通していた。

 マイがニコニコ笑いながら彼らへ手を振る。

「ねえねえー、これからどこの馬の骨とも知れないクソ奴隷にぶっ殺されるのはどんな気持ちー?」相手の嘲笑が怒りに変わったのが見てとれた。

「お前の噂は聞いてるぞ、気狂い女。いつまでも剣闘奴隷の地位にしがみついて、そんなに金が欲しいか?」

「マイも知ってるよー、おじさん。公費を横領した挙句に告発しようとした部下を殺して自殺に見せかけるようなクズには同じ事を言ってあげるね。そんなにお金が欲しいー?」マイは涼しい顔で長剣の男を指差した。男の顔が赤くなる。

「そっちのお兄さんはー、売春婦を買っては殺しを五回かあ。売春は公共事業なんだから従事者を差別するのは禁止でしょお? そんな人達にー、頭がおかしいとか言われたくないでーす」マイは声を上げて笑う。血腥い闘技場に不釣り合いな無邪気さで。

「なんで知ってるんだ」槍を持った方は開いた口が塞がらない、といった体だ。「対戦相手の情報はお前らには教えないはずだろ」

「狂人はオーディンの使いだ」イライアスは二人を睨みつける。「全知なる神はなんでも教えてくれるんだろうよ」

 二人組の審判が構えるよう指示する。場内は刹那無音になる。マイがイライアスの着ている胴着の袖を引っ張った。「剣を持った方を狙って。マイは槍の方をやる」小さな声に頷きだけで答えた。

 開始が告げられた。





 開始の合図が終わる直前に、マイは持っていた短剣を宙高く放り上げた。

 一瞬、元兵士二人の視線が短剣に逸れる。それが狙いだった。

 マイは地面と平行に飛び跳ね、一足で槍を持った男の懐に飛び込むと拳を腹目掛けて突き込んだ。

 相手の体がくの字に折れ曲がるのとほぼ同じタイミングで短剣が落ちてくる。マイは相手の肩に手を掛けて体に乗って踏み台代わりにし、短剣を掴んだ。

 刃は真下を向いている。重力にまかせて相手の体に突き立てた。

 背骨が一直線に裂ける手応えがあった。


 イライアスはもう少しシンプルだった。

 マイが作った一瞬の隙。腰の高さに構えた薙刀を横薙ぎに振るう。

 反応が遅れた相手が構えた剣を石突で撥ね飛ばした。

 刃が相手の方を向いた状態からさらに薙ぐ。狙いは下段、相手の脛だ。

 そしてその狙いは果たされた。両脚は薙刀の動きを妨げる事が出来ず、斜めに切り落とされた。相手は滑り落ちるように倒れた。





「元軍人なんて言うからどんなに強いかと思ったのにさー、全然じゃん、こいつら」マイは背中の裂けた男を脚で転がすと脚の腱を短剣で切った。掴んでいた槍は取り上げて放り捨てた。

「『ノウシウス』に連れて来られるようなろくでなしだ。大方、日ごろの鍛錬もサボっていたんだろう」イライアスは膝から下がなくなった相手の腕も同じように切り落とした。

「これでこっちは終わりだ。お前は敗退が決まった。控えで執行人が待ってる。首を一撃で落としてもらえ」喚き立てる芋虫のようなそれをイライアスは蹴飛ばした。ルール上手足を落とされた者は戦闘不能になったと見なされる。

 しかし、まだ終わりではない。マイの獲物がまだ残っている。頭上から響く声は残虐な殺害を彼らに要求している。

 返り血で汚れた顔でマイが微笑んでいた。二人が顔を覗き込むと敗残兵は慄然たる恐怖で震えだした。

「じゃあ、今日はおじさんの中身を見てみよっか」どこまでも無邪気な声だった。

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