2,家畜の餌
訓練は翌日からと言われた。何処かから笛の音がした。夕食の時間だとイライアスは言った。
四人で部屋を出る。食事は食堂で摂ることになっていた。
食堂はそれなりに広く、ヒカル達を除いて二十人近い剣闘奴隷が配給カウンターに並んでいた。カウンターの奥が厨房に繋がっていて、奴隷の証にして脱走防止装置たる金属製の首輪を着けた雑多な人種が食事を載せた盆を配っている。
配給の列は進み、カウンターの方がよく見えるようになった。
長い髪を結んだ少女が配膳を行っている。年はヒカルよりやや上、レトと同じくらいに見えた。
少女の方も列に並ぶヒカル達に気付いた。
「あ、あなた達が新入りさんね? 初めまして、あたしは――」
「無駄口を叩くな、シオン。お前は勤務時間中だ」イライアスはシオンの挨拶を遮った。シオンは不機嫌そうな顔になった。
先に盆を受け取ったイライアスとマイが列を離れると、ヒカルとレトに食事が配られた。シオンはこっそり片目を閉じて笑った。
「よろしくね」彼女は小声でそう言った。二人は無言で頷くと先輩の後を追った。
彼らは置かれた
盆を卓に置いて、ヒカルは改めて自分の食べ物を見つめた。薄茶色の粒が水分の少ない粥のようになって器に盛られている。そっと先輩二人を見ると彼らは無言でそれを頬張っている。表情から味を想像することは出来なかった。
先に椅子に座ったレトが立ち尽くすヒカルを不思議そうに見つめている。それに気付いた彼は慌てて席についた。「いただきます」ヒカルの言葉で他の三人は一斉に彼に視線を向けた。奇妙な物を見たような目だった。
「え、みんな、どうかした?」ヒカルは訳も分からず彼らの顔を見回した。
「いや」「急にキミが変なこというからさあ」「ジパングにはそういうしきたりがあるんですか?」それぞれの答えがこれだった。
ヒカルは首を振った。「いや、なんでもないです」盆の上に置かれた木製の匙を掴んだ。
一匙、口に運ぶ。味がしなかった。緊張して味が分からないとかでなく、何の味付けもないのだ。向かいに座るレトも微妙な顔をしている。
「まあ美味しいもんじゃないよねー」新入りの反応を見ていたマイがそれを見て笑った。「でもここにはこれ以外ごはんないからさあ。まともな物が食べたかったら給料貰って休暇の時に市場で買うしかないんだあ。早く慣れるといいねえ。ちなみにおかわりは三杯までだからね」
「美味い訳ないだろう」とイライアス。「家畜の餌をふやかしただけなんだから」ヒカルはげんなりした。家畜の餌。そう言われると尚の事不味く思えてきた。器にあった分では物足りなかったが、それ以上食べる気にはなれなかった。
部屋に戻ると同時に秘書がやって来た。
「イライアスとマイ、明日の午後一番で『ノウシウス』に出てもらう」秘書の男は淡々と告げた。
イライアスは相手を睨んだ。「そんなのは『マリーディアーン』にでもやらせればいいだろう」
「罪人は元軍人だ。二流の
「まあまあ、そんなにツンツンしちゃ駄目だよー」割って入ったのはマイだ。「イライアスだってお金は欲しいでしょー?」
「そういう事だ。二人は午前中の訓練は免除。ただし、新入りには訓練場を案内してやれとのことだ」秘書は踵を返した。
マイは両の拳を振り上げた。「明日はお昼まで寝るぞー! 皇帝陛下ばんざーい」
「訓練場に案内しろと言われただろうが」イライアスは彼女を小突いた。
「イライアスがやってよー。どうせ二人もいらないでしょお?」
「えっと、すみません」レトが声を上げた。「まだここの言葉に慣れてなくて。何に出ると言われたんですか?」
「『興行』の演目は順番が決まってんだあ。午前中は『ウェーナーティオー』、つまり闘獣があるわけ。大体は南の方から色んな猛獣を連れて来て奴隷と戦わせるのね。午後はまず『ノウシウス』をする。これは重罪人を剣闘の形式で処刑するんだけど、普通は罪人同士で戦う、じゃないか、殺し合う。イライアスが嫌がったのはそのせいなの。ここまではおっけー?」
レトは頷いた。
「剣闘奴隷同士の試合はその後。最初は『マリーディアーン』、なり立ての剣闘奴隷や弱い奴が戦う。普通はお前達みたいな新人だが、だからと言って油断するなよ。奴隷にされる前から戦士として戦って来たようなのがたまにいるからな」イライアスが言葉を続けた。
「んで、その後がマイたち『プリームス・パールス』の出番ってわけ!」マイが自分の胸に手を当てた。「めっちゃ強い剣闘奴隷の事をそう呼ぶの。すごいでしょー」彼女は胸を張って見せた。
「引退し損ねたロートルどもだ。偉くも何ともない」イライアスはにこりともしない。
「またそんな事言ってるー。辞める気なんてない癖にー」
「いずれ辞めてやるさ、こんなところ」イライアスは窓の外を見やった。星と街の灯りが遠くには溢れていた。
その後の消灯時間になってもヒカルは眠れなかった。空腹の所為だ。寝心地の悪い寝台をそっと降りて、彼は部屋を出た。
食堂の入り口はタペストリーで閉ざされていた。試しに覗き込んだが誰もいない。カウンターの奥は灯りを消すと真っ暗で、食べ物を探すことは出来なかった。
空きっ腹を抱えて彷徨う羽目になった。これなら無理にでもたくさん食べておけば良かったと彼は後悔した。
何処からともなく切れ切れの歌声が聞こえた。ヒカルは声を追って歩いた。
細長い建物の突き当たりに出入り口があった。来た時に通ったのとは違うものだ。
外でマイが背の低い木に腰かけていた。歌声の主は彼女だった。小さな箱を膝に載せている。
彼女がこちらに気付いて木から飛び降りた。
「ヒカルじゃん。どうしたの、こんな時間に」そう言いながらマイは箱から何かを取り出して自分の口に押し込んだ。
「お腹空いて、眠れなくって」ヒカルはマイの持つ小箱から目を離せなくなった。何か、甘い香りがする。
「ふーん」マイは薄く笑って箱を差し出した。「食べる?」
「何が入ってるの?」
「ショコラって言うんだあ。マイの大好物。休みの日に市場でたくさん買って来るの。マイはこれがないと生きていけないからさあ」彼女は箱から黒っぽい欠片を取り出した。「はい、どうぞ」
欠片を受け取り口に運んだ。ほろ苦い香りと甘みが口内で奇跡のような味を作り出した。馥郁たる香りが脳髄を満たす。奥歯で噛むとそれは絶妙な硬さで崩れ、さらなる甘さを齎した。あっという間にヒカルはそれを飲み込んでいた。もっとくれないかとマイの顔を見上げると彼女は悪戯っぽく笑った。
「あげないよう。これすっごく高いんだもの。お金持ってないヒカルには一口だけ。もっと欲しかったら自分で買ってね」
ヒカルはあの味が残っていないかと口腔内を嘗め回した。幽かな苦みだけが残滓としてあった。
「早く寝なよ。明日は朝から訓練だよー?」
「マイは? 君は寝ないの?」
「マイは夜の子供だから。日中は仕方なく起きてるだけ」彼女はそっぽを向いた。その言葉の真意は測りかねた。
彼女はこちらに対する興味を失ったらしい。ヒカルは元来た道を引き返すことにした。歩いて少し疲れたのか、すぐに眠気が彼を覆った。
――やっと来てくれたね。
えっ?
――もう少し、もうちょっとだけ。あとほんの少しで、私に会える。
その夜はいつもと違う言葉だった。
顔も分からないその人が笑った、気がした。
翌朝、点呼の時にはマイは寝台の上の段に寝ていた。寝不足故の不機嫌顔を繕う事もせず、頻りに目を擦りながら飼料の粥を食べていた。
朝食の後、イライアスは訓練場へ二人を案内すると言った。マイは欠伸をしながら部屋の方へ歩き去った。
「イライアスさん、マイさんはいいんですか?」廊下を歩きつつレトが言った。
「イライアスでいい。どうせ奴隷だ。敬う必要なんざない。あれは放って置け。時間が来れば誰かが呼びに行く」
「なんか、結構自由なんだね」ヒカルは呟いた。
イライアスがヒカルを睨んだ。「あれは例外だ。あんな奴を真似しようなんて思わない事だな。立って歩けなくなるまで鞭で打たれるぞ」
「何故ですか? 彼女は鞭打ちを免除されるのですか?」レトは首を傾げた。
「免除、違うね。奴は千発打たれてもまるで堪えない。雇い主は諦めたんだ。あれは罰を与えるだけ時間の無駄だとな」
「……本当に千発もぶたれたの? なんで?」ヒカルは革製の鞭を思い出して口の中が酸っぱくなった。
「俺がまだここに来たばかりの頃だ。あれは元々慰安用に買われた奴隷だった。だが――」先頭を歩くイライアスが目を伏せたのは後ろの二人には見えなかった。「顔だけ見て買うからあんなのを掴まされるんだ。奴は脱走しようとした。雇い主は八つ当たりの気持ちもあったんだろう、全員を中庭に集めて見せしめの鞭打ちをやった。百叩きを十回。奴は泣きもしなければ声も上げなかった。俺はあいつの顔の方に立っていた。あれは痛みを我慢しているって表情じゃなかった」
「痛みを感じないなんてあり得るんでしょうか。彼女が特殊な生まれである可能性は?」レトは振り向かない男に疑問を投げた。
「さあ。何も分からない。狂っているのか、あるいは生まれつきの体質なのか。本人に訊いても毎回答えが違うからアテにならん。商人はトイトブルクの森の東、ゲルマニアの山の中で拾ったとか」
目の前に大きな観音開きの扉が現れた。「訓練場はここだ。戦い方は
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