1,剣と盾
アントニウス氏は秘書に数人の奴隷を呼びに行かせた。
「では確認だ。お前の身柄は今日付けで私の物になった。お前はこれから剣闘奴隷として試合に出場してもらう。相方は昨日仕入れたばかりの奴だ。それぞれ教育係として先輩の奴隷を置く。いいな?」
「はい」ヒカルはほぼ反射的にそう答えていた。抗議や質問をすれば奴隷商人が剣の代わりに腰に帯びた鞭を食らう羽目になるのは確かめなくても分かることだ。
「連れて参りました」戻って来た秘書が扉を開けた。後ろに三人の奴隷を連れていた。
男が一人、女が二人だった。男は飛び抜けて背が高い。女達はそれ程身長に差があるわけではなかったが、背の高い方は栗色の長い髪、やや低い方は短い黒髪だった。
皆ヒカルと同じ形の金属で出来た首輪を嵌めていた。
アントニウス氏は黒髪の女、茶髪の女、男を順に指差した。
「まずその一番小さい奴、それがお前の『盾』だ。後の二人は教育係。自己紹介なんぞは自室に戻ってからやれ。イライアス、マイ。そいつらが新入りだ。面倒を見てやれ」後半はヒカルに向けられた言葉ではなかった。
「かしこまりました」「はーい」男は仏頂面で、女はニコニコ笑いながら頷いた。
「要件は以上だ。下がっていい。お前達は今日から相部屋だ」氏は彼らへの関心を失ったらしく、机の上の書類を捲り始めた。
「あなたは何処の属州の出身なんですか?」廊下を歩きながら、黒髪の奴隷がヒカルに声を掛けた。ヒカルは彼女がそれ程年上ではないことに気付いた。
「廊下で無駄話をするな。聞かれるぞ」
「誰も奴隷如きの雑談なんか聞いてないよお。イライアスは真面目だなあ」男の注意を相方らしい茶髪の女が遮った。
「えーと、大分東の方から。あなたは?」
「私も東なんです。奇遇ですね。私の出身はコリントスっていうんですけど、ひょっとして近くだったり?」
「いや、地名まではちょっと」ヒカルは答えを濁した。
「そういえば名前がまだでしたね。私の事はレトと呼んでください」
「僕はヒカル。これからよろしくね、レト」レトが微笑と共に右手を差し出した。一拍置いて握手を求められていると分かった。
「マイはマイだよー。んでこっちのむっつりくんがイライアス。よろしくよろしくねー」マイはずっと軽薄な笑みを浮かべている。その笑顔は白痴めいているように思われた。
「誰がむっつりだ。余計な事を言うな」
「お仕事頑張ろうねー、二人とも」イライアスの言葉を意に介さずマイが言った。
狭苦しい部屋に二段の寝台が二つ。中央に四人掛けの卓があって、それが家具の全部だった。
「さて、教育係を仰せつかったはいいが、何から話せばいいだろうな」イライアスは慣れた動作で丸椅子に座った。ヒカルとレトはその向かいに腰を下ろした。
「えーと、『剣』とか『盾』っていうのはどういうものなんですか?」ヒカルは訊きそびれていた事を口にした。
「そこからか」イライアスは嘆息した。マイは窓の外を眺めていた。木に大小様々な鳥が止まったり飛び立っていったりしている。
「我々がするのは二対二の剣闘だ。それは知ってるな」
「まあ、何となく」
「『剣』と『盾』はそれぞれの役割だ。『剣』は相手に攻め込む。相手も攻撃してくるから、それを『盾』が防ぐ。まあほぼ形骸化しているがな。ちなみに防具は盾を含めて基本的に支給されない。余計な装備があると切断された四肢の再接合の邪魔になるし――」
「お客さんは奴隷の手足がぼんぼん吹っ飛ぶのが見たいからねー」マイが背を向けたまま続けた。まるで心底面白い出し物の説明をするような口調だった。
レトが隣で息を呑んだ。
「『興行』はほぼ毎日やってるが、それぞれの出番はせいぜい七日に一度だ。休暇は出場した翌日がほとんど。後は訓練に充てられる。他に訊きたい事はあるか」イライアスは眉一つ動かさない。
「はーい、先生」マイが振り向いて片手を上げた。「勝利条件とお給料の話がまだでーす」
「相手が降参する、あるいは行動不能になる、つまり二人とも手足を切り落とされて動けなくなったらお前達の勝ちだ。建前はな」
「建前?」嫌な予感が棘のように刺さったが、それは訊かなければならないように思えた。
「
イライアスが向かいの二人の顔を見た。二人とも血の気が引いていた。
「お前達の故郷の文化なんてのは俺には分からんが、ここでは奴隷に命の遣り取りをさせるのが市民にとっての娯楽だ。理解しなくてもいい、ただ受け入れろ。出来なければ死ぬだけだ」
「ファイトマネーは試合の翌日に支払われるよー。大事にしまっておいてねー」マイはからからと笑いながら言う。「お金をいっぱい貯めてー、市民権を購入すればここから自由になれるからさー」
「その、市民権というのは幾らくらいなんですか? どのくらい出場すれば買えますか?」レトが顔を上げた。自由、それは地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸に等しい。
「七日に一度出場し続けて、五年くらい掛かる」イライアスはぶっきらぼうに答えた。「俺達みたいに残ってさらに金を稼いでもいいが、まあ殺されなければの話だな」
「ねえねえ、もしかしてヒカルってさー、最近属州になったって言うジパングの出身だったりするー?」マイはどこまでも呑気に笑っている。もしかしたら壊れているのかもしれないとヒカルは思った。
「えっ? 何、急に」
「ああ、それなら見かけない顔つきなのも合点がいくな」イライアスが頷いた。「まあ見たことのある顔つきの方が少ないが」
「えー、まあ、そう、なのかな……」ヒカルは言葉に詰まった。
「ジパングというのはどの辺りにあるんですか?」レトがこちらを向いた。努めて明るく振舞おうとしているのが分かった。
「ここからずーっと東の果てにある島なんだってー」そう答えたのはマイだ。
「島か。俺が生まれたのも島だった。今じゃカレドニアなんて名前を付けられてるが」イライアスが興味深そうにヒカルの顔を覗き込んだ。三白眼で、氷のような色の虹彩だった。
ヒカルはあー、とかうー、とか呻きながら肯定も否定もしなかった。何故彼らはそんな事を気にするのか。話題を変えるにはどうすべきか、暫し悩んだ。
「そういえば、お二人はどっちが『剣』とか『盾』なんですか?」我ながら良い切り替えしだ、と内心自画自賛した。
イライアスとマイは一瞬、虚を突かれた顔をした。「俺が『盾』で、この悪魔は『剣』だ。忌々しい話だが」イライアスは眉を顰めてマイを指した。
「悪魔って……」
「いずれお前達も分かる」
マイはそれを聞いても笑顔のままだった。端正な顔に、軽薄な笑み。まるで最初からそう造られた蝋の仮面のようだった。
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