第10話
ほんもののオアイエに帰りたいと思う?
木陰に帆布を敷いて、わたしとカリンは牧草地を眺める。ヤグルマギクなどの野の花が咲き、羽虫が飛び交い、蜂がうなり、小鳥がさえずる。
夏がくすだまを割るように栄えていく。
老人はクッションに埋もれるように身を伸べ、むにゃむにゃと口を動かしてからぼそぼそ言う。
思わないよ。わたしが求めるものは、もうあそこにはないだろう。父や母やきょうだいや、友人、かつて愛したひともみな、いなくなっている。景色は変わらないだろうけど、それを見たら、かえってつらくなる。ここのほうがいい。
灰色の顔のなか、青い瞳だけがきらきらと光っている。
わたしは微笑む。かれの手を握る。よわよわしく握り返す手を感じる。
かれは目をつむる。わたしは読書に戻る。
入院が始まる。最初はばたばたと処置がつづく。やがてそれも落ち着き、眠っていることが多いかれのそばに座る。イリャーナがたまにやってきて、隣で刺繍や編み物をする。わたしは端末で本を読む。ことばは、だんだんすくなくなってゆく。医師が示す数値、看護師が取り替える管や袋やガーゼが、どんどん深刻になる。病院の外の空気に触れることがないので、暑さを知らないままに夏が深まる。想定の通りに進む。イリャーナがヴァスィーレを観測所から呼び寄せる。さすがのかれの顔にも、もう笑みが浮かぶことがない。老いた研究者たちがやってきて、旧知のカリンと二言三言ことばを交わす。わたしよりも背の高い、ひょろりとした眼鏡の若い同僚が病室の入り口でそれを見ている。かれはそんなにわたしと歳が変わらないように見える。
ニコラエ。
呼ばれたかれがベッドにちかづく。
かれはオアイエ出身なのです。カリンさんの業績を知って、首府まで追いかけてきたんですよ。
紹介されて、ニコラエが窮屈そうにかがみ、つよい視線でカリンを見つめる。
……すこしタイミングが悪かったね。きみの入所時期には、わたしはもう退所していただろう。
ええ。まだ博士号も取れていないので、……わたしは出来が悪いので。
なに、そんなことは気にすることはない。「わたしの実験」で論文を書けばいい。
そんな……。
おどおどする若者を見て、カリンはかすかに笑う。
うれしいよ。きみのようなひとに見てもらえるのは。
やがて、カリンが合図する。わたしは研究者たちに出てもらう。カリンが疲れてしまったのだ。
ヴァスィーレが研究者たちを送ってゆく。
眠るカリンを、立ったまま見つめる。
……わたしもいるよ、と思う。
けれど、それはただの家族としての存在だ。かれが、生涯、心身をすべてかけて求めたもの――科学を追いかける同志ではない。そうだろうか? ちいさい頃、熱帯キューブに行って、菌類を顕微鏡で見せてもらったことは? 菌糸の固まりを土から引き出して、研究者に質問したことは? 汎知性共同体のネットワークについて調べたことは? カイにつながるから求めたのだろうか? それもあるけれど、それだけではないと思う。人間はどうしてこんなにちがうのだろうかと、わたしはかつて考えた。人間だけではない。動物、植物、菌類、そのほかのちいさな生き物、砂や土、石や風、光、輝く雲のなかに、わたしは生きている。この人間が作り上げたドーム都市でも、わたしは自然のなかに生きている。じぶんとはまったくちがう、命。無数の命、それと炭素、窒素、酸素、……無数の物質。それらが循環して、つながり合って、この星は成り立っている。わたしもそのおおきな流れ、衝突、破壊と再生のなかに生きている。
目の前の、ちいさな老人が生きつづけるようになにかをなすことは、わたしにはできない。けれど、かれの命がほかの命につながり、命から物質になり、それをさらにほかの命に伝えていくさまを見つめることができる。人間は死ぬときどうなるのか? 内臓、心臓、脳、こころは? 魂は? 精霊になって森で生き続けると考えることもできる。けれど、脳は数分ごとに細胞を死滅させる。心臓が止まったら、どんどん組織は壊死してゆく。体液の流れが止まり、よどみ、弱って入り込みやすくなったそこに、無数の微生物が群がる。最初の数分群がる微生物と、死後二時間後に群がる微生物はちがう。それぞれが酵素で分解し、吸収し、生活環をまわす。数十分で、細菌の世代は交代する。なにが。なにが起きて、命は命でなくなってゆくのか。なにが起きて、命でないものは命になっていくのか。
知りたいと、わたしは思う。
急変する。ヴァスィーレがカリンの頬に触れる。なんどかこするように撫でて、頬に口づけする。イリャーナもそれにつづく。わたしはかれの手を握り、そこに口づけする。イリャーナとわたしは、無菌服を着たヴァスィーレを、病室の窓の外から見つめる。
二日、なにも起こらない。心臓は脈打ち、脳波も正常で、カリンは穏やかに呼吸している。わたしたちは無菌服を着て、手袋で覆った手でかれに触れる。温かい。点滴はもう打っていない。
三日目、掛け布を剥ぐと、かれのからだが変色しているのがわかる。腕は紫色に、腹や胸は赤黒くなる。首に無数の草の葉のような斑紋ができる。
四日目、固く閉じた瞼のあいだから、つややかな菌糸が出てくる。鼻の穴や耳、唇からも。赤い菌糸と青い菌糸がある。それらは、その日のうちにからだじゅうに伸びていく。
徹夜をして、病室の床にスツールを置き、研究者たちとわたしたち家族はカリンを見つめ続ける。研究者たちは計器類でなにかを測り、切り取った組織を顕微鏡で分析する。
五日目の未明、カリンがむくりと起きあがる。からだの関節――指の節や手首、肘の裏、脇の下、足首――から菌糸をふわふわと漂わせながら、かれはベッドから降りる。
カリン。
わたしは思わず声を上げる。
父さん。
ヴァスィーレやイリャーナが叫ぶ。
カリンは応えない。口をひらいても、菌糸がそこからふわふわ出てくるだけだ。かれはゆっくりベッドから降り、からだのバランスが取れないようにゆらゆらと揺れながら、病室のドアを開ける。
かれは廊下を進み、エレベーターで地上階に行く。研究者たちはエレベーターに入りきらず、階段で十階の道のりをばたばたと駆け下りていく。わたしたちは同乗する。カリンは杖もつかず、そろそろと病院のロビーから、明け方の外に出て行く。
病院の庭はちいさい。けれど、花が終わったヒマワリを抜いた、土が剥きだしの花壇がある。カリンはそこへ行き、手で穴を掘り始める。
わたしたちは無菌服を脱ぎ捨て、泣きながらかれと一緒に穴を掘る。研究者たちが見守るなか、やわらかい土のなかにひと一人分の穴ができる。
カリンの顔に、笑みのようなものが浮かぶ。かれはその穴のなかに横たわる。自分の足、胴体、顔に土をかける。そして、動きを止める。
トモシビタケはありふれた土壌腐朽菌だ。ふだんは生物遺体を分解して、キノコ――子実体も地味なちいさいものしか作らない。だが、そのキノコを、弱った、死のちかい動物が食べると、その動物に寄生して、操り、穴を掘らせて自分で自分を埋めさせる。その下にはたいがい、トモシビタケの群落がある。そうして、動物の息の根を止める。かれらはその遺体を分解する。
医師が呼ばれて、懐中電灯に照らされながら、土のなかの手を取り、胸を確認して、心肺停止を告げる。わたしは泣きながら、研究者たちにも勧めて、カリンの上に土をかける。かれのからだ、かれの顔が見えなくなる。朝日が土を照らす。そのなかに、菌糸がつくる卵のような赤い子実体が数個、ぽこぽこと顔を出す。やがてそれは割れ、上半分はカサになり、しゅるしゅると伸びてゆく。ひとの背丈ほど伸びて、それは止まる。赤い、丸い、マッチの炎のような子実体。霧雨が降り始めると、それによっててっぺんが膨らみ、破裂して、胞子が噴き出す。風に乗って、ありふれた菌の、ありふれた命の塊が、また、広がってゆく。
根を編むひとびと 手のかさなり 鹿紙 路 @michishikagami
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