第九場 居酒屋ヘンリー
煙の中から現れたのは、無造作でちょっと長めのダークブロンド、その間から覗く、はっとするほど強い青の瞳。匂い立つ赤薔薇の花束を思わせる堂々たる存在感。
「ハル王子!」
「また会ったなお嬢ちゃん。聞いたぜ、お嬢ちゃんはオレの嫁の再婚相手の孫の孫の娘なんだってな? つーかまた亡霊に囲まれてんの?」
言いながらハル王子は射るような視線をリチャードと大主教に向ける。
「ふぅん、笛や太鼓で平和な時代じゃ英雄にはなれないってか。確かにそうだな、イイこと言うじゃねえか」
すると剣を抜く代わりに懐から取り出したのは、巨大な
ハル王子、もといヘンリー5世はその場にドカッとあぐらをかいて座り込む。
「よし、飲もうぜ」
と、杯まで取り出して、立ったままのリチャードへ突き出した。
「…ヘンリー、俺はお前の息子を殺した」
「聞いてるぜ。かなり可愛がってくれたみてぇだな? けど、過ぎたことだ。座れよ」
「お前の孫も俺がとどめを刺した。お前の血を根絶やしにしたんだぞ」
「知ってるよ」
「なぜ笑っていられる…! 憎しみのまま罵詈雑言をぶつけろ!」
リチャードの震える声に反応し、亡霊が一斉に向かってくる。ヘンリーとウィリアムの動きがシンクロし、二人がドン! と右手を床についた。
「「アジャンクール!!」」
瞬間、床という床から大量の弓矢が飛び出し、避ける間もなく亡霊の体を貫く。次から次へと終わりが知れない下からの矢の雨に、亡霊どもは風船が割れるように消えていく。タモラも、ジャンヌダルクも一旦退避する。固まっていたトニーとハムレットも元に戻り、あれほどひしめいていたのが一体もいなくなるまでほんの三十秒ほどだったろうか。
「な、座れよ」
地下の暗がりの中、ヘンリーの青い瞳が鋼のように底光りする。
「…っ!」
これにはリチャードも唇を噛むしかなかった。ヘンリーは自分の杯に麦酒を注ぐと一気に飲み干し「うんめぇぇ~!」と白い歯を見せる。
リチャードがちょこんと腰を下ろすと、なみなみと注がれた杯が手渡された。
「俺は飲みたくない」
「
「そうじゃない」
「じゃ一口くらい付き合ってくれたっていいだろうが。ホラよ」
ずいと突き出された杯に、渋々カチンと合わせて口をつける。ヘンリーの方は既に二杯目も空にしていた。
「どうだ、
「興味ない」
「イングランドの
「あんたの言葉を借りれば、過ぎたことだ」
「んだな。けどオレは、こうやって一緒に飲むのも最高だと思ってる。昔は猪頭亭でゴロツキどもやフォールスタッフってくそジジイと夜通しで飲んだし、フランス王女の嫁も酒豪でな、一度も勝てなかったぜ」
「リチャード…! 勝手なことをするな!」
怒りに震える大主教が二つの
「キャラを好きなように走らせることも必要だよ? ほらほら、あんたも座ってさ」
「っ…! 返せ! シェイクスピア!」
「やなこった」
とさっさか走ってヘンリーの背中に隠れる。そういえばフォールスタッフも同じことをしていたっけ。おじさんの横幅は全く隠れていなかったけれど。
「おー、いいぜ、みんな座んな。お嬢ちゃんたちも、そこで睨み合ってる兄弟もよ!」
再び一体どこから取り出したのか、ヘンリーが杯を配ろうとすると、すかさずホレイシオが代わる。エドワードとクラレンスの兄弟も、タモラとジャンヌダルクさえ一時中断し、みんな輪の中に入った。
「なぁリチャード、飯と酒はみんなで分け合った方が美味いと思わねぇか?」
不思議なこの宴会にヘンリーはご満悦のようで、全開の笑顔だった。
「俺は知らん」
「お
ホレイシオが
「あんたに俺の何がわかる」
「分かるさ。オレは親父が自らを王位簒奪者だと、時に悩む姿を見てきた。お前ぇの爺さんのヨーク公が反感を持ってたことも知ってる。オレは己の野心と、親父の正統性を証明する為にフランスへ攻め込んだんだ。やってる事はお前ぇと一緒だよ。フランスがランカスターになっただけだ」
「一緒なものか! あんたは…あんたは…偉大だった!」
リチャードはグイッと杯をあおり、手の甲で口を拭う。
「あんたは北フランスを征服し、フランスのど真ん中で王を屈服させた。病で死ななければ、フランス全土があんたのものだったじゃないか! 俺は、あんたみたいになりたかったんだ」
ヘンリーが麦酒を注ぎ足すと、また一気にあおる。
「栄光のイングランドだった。俺は心底誇りに思う。なのにあんたの息子は、ヘンリー6世は…! 父親が征服した領土を次々に奪い返され、フランスの王位継承権まで失い、逃げた。挙げ句臣下からも見放されて、我が父へ王権を返上する折には自分の存命中だけはこの身を王にしておいてくださいと嘆願しやがった! イングランド王の
ヘンリーは何も言わず、リチャードの目を見つめている。
「ああ、6世は内乱を止めようとしていたんだろう。しかしそのために子の王位相続権を放棄したんだ。自身の保身はしっかりしておきながら! あいつこそがイングランドの屈辱そのものだ。ヘンリー6世を、ランカスターを廃し与えられた屈辱を与え返す。もう一度イングランドに栄光を取り戻す。俺が求めるのは強い祖国、世界一の祖国だ。俺はそれを頂点から眺めたい」
誰にも愛されないという底なし沼から見上げた輝きは、ヘンリー5世であり栄光のイングランドの頂点。人を殺してまで手に入れたことは到底いいよとは言えないが、なにか彼を救える方法はないのか。ライラの思いは変わっていた。
「そか。そりゃまだ赤ん坊だった息子を残して死んじまったオレに責任があるな」
そしてヘンリーは床に三つ指をつくと、
「悪かった!」
と額を床につけた。
「謝ったところでどうにかなるもんじゃねえけどよ、後世の奴らに苦労かけたのは王として至らなかった」
そんなヘンリーにリチャードの闇色の目が、ほんの少し緩んだように見えた。
「…俺だって己の野心で多くの人を殺してきた。ただ、イングランドがフランスやスペインに負けない強国になるには、強い王の力で国をまとめ上げることだ。その考えは変わらない。風が吹くたびに転がされるような祖国の姿は見たくない」
「そりゃ同感だ。イングランドがどこぞに支配されるのは許せねぇな」
「ならないわよ。そんなことにはさせない」
リチャードの、ヘンリーの目がライラに向けられる。
「女王ならきっと、イングランドを強い国にする。だって女王は悲しみを知る強い人だもの。わたしを産んだお母さんなんだもの」
「…父ヨークの跡継ぎ以外に誰がイングランド王になれるというのだ。女王エリザベスはヨークの血を引いてはいるが男系ではない。だがお前は違う。ラトランドの血を引く、まぎれもない白薔薇だ。失った子供たちをお前の胎の中に埋め戻す。そしてヨークの威信を取り戻すのだ」
「でも、今生きているわたしは、ヨークの血を継ぐわたしは、そんなこと一つも望んでないんだから!」
「望む望まないの話ではない、星に定められた宿命だ」
「関係ないっ! わたしはガラス職人の娘よ。死んでも王族になんかならないし、自分の生き方は自分で決めるわ!」
ライラの剣幕に、リチャードは少したじろいた。
「…王族になんかなりたくない、か。百年経って女の生き方も変わったのだな」
女王によく似ていると緋色のウィリアムが小さく呟いたのは、マシューだけが知る。
「あんたもさ、マーガレットやヘンリー6世と同じ、運命に翻弄された一人でしかなかったんだな。薔薇戦争自体が、イングランドという諸侯の連合国がひとまとまりの国家へ脱皮していく過程の一つに過ぎなかったんだよ」
ウィリアムに言われ、最初リチャードは否定しようとしたが、目を伏せた。
「どうとでも言え。その時を生きなかった者に分かるものか」
「分からないからこそ無限に想像できるんだよ。だからおれが書いてやる」
リチャードの目がウィリアムを向く。
「おれは最高の劇作家になる。いつか必ず『劇聖』と呼ばせてみせる。そしておまえを
二人の視線がまっすぐにぶつかる。そしてリチャードの髪が揺れる。髪に隠れて顔は見えないが、もしかしたら笑っているのかもしれないとライラは思った。
「…お前にそんな野心があるとはな、シェイクスピア」
「おれのことも操ってみる?」
「お前など何の役にも立たない」
そう言ってリチャードは杯の中身を空っぽにした。
「よぉーし、みんなで外出てみねぇか?」
ヘンリーが勢いよく立ち上がる。
「行きましょ、リチャード」
下を向いたままのリチャードに、ライラは手を差し出す。
「拾い上げてあげる」
「ふん、今更遅い」
リチャードは自分で立ち上がるとヘンリーの後について歩き始めた。その後ろ姿に聞こえるようにライラは言う。
「もう、かわいくないんだから!」
※エリザベス女王は、ヨーク三兄弟の長兄エドワードの娘の血を引いている。
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