第八場 瞳の中の野心
「野心に燃えるランカスターの血は、上昇することなく地下へと沈み込んだ。我がヨーク家の没落を願う輩からは、常に血の涙が流れるがいい」
リチャードが一歩を踏み出す。その靴音が体の芯に冷たく響いて、ライラは床に縫い付けられたように動けなくなった。
リチャードの歩みはゆっくりなのに、まるで空間が歪んだのか、次の瞬間にはもうライラの目の前にいた。その姿は降りしきる雨の中佇む、濡れた白薔薇だった。
「ライラ…っ!」
駆け出そうとするトニー。しかしリチャードがふわりと手をかざすと、トニーもハムレットも、石化したように静止する。声も出せず、ライラは恐怖に全身を支配された。
「ランカスターの剣に貫かれた、かわいそうなラトランドの血を引く娘」
細い手が伸ばされる。それは爪の形が変形し、あらぬ方向へ骨が突き出した、まるでしゃぶり尽くされた鶏の骨だった。しかし柔らかく頬を包まれて、花びらのような冷たい感触に全身がぞっとする。
「会いたかった。お前が来るのをずっと待っていた」
そして、リチャードの目から涙が一筋流れる。
「…!?」
「お前の目は俺を生き地獄へ投げ込み、俺をなぶり殺しにする。どんな悲しみでも引きだすことのできなった涙を、お前はいとも簡単に引き出した。共に来てくれるというのなら俺の高慢な心は跪き、この舌に追従を言わせよう」
「誰があなたと共に行くですって…? 冗談じゃない!」
ライラは目に力を込めた。リチャードと大主教はわたしを利用したいのだ。こんな演技には絶対騙されない。
「なぜそんな目で俺を軽蔑する。ヨーク家の正当な権利を横取りしている奴らを滅ぼすのは、俺の星に定められた宿命だ」
その時、乾いた銃声とともにリチャードの肩が跳ね上がる。しかし彼は、何事も無かったかのようにゆっくり肩を元の位置に戻した。
「ライラを離せ」
連続して緋色のウィリアムは撃つが、ついに弾が切れてもリチャードは平然と立っていた。イアーゴは銃弾に貫かれて砂になったというのに。
「目障りな小虫が」
リチャードが手をかざすと、いきなり緋色のウィリアムの体は吹き飛ばされ、壁に激突する。あんな強さで激突したら…!
糸が切れたように床へ転がった姿を確かめることもできず、ライラは縫い止められたような体を引き剥がそうと必死に力をこめる。
「あんたの言うことなんて絶対聞かないんだから!」
「あの小虫だけではない。こいつら全員に暗黒の日を用意してやろう」
「…やめて。そんなことをするなら、わたしが死んでやるわ」
「お前にできるものか。この俺を殺す勇気もないのに」
するとリチャードは自分の懐から短剣を抜き、柄をライラに向けた。
「この胸を突き、俺の魂を殺してしまいたいと思うなら、俺はこの通り両の胸をかき開いてそのひと突きを待とう」
白い衣の下、露わにされた胸には無数の傷や、罪人の焼印を押された跡があった。思わず息を飲む。かつて、彼が死んでなおいたぶられた傷だ。
「どうした、躊躇することはない。さあ」
リチャードは
「どうしてあなたはそこまでして…家族を殺めて、死んだ後も蔑まれてまで。手に入れたかったものは何なの…?」
「俺に家族は、兄弟はいない。どの兄弟も似てはいないし、「愛」などという言葉も存在しない。俺は天にも地にもたった一人だ。だから頂点に上り詰めなければ、俺は自分自身を証明できない。自身を偽る悪魔になってしまう」
この人は、他人を傷つけることでしか自分を表現することができなかったのだろうか。王冠を奪うことでしか己を証明できなかったのだろうか。そう思った時、ライラの手から短剣がこぼれ落ちた。
「もう一度剣を拾って。でなければこの俺を拾い上げてほしい」
リチャードの頬に雫が伝う。たった一輪だけ咲いた、濡れた白薔薇だ。折れそうな手を差し出され、ライラは目を逸らすことができない。そこにはライラの想像を遥かに凌駕する孤独。しかしその深く澄んだ泉は、一口すくって飲んでみたいという抗い難い欲望を掻き立てるものだった。
いやよ…何を考えてるのわたし…この人に寄り添ってあげたいなんて———
「勝手に独りで立つんだな」
いきなり後ろから両肩に手を置かれ、動かせない体が跳ね上がる。だがさっきまでの心の中に浸潤されるような息苦しさが無くなり、強張った体がふっと楽になった。
「…邪魔をするなシェイクスピア」
「そっか…わたし、リチャードの魔法に…」
半分かかっていた。でも、しとしとと雨のように流れ込んできた彼の孤独が、全て嘘とは思えない。恐怖は薄れ、代わりにある思いがライラに浮かぶ。
「散々殺しておいて、『それは全部あなたの美しさと愛の為です』なんて言うつもり? イマドキの女子には通用しないよ」
だがリチャードの濡れた黒の瞳は笑わない。
「こうしなければ、俺にも、お前たちにも、この国にも、数多くのキリスト教徒にも、死と荒廃と滅亡と衰退がやってくるばかりだ」
静かに断言するその挙動に、なぜだか腹が立った。これまで動けなかった鬱憤が噴火のごとくほと走り、ライラの口をつく。
「あのね、あなた百年前の人でしょ?どうして断言できるのよ。それにねえ、暗すぎ! そんな王様に誰もついていくわけないじゃない!」
「…………」
虚を突かれたリチャードは言葉を失う。ウィリアムは気持ちよく爆笑だった。
「し、仕方ないだろう! 俺は…
「あなたが自分で思ってるほど悪くないけど? 王様なんだから見た目なんか気にしないで堂々としてればいいのに」
「人格形成過程に王も庶民も関係ない。俺はこの見た目のせいで母からも疎まれ、通常人が受けられるべき愛情を抜きに育ったのだ」
「そんなこと言ったらわたしだって産みの両親じゃないもの。でもあなたにだってお母さん以外にも愛情を示してくれる人がいたはずよ? 貴族なんだから乳母とかいたでしょ? お付きの者は?」
「それは…」
黙らされたリチャード。コリオレイナスの時もそうだったが、自分のナイーブさを覆い隠すために周りを傷つけてしまう。リチャードの孤独に、そんな危うさをライラは感じていた。
「うんうん! な? ライラは台本通りになんかいかないだろ?」
ウィリアムは満面の笑みを大主教に向けた。
「女王は二度と薔薇戦争のような内乱を起こさないために力を尽くしてきた。暗黒魔法の力に頼らなくても、きっと負けない国になると思うよ」
「シェイクスピアの言う通りだ。リチャードを倒したヘンリー7世、その息子ヘンリー8世も、平和なイングランドを望んだ。その中で国力を蓄え、フランスやスペインという大国に負けない国づくりをしてきたのだ。今更ランカスターだのヨークだのと、時代を巻き戻してどうするという」
マシューに支えられた緋色のウィリアムは苦しそうに、しかし心の底から伝える。
だが、それを嘲笑うようなしわがれた声が響く。
「…緩いのだよ、そんな野心では。イングランドを世界の覇者にするには全く足りぬのだ。そうであろうリチャードよ」
大主教が言うと、風もないのにリチャードの白い髪がふわりと舞う。先程までとは打って変わり、身にまとう空気が刃物のように、凶暴性をあらわにする。
「たとえ身が朽ち果て復讐心が癒されても、野心だけは消えない。なあ、マクベスよ」
するとジャンヌダルクと戦っていたマクベスが、急にオセロへ向けて剣を振るう。
「ぐっ! どうしたのだ!?」
「すまぬオセロ! しかし体が勝手に…! ええい、バーナムの森がダンシネインに動いて来ようと、お前が女の股から生まれた者でなかろうと、私は最後まで戦う。最後に参ったと言った奴が地獄へ落ちるのだぁ!」
「己の野心に喰い潰されるがいい。目覚めよ、亡霊たち」
リチャードの唇が凶暴な笑みで歪む。手をかざすと、床から壁から亡霊が湧き出て、びっしりと埋め尽くされた。
「マクベスは野心から王様殺しちゃってるからね~。リチャードに操られてるんだよ。あ、僕とオセロの悩みは野心とは別のところだから安心していいよ~」
「しかし殿下、この状況は楽観視できません」
言いながらハムレットとホレイシオは剣を構える。
「いやですわ! わたくしはもう野心など忘れて平和に生きたいのですわ! なのに…ああっ…摂政の杖が遠のいていく…! あれはわたくしの夫の、わたくしのものですわ!」
エレノアまで操られてしまっている。
「俺は俺の野心を満たすため、この巧言令色の軟弱な時代を壊し、世界の覇者になる」
「待ってよリチャード…!」
しかし、リチャードが手を向けた先はライラだった。
「黙れ。ヨークの末裔ならその血が覇道を求める。己の欲望と運命に従え」
「あああぁ…っ!」
その手で心臓を鷲づかみにされたように胸が痛み、鼓動が身体中で鐘のごとく鳴り響く。息が苦しくて体が千切れそうで、次第に意識が何かに塗り込められていく。暗くて憎しみに溢れて———体が熱い!
「ライラしっかり! ボクを見て、あんな奴に支配されちゃダメだ!」
小さな手でライラの頬を叩くパックは、一生懸命にキラキラを振りかけてくれる。
「う…うん、パック…」
手を伸ばす。しかしパックに触れたら、自分の意識の外側で握り潰してしまうのではないかと怖くなる。
ふいにその手を取られる。しっかりと握ってくれて、あたたかい。割れそうな体から痛みと熱が引いていく。見つめる瞳は、オレンジ色。
———目の中に太陽がある。
「いくよ!」
ウィリアムはライラの手のひらに文字を描いた。
※『リチャード三世』第一幕第二場。葬儀の最中、未亡人アンに跪き「もう一度剣を拾って。でなければこの俺を拾い上げてほしい」とリチャードが口説く。葬儀はアンの義父ヘンリー6世(リチャードが殺した)で、更にアンの夫もヨーク三兄弟が殺害している。アンの憎しみが最高潮であろう時に、仇であるはずのリチャードが堂々と口説く愛なき愛のセリフは圧巻。
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