第二場 アムちゃん

「ライラ…ライラが…」

 目の前で消えた。手を伸ばしたのに掴めなかった手のひらを閉じる。

 俺が盾になってやる、そう約束したのに———


「あぁすぐ行かなきゃ! 危ない目にあってるかも!」

「落ち着きなさい、トニー」

 マシューが肩に手を置く。


「焦るのは分かるし、皆同じ気持ちだ」

 アンが頷く。ウィリアムは汗に濡れた額を袖で拭う。

「タモラの奴、『宝珠オーブと引き換えや、セント・ポール大聖堂に来てね』って言ったよね。宝珠を渡したら暗黒魔法が完成しちゃうわけだよ?」


「けれど、ライラを見捨てる選択肢は無いだろう」

「そうだ。シェイクスピア、お前はそんな男だったのか? 見損なったぞ」

「大主教の魔法なんかお前が止めてみせろよ! 情けねえ」


「えぇ?」

 三人から口を揃えて言われ、瞳を見開いたウィリアム。すると豪快な笑いでハル王子がバシバシ背中を叩いてくる。


「大主教とテメェの想像力と、どっちが上かだな! また力貸してやっから死ぬ気でがんばれよ。おい! けぇるぜ土手ッ腹野郎」

「あー喉乾いた。酒だ酒! もうオレ様は呼び出さねえでくれよな」


 二人の姿が消えると、キャラに主導権を握られっぱなしの作者ウィリアムは唇の端を上げる。

「分かったよ、もちろん行くさ。けどおれ、肉1ポンド切り取られるのやだからね」


 三人も同じ顔して応える。

「安心しろシェイクスピア、私が守る」

「肉を切り取られても死ななければ私が回復してやる」

「俺は大主教のじいちゃんよりウィリアムのキャラの方が好きだな」


 王家の菩提寺であるウェストミンスター寺院に対し、セント・ポール大聖堂は民衆の祈りの場であった。中央に高さ158メートルの尖塔を抱く姿はロンドンのシンボルだったが、1561年に落雷で屋根全体を焼失している。現在復旧工事中だが、資金難で中断しているのだ。


 鈍色の雲に重く蓋をされた、人気のない半ば朽ちた聖堂はまるで亡霊の棲み処のようで、霧雨に湿った空気までもが黒くすすけ落ちたようだった。


「聖堂には隠された地下空間が必ずあるものだ。地下への階段を探そう」

 そう言うとマシューは祭壇の方へ駆け寄り、壁面や床を調べ始める。


 大聖堂建築は人を上へ上へと誘うものである。きっと天井まで画が描かれていたのだろう。向かう先はぽっかり失っているのに上へと導く階段を横目に、クワイヤの聖歌隊席を彩る木彫装飾に触れて歩いていたウィリアムが、なにかに気付く。


「ねぇ、これ見てよ」

 近くにいたアンを手招きする。

「この草の模様、地下への↓っぽくない?」


「言われてみればそうだな…これは何だ?」

 その横の突起にアンが触れる。少し力を入れただけでスッと下がり、カチリと何かがはまる音がした。


「あ、やば…うわあああぁぁぁ——っ!!」

「えぇぇいやあああぁぁーっ!」


 二人の悲鳴にマシューとトニーが駆け付けるも、そこに姿はなかった。

「おぉい! ウィリアム! アン!」

 呼んでも空しく返事はない。


~~大聖堂地下三階~~


「ぅわあああぁぁ——っ! って痛ってえ!」

 いきなり地面がなくなり、抵抗する間もなく滑り台で強制降下させられ着地に失敗。更につんのめったアンに上から全身ダイビングされ、ウィリアムは地面に顔面を打ち付けた。


「すまぬ! 今どく! …ここは?」

「探してた地下空間じゃないの? 松明灯いてるから誰かしらいるんでしょ」

 鼻血が出ていないことを確かめ、乱れたふわふわ髪を直すとウィリアムは、不気味に煌々こうこうと照らされた通路を歩き始める。地下空間は果てなく広がっているように見えた。


「マシュー殿とトニーを待たなくてよいのか?」

「カラクリっぽかったから気づいてくれるかどうか。それにじっとして敵に囲まれるのを待つわけにいかないだろ」


 アンは従うことにした。不用意にスイッチを押してしまったのは自分だし、申し訳ない気持ちが膨れていく。

 しばらくウィリアムは黙んまりだった。怒っているのだろうか、やはり謝罪だけはしようとした時だ。


「何度もおれを捕まえようと追いかけてきた君が、まさか協力してくれると思わなかったよ」

 逆に優しい声で話しかけられて、ちょっと戸惑う。


「私を覚えていたのか?」

「美人に追いかけられて悪い気はしないよ」

「…そういう冗談を。私は本気で追いかけていたのだぞ」


「おれだって本気さ。一生懸命でかわいいなって思ってた」

 アンは言葉を失う。修道女の彼女は男からそんな風に言われたのは初めてで、何と答えていいのかわからなかったのだ。


「修道院でじっとしてるのは合わなかったんだ? おてんばだったのかな」

 そんなアンにウィリアムはきらきらと松明を映したオレンジの瞳で笑いかける。


「…いつも棒を振り回しながら歩いている子供だった。折檻せっかんされてやり返したら一度に三人倒してしまってな、それで兵団にスカウトされた」

 アンの答えにウィリアムが声を出して笑う。なぜかそれが嬉しくて、ずっと聞きたいと思っていたことをアンは口にすることができた。


「シェイクスピア殿はなぜ劇作家を志したのだ?」

「それ苗字だし。名前で呼んでよ、ウィルとかビリーとかアムちゃんとか」

「アムちゃん? それは無理———」

「好きだから」


「え?」

 いきなり何を言われたのか頭がついていけていない。好き? 好きって何が…。そこまで来て心臓が跳ね上がり、変な汗がドバッと噴き出す。

「なっなっいきなっ…!」


「おれの書いた劇で人が笑ってくれて、あー面白かったって元気になってくれて、活力が湧いたり世界が広がったりしてさ。犯罪や虐待、差別ばっかりで生きにくい世の中だけど、まだ人生捨てたもんじゃないって思ってくれたら最高だよ。それを仕事にできたらさ、おれの人生も最高だと思わない?」


「す、好きって、演劇のことか…」

 なんだろう、このホッとして残念な感じは。


 しかし束の間、人の気配を感じ剣を抜いて目を凝らす。現れたのはアンと同じようにプレートメイルで身を固めた女だった。

「せっかくだから腹の下まで見せ合って話したらどうだ?」

 短い髪に小柄な体、しかし手には抜き身の剣を光らせている。アンはウィリアムを背中に庇う。


「一言目に下ネタ? 大主教もお好きだねえ」

 背後で呟いている。

「私はイングランドを駆逐し、フランスに悦びを与える乙女ラ・ピュセル


 ラ・ピュセル、またの名をジャンヌダルク。百年戦争の時代、ハル王子ことヘンリー5世亡き後、彗星のごとくフランスに現れ、要塞都市オルレアンをイングランドから解放することで進撃を阻み、窮地のフランスを救った人物だ。


 ニタリとべたつく笑みでいきなり斬りかかってきたのを、アンは受けた。

「逃げろシェイクスピア!」


「行かせないよ!」

 ジャンヌが言うと雷鳴のような音が轟き、一抱えもある黒い虫が地から続々と這い出してきた。十匹はいる。


「あひええぇぇ~これやだあぁぁ~」

 情けない声で逃げ回るウィリアム。ツルッと黒光りする巨大な背中に、無言ですばしこく迫られるのは恐怖しかない。


「こいつらは元々なんだったと思う? そう、人さ。私が斬ったイングランド兵だ。ああお前たち、私の腕を捧げよう、言うことを聞いてくれるね」

 するといきなり、ジャンヌは手にした剣で自分の左腕を切り落とした。まるで棒切れのようにそれを放ると、虫どもが我先にと群がってがっつく。


 ジャンヌの腕からはやはり血は流れないが、それでも人と同じ形をしていた。

 虚を突かれたアンは身がすくんでしまい、反応が鈍る。食事を許可された虫が今度はこっちに向かってきたのだ。


「ほうら、人間の女の生血だよ! お前たちの同胞イングランド女だ。魂まで全部持っていけ!」

「くうっ!」

 逃げようにも、後ろからジャンヌに捕まえられてしまった。片腕とは思えぬ剛力で締め付けられる。


「離せ! この醜い魔女が! 私をゴキブリにするつもりか!」

「姿を変えようにもあんたはそれ以上醜くなりようがないね。快感だろう、観客の前で蹂躙じゅうりんされる気分は。私も同じだった。イングランド兵に何度も何度も犯されて———」

 ジャンヌの声はうっとりと陶酔に満ちている。


「お前と一緒にするな!」

 虫唾が走るがしかし、もう虫が足元に食いついている。蹴飛ばし払っても代わる代わるやってきてキリがない。


「痛い!」

 ブーツの上から噛みつかれた。虫の歯は鋭いようだ。まずい、このままでは…!


「よせっ! お前らが欲しがってるのはおれの肉だろう! 彼女は無関係だ」

 逃げていたウィリアムだがとっさに向かう。アンから離れた虫どもが一斉に飛びかかる。

「シェイクス———!」

 脚に、頭を覆った腕に、胴に鋭い歯を立てられウィリアムが叫ぶ。


 アンの体にかっと熱が走り、無我夢中に暴れまわるとジャンヌの腕が緩んだ。すかさず肘打ち、そして振り返りざま斬りつける。ジャンヌの方は見向きもせず、続けざま虫を叩き斬り、素手で引き剥がしていく。その手が得体の知れない真っ黒なベタベタに染まるが構わない。


「大丈夫かシェイクスピア!?」

 怯えたようなオレンジの瞳が現れ、胸がキュッとなる。


「うしろ危ない!」

 ウィリアムがアンを引き寄せて横に転がる。そこへジャンヌが剣を振り下ろしていた。

「っつ…!」

 ウィリアムの肌や髪にも黒いベタベタがこびりつき、ところどころ流血している。


 攻撃をかわされたジャンヌが低く喉を鳴らす。

「シェイクスピア…! 地獄を相手にするだけの力がお前にあるのか。流された乙女の血が天国の入り口で復讐を叫ぶ。イングランドには決して太陽の光は差さぬ、暗黒と黒い死の影がこの国を包み、絶望にお前たちは自ら死を選択するのだ。それが私の——大主教さまの魔法だ!」


 すると更に地から虫が這い出してきた。数が多すぎる。集団で蠢く姿の気持ち悪さは背筋が震えるほどだ。


「魔法出すから、その隙に逃げろ」

 しゃがんだままウィリアムが言う。

「何をいう!? みすみす殺される気か!」


「死肉じゃ意味がない。大主教が食らうのは生きた処刑者の生肉だとマシューは言った。だからおれならまだ死なないよ。大事なのは宝珠オーブの方だ。あとトニーとマシューを守ってやって」

「おい…!」


「いくよ!」

 自らの血で指先を濡らし、地面に文字を書く。白い煙がアンの視界を塞いでいく。


「ウィル!!」

 最後に見えたのは、恐怖に耐えながらアンを信じて頼ってくれた瞳。ほんの少しだけ微笑んでくれた口元。

 しかしもう何も見えない。震える足で、それでもアンは走り出すしかなかった。



※ラ・ピュセル(ジャンヌダルク) 『ヘンリー六世 第一部』に登場。英仏百年戦争後期に実在した人物。ところ変われば扱いも正反対で、フランスでは祖国を救った聖女だが、イングランドのシェイクスピア劇ではビッチな魔女。

『ヘンリー六世』のあらすじは、幕間を参照。


※「きっと腹の下まで見せ合った話しをしているさ」『ヘンリー六世 第1部』第一幕第二場 アランソン公

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