第三幕

第一場 悩めるもの、汝の名は

 はっと目を開けると、そこは鉄格子がはめられた狭い牢だった。

「痛たた…」


 硬い地面に当たっていた肩と骨盤をさすり体を起こす。タモラに捕まり、そのまま連れ去られたのはしっかり覚えている。

 天井近くに空気取りの為の隙間がありわずかな光が漏れてくる。ジメッとして錆びたような匂い。ここはどこかの地下なのだろう。


「みんな、無事だよね」

 一人で怖くないと言えば嘘になる。

「けど泣いてる場合じゃないんだから」

 声に出すことで自分を鼓舞する。


 ———言葉を声にするとね、心を解放することも、縛ることもできる。そんな力が集まってぶつかり合うのが演劇でさ。だからやめられないんだよね。

 サザーク教会の屋根に上って朝日を見たとき、ウィリアムが言っていたのだ。


 今、この挫けそうな心を支えるのは自分しかいないんだから!

 しかしそうではなかった。


「ああ、いっそけがれたこの肉体が溶けて崩れて露と消えればよいのだ。厭だ、厭だ、ここは雑草の生い茂る庭だ」

 予想だにしない男性の声に体の芯から驚かされる。しかもすぐ近くからだ。


「だっ、だれかいるの?」

 ライラは錆びた鉄格子にすがりついて左右を見渡す。沈黙の中、しばらく目を凝らすと隣の牢に人が座り込んでいるのが分かった。


「あなたも捕まってるの?」

 座り込んだまま男性は焦点の合わない目でぼうっとライラの方を見つめる。


「お前は何者だ? 聖霊か、悪魔か、天国から来たのか、地獄から現れたのか、我々を救いに来たのか、滅ぼすためにか」

 やば…普段だったら関わらないようにするタイプだ。しかし今はそんな贅沢は言ってられない。ここから出るためには何でもするんだから!


「わたしはライラよ。タモラに連れ去られて閉じ込められたの。あなたは?」

「血は通っても心は通わない。どうせ俺は日陰に生きる者だから」

 質問に答えなさいよ…! 波立つ心を落ち着けもう一度たずねる。少し強い口調になってしまったのはやむを得ない。


「あなたの名前はっ?」

「…ハムレット。デンマークの王子だ」

「ハムレットね、よろしく。どうしてここにいるの?」


 目が慣れてくると、膝を抱えたハムレットは胸着の前をはだけ、靴下も汚れて留めが外れ、くるぶしのところまでずり下がっている。隣にはクマのぬいぐるみ。目のボタンが外れて赤い糸が垂れ、腕と片耳がもげそうになってガクゥッと座っている。

 あのぬいぐるみ、なんか恐いんですけど…!


「どうしてここにいるかって俺に聞いてくれるのかお嬢さん? 聞いて聞いてよ~うわああぁ~ん~コリオレイナスの奴がさぁ~」

「いきなり何よ…?」


~ハムレットが語る話~

 コリオレイナスがひどいんだよぉ! デンマークを追われた僕はイングランドに行くはずだったんだ。でもその途中で叔父の刺客に暗殺されそうになって、助けてくれたのがコリオレイナスなんだけどね。叔父は僕の父を殺して王位と母まで簒奪したんだ。だから僕は復讐しなきゃならないって話したら突然「おおハムレットよ! 俺様も復讐だ! これからローマに攻め込むからお前もついて来ぉい!」って。

 僕はローマになんか行きたくないって言ったら「ぬぁにぃぃ!? この俺様の命令がきけないってのかこの野良犬めが! ハムレットのくせに生意気言いやがって、まずお前をぶん殴らせろ!」って追いかけてきてさぁ〜。

 ホレイシオが助けてくれたのに、許せないのはイアーゴの奴だよぉ! 「あっちでハムレットが、コリオレイナスは傲慢でブサイクで母ちゃんデベソって言ってたよ」なんて吹き込んだんだよぉ!

 コリオレイナスは「あんのヤロウ…見つけたらギッタギタのメッタメタにしてやるぅ!」ってなるわけでさぁ。

 僕はホレイシオを探してたんだけど、運悪くコリオレイナスに見つかっちゃったんだ。後はご想像の通りさ。恋人のオフィーリアには「ハムレット様ったら、私待ってたのよ。約束を守ってくれない人はキライ」って言われちゃったしさぁ〜!

 なんでいっつも僕だけがこんな目に合わなきゃならないんだよぉ〜! ホレイシオォ〜!



「ええと、まずあなたも含めて今の登場人物みんな魔法なのよね?大主教の?」


「そうだ。俺は暗殺された父王と名乗る亡霊の存在により人の罪業と営みの間に悩み苦しみ復讐という名の地獄の業火に焼かれる主人公のはずだったのだ。生きるか、死ぬか、それが問題だ。どちらが尊いのだろう、残酷な運命の矢弾をじっと忍ぶか、寄せ来る苦難の海に毅然と立ち向かって戦いその根を断ち切るか」


「ここはデンマークでもローマでもなくイングランドのロンドンなんだけど」


「この地球という見事な建造物さえ荒涼たる岬のようにしか俺には感じられない。この類まれな美しい天蓋てんがいが、ほら、あの頭上を覆う雄大な大空、金色の光をちりばめた壮麗な天空、あれが俺にはまるで毒気の立ち込めた薄汚いところにしか思えないのだ」

 ここ地下なんですけど。ダメだ、スルーしよう。


「それであなたをボコボコにしてここに閉じ込めたのはコリオレイナスとイアーゴなのね?」

「うあぁあ〜ん! ホレイシオ〜!」


「ホレイシオは誰なの?」

「僕の親友だよぉ〜僕のとりとめのない話をいつも聞いてくれるんだ〜」

 ひみつのポッケではないようだが、貴徳な人なのは間違いないだろう。


「それでハムレットはどうしたいの?」

「悔しいに決まっている。しかし俺は鳩のように気が弱いのだ。あいつの暴虐を憤るだけの意気地が無い」


「じゃあ一緒にやりましょ。わたしもここから出たいの」

「それはできぬ相談だ。俺はグズでノロマで無為な日を送り、目的を貫く手立ても考えず、言いたいことも言えずにいる」


「あのね、このままでいいわけ? 言うだけ言ってやりもせずに諦めるなんて、そんなんじゃホレイシオさんだって愛想尽かすわよ」


 ハムレットは口を尖らせて、地面に指で何かを書きながら「死ぬ———眠る。それだけのことだ。眠ってしまえばみんなおしまいではないか、俺たちの心の悩みも、この肉体につきまとう数知れぬ苦しみも」とブツブツ喋っている。


 ウィリアムじゃないんだからあんたが描いたって何も出て来やしないわよ…!

 ライラは辛抱強く待った。こんな人でも、一人でいるよりは全然マシだ。


「ね、ここから出る方法を一緒に考えよう」

「出るのは自由だよ。僕はコリオレイナスに捕まらないために自分から入ったんだから」

 と、ハムレットは立ち上がるとぬいぐるみの下から鍵の束を取り出して、牢の外に出た。


「ええぇっ? さっき閉じ込められたって…」

「この天と地の間には我々の哲学で考えたところで到底及ばぬことが沢山あるのだ」

「もう解読できないから! わたしも出して!」


「えっとぉ、でもタモラ様に閉じ込められたって言ったよね? 逆らったら僕が殺されるし…」

「なによ、コリオレイナスをやっつけたくないの?」

「それはやっつけたいけどさぁ〜」


「このチャンスを逃したらもう二度と無いかもしれないのよ?」

「ああそうだ、分かっている。俺はいつもそうなのだ。赤く燃え上がる俺たちの生まれついての決断力が、青白い憂鬱な心の土壁で塗りたくられてしまうのだ。いいのか、それで、俺の復讐は?」


「だったらコリオレイナスもタモラもやっつけたらいいじゃない」

「ああしかし見るもの聞くものが俺を責め、鈍ってゆく俺の復讐心を煽り立てようとする。人間とはなんだ?」


「人間とはなんだとか、今考えることじゃないでしょう! いつまで繰り返させるのよ! 生きるか死ぬかそれが問題なんでしょ!? わたしは生きたいの。ウィリアムもトニーもマシューもアンもみんな! ハムレットだってそうでしょ、だからそんなに悩んでるのよ。答えは出てるんだから!」


「…なるほど」

 すんなりとハムレットは牢を開けてくれた。


「ありがとう。さ、行きましょう」

「どこへ?」

「大主教のキャラには必ず弱点があって自滅してる。コリオレイナスだってきっとそう。だから弱点を探すのよ」


「僕もキャラだけど弱点ある? ていうか欠点だらけだよねぇ~自分でも分かってる。あぁ〜僕に良いところなんて無いんだよぉ~ホレイシオォ~」

「泣かないの! 今ここで行動すればきっと変われるから! それよりホレイシオさんはどこにいるの?」


 徳の高い方には、たとえ大主教の魔法であってもさん付けしたくなる。

「わかんない…この中のどっかにはいるはずだけど。一緒に探してくれるよね?」

 ハムレットは破れたぬいぐるみを抱えて頼む。ライラは頷いた。


「ところでここはどこなの?」

「セント・ポール大聖堂だよ」




※ハムレット 『ハムレット』の主人公。デンマーク王子。長いセリフを言い回す優柔不断な主人公。

「To be, or not to be, that is the question」は最も有名なセリフの一つ。「生か、死か」「生きるべきか、死ぬべきか」「このままでいいのか、いけないのか」「生きてとどまるか、消えてなくなるか」等の訳がある。

乃木が「生きるか、死ぬか」を採用した理由は、リズム感が原文英語に最も近いと感じたので。シェイクスピア英語を声に出して読むと、まるで歌のようなリズム感にきっとあなたも感動するであります。


※ホレイシオ 『ハムレット』に登場。ハムレットの親友

※オフィーリア 『ハムレット』に登場。ハムレットの恋人

※コリオレイナス 『コリオレイナス』に登場

※イアーゴ 『オセロ』に登場


※『ハムレット』

四大悲劇の一つ。前国王の弟クローディアスが新国王として即位した。王子ハムレットは母ガートルードとクローディアスの再婚の祝宴から一人喪服姿で外れている。すると父王そっくりの亡霊が現れ、クローディアスにより毒が耳に注ぎ込まれたと話す。狂気を装い復讐を狙うハムレット。

しかし亡霊への疑念が消えず行動に移せない。果たして本物なのか、悪魔の化身なのか。地方回りの役者をつかって父親殺害そっくりの小劇を演じ、クローディアスの反応に本当だと確信するも、それでも迷いクローディアス殺害の機会を逃し、誤って恋人オフィーリアの父を殺してしまう。

クローディアスはハムレットをイングランドに追放、暗殺しようとするが、ハムレットは難を逃れて帰国。しかしオフィーリアが死亡していて、その兄とフェンシングの試合をすることになる。試合に乗じてクローディアスはハムレットを殺そうとするが、最後はクローディアス、ガートルード、オフィーリアの兄が死に、そしてハムレットも親友ホレイシオに看取られて死ぬ。

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