第六場 魔法にかけられて

 ライラは全く寝付けずにいた。

 ああなることを全く予想しなかったわけではない。しかしそれでもウィリアムを責める気持ちは抑えられなかった。


 一晩寝たら忘れられるかな…。明日は何もなかったように、いつもみたいに。

 暗闇にすっかり目が慣れてしまい、物の輪郭が手に取るように分かる。


 みんなの寝息を聞きながら体の向きを変えると、隣のトニーが薄く目を開けた。

「…眠れないのか?」

「ごめん、起こしちゃった? …思い出したくなんてないのに、なんかさっきのことが頭から離れなくて」


 生温かい息をかけられた感触や匂い、ギラついた男の顔がはっきりと残っていた。

 暗闇の中、トニーは声を潜めるためにライラの方へ体を寄せる。

「お前だって俺にキ、キキスしたじゃんか」


 事実である。もちろんパックの惚れ薬のせいなのだが、あの時はトニーのことが好きで好きでたまらなかったから、キスってこんなにとろけるほど幸せで気持ちいいものなのかと我を忘れ、トニーの気持ちなど一つも顧みなかった。


「気持ち悪かったよね。ごめん」

 一方的な欲望剥き出しに好きでもない人にべたべた触られて、さっきのアンジェロなど、もう金輪際顔も見たくない。トニーも同じ気持ちだと思うと、本当に悪いことをしてしまったと思う。


 しかし、

「そっそそんなことねえよ」

色は見えないけどトニーは顔を真っ赤にしてそう答えた。


「そっ、そう? それならいいんだけど…」

 そんな顔されたら、こっちまで意識してしまう。


 するとトニーはそうっと毛布の中に手を入れてきて、遠慮がちにライラの手に重ねる。それはちっとも嫌じゃなかった。


「あのな…もっもしアンジェロとか変な奴が乗り込んできても、俺が盾になってやるから、安心しろ」

「うん…安心する」

 トニーはそれ以上言わず何もしようとせず、ただ手を繋いでいてくれた。


「傷、平気なの?」

「ちょっと痛むけど我慢できない程じゃねえよ」

「大主教は暗黒魔法に操られてるんじゃない、自ら望んでしていることだってアンジェロは言ってたけど、本当かな」


「本当だろうな」

 随分あっさりと認めるものだと思うが、そうではない。彼はしっかりと現実を見据えているのだ。


「だからって、もう引き返せないわけじゃねえし。俺は優しくておもしろかった大主教のじいちゃんを諦めない」

 こんな風に思ってくれる人がいることを大主教に気付いてほしい。ライラは温もりを感じて眠りにつくことができた。


 早朝、アンはロバに水とまぐさを与えていた。

「手伝ってくれるのか。ありがとう」

「マシュー殿。なんだか可愛くなってしまってな」

 鼻面を撫でてやると、嬉しそうにブルッと鼻を鳴らす。


「一つ聞きたいのだが、貴殿はなぜお尋ね者に手を貸しておられるのだ?」

「あなたは迷っているのだな」

 ロバを撫でる手を下ろし、アンは素直に頷いた。


「部下が殺害された今、もう大主教の下で務めることはできない。しかしこうして居ることが本当に神の意に沿うことなのか、自信が持てないのだ」

 生涯を神と代弁者たる大主教に捧げると誓い生きてきた。それが根底から覆されたのだからもっともなことだ。


「この世の関節が外れてしまったようだ」

 どこか遠くを見るように、アンの言葉は中空に浮いた。


「そんな風に絶望するのも無理はないが、悲観する必要はない。まだ大主教を止める方法はある。ウィリアムの魔法だ」

 イングランドを、世界を手に入れる。女王を亡き者にする。持て余すほどのそんな野心をアンは理解できないから、現実離れしているとしか思えない。


 王を王たらしめるのは魔法でも武力でもなく、血筋のみである。血筋ゆえに、王は神から王権を付与される。血筋なき大主教が王として君臨することは天が認めるはずもなく、すると都市伝説に過ぎなかったヨーク家の生き残りを王に据えるという説が、にわかに真実味を帯びてくる。


 同時に、信頼し共に励んできた部下が守護者であるはずの国教会から無残に殺されたことは重い事実としてアンに刻まれた。


「部下の命を奪ったような奴らがまた現れたら、他にもたくさん現れたら、確かに世界が手に入ってしまうかもしれないな。…止めなくては」

「ウィリアムの魔法には、それを止める力があると思う」


「だから大主教はシェイクスピアを捕え、逆にその力を我が物にしようと。肉1ポンドを取り込むことでもっと強大な魔法を産み出そうとしているのか」

 アンの目に力が戻る。兵士の顔になって言った。


「シェイクスピアを渡してはならない。肉1ポンドを取らせてはならない。…それが部下たちへの弔いになる」

 それは、マシューには強い言葉に聞こえた。思えば部下を失ったアンは一度も涙を見せていない。弔うまではと気丈に振る舞っているのだろう。


「私は、ウィリアムの魔法にかけられたのかもしれない」

「?」

 マシューは自分よりも歳上の女性に打ち明けていた。


「初めてパックを見た時にはもう魅了されていた。フォールスタッフの話術に惹きこまれた。笑いに今までの価値観をぶっ壊されて、ウィリアムの想像力の虜になった。今は、もっと続きを見たいと思っている」


 神よりも笑いを愛するなんて、あぁ彼の言う通り不良聖職者に違いない。それでもマシューは笑顔だった。


「あんな魔法は他の誰にも真似できない、ウィリアムだけのものだ。大主教に渡すなど阻止しなければ」

 マシューも強く拳を握る。それは嘘偽りない気持ちだった。


「マシュー殿…」

 アンも頷く。魔法にかけられたといえば、あの金髪の青年…フロリゼル。

 ———君とは剣ではなく、手を取り合っていたいな。

「はあうぅっ!」


「どうかしたのか?」

「なっ、なんでもない! 気にしないでくれ…」

 一人赤面しているアンを不思議そうに眺めるマシュー。


 その時、前方彼方に青白い光が浮かぶ。それは一つ、二つと増えていく。

「なんだあれは?」

 ゆらゆらと膨張しながらやがて人型を取ったそれは、恐ろしい勢いで走りこちらに向かってくる。


「亡霊…!?」

「くっ!」

 剣を抜いたアンが受け止める。明らかな敵意をむき出しに、青白い炎の亡霊は男の姿になったり激しく燃えたりを不安定に往復している。


 やがてアンの剣が亡霊を両断したが、敵は一体ではない。

「次々来るぞ! 数が多すぎる!」

「聖堂の中へ!」

「シェイクスピアたちが危険だ!」


 裏口から回って聖堂内へ入るが、二人は絶望を突きつけられる。そこには数えきれぬほどずらりと並んだ亡霊たちに取り囲まれ、既に窮地に立たされているウィリアムたちの姿があった。



※「この世の関節が外れてしまった」『ハムレット』第一幕第五場 ハムレット

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