第五場 シェイクスピア劇場

「うまくいったぜ。今夜九時、アンジェロ司祭がロンドン橋の下に来る」

 戻ってきたトニーは呼吸を整えながら報告する。

 金目当てに宝珠オーブを盗んでしまったことを悔いている、できれば秘密裏に返したいから橋の下に来て欲しいと、アンジェロ司祭に打ち明けたのだ。


「ナイス! 一人で来るよう念押ししたな?」

「もちろん。『悔悛したことは正しいが、このまま見逃すことは私にはできない』って苦い顔したからよ、信頼できるのはあんただけだって言ってきたぜ」


「アンジェロはコチコチの四角四面だから、嘘はつかないだろう」

 マシューも頷きながら続く。

「あとはライラだ。いけるね?」

 ウィリアムが顔を覗き込む。


「…やるしかないんでしょ」

 下を向いたままのライラに、パックが愛らしい顔でキラキラを振りかける。


「ライラはかわいいし、自信持ちなって。ボクが一緒についてるからさ」

 消耗すると言いつつウィリアムはパックを出してくれたのだ。パックがふわっとした柔らかい体を頬にすり寄せてくると心地よくて、塞いだ気持ちが緩む。

「ありがとパック」


 四月のロンドンの空は乙女心に例えられるように変わりやすい。朝は晴れていたのに午後からは小雨、夜になっても雲は取れず、月は薄暗いままだった。


「来た、アンジェロ司祭だ。ライラがんばれよ」

 小声で、でも精一杯トニーは言ってくれたと思う。修道女姿のライラは頷いて、アンジェロの方へ近づく。


 ウィリアムが一瞬で書き上げたセリフを、二時間かけてライラは体に叩き込んだ。ウィリアムの演技指導まで入った。

 今のライラは修道女。他人になりきり、他人の言葉を自分のものとして喋る、そんな体験は初めてで、まるで魔法の世界に入り込んだのではないかと錯覚した。


 しかし、相手は生モノなのだから予想通りの反応を示してくれるとは限らない。その場合は臨機応変に言葉を選ばねばならないが、パックがアシストしてくれることになっている。


「アンジェロ司祭ですね?」

 震えるような声になってしまった。しっかりしなきゃとお腹に力を入れる。

「何者か」


「司祭様に折り入ってお願いしたいことがあって参りました。トニーのことです。トニーは罪を犯しましたが、どうか罪を罰して彼を罰しないでほしいのです」

 しっかり相手の目を見つめて、10数える間まばたきをしないこと。これがポイントらしい。


「急に何を言うのかと思えば、罪を罰するが罪人自体は罰するなと? 貴女が誰だか知らぬが、そんなことはできない。この世の罪はどれも犯される前から罰せられているものなのだ」


「トニーは過ちを悔いています。憐れみをおかけになってほしいのです。あなた様ならお出来になると思います」

 落ち着きと成熟を感じさせるアンジェロの顔立ちには、神に仕える真っ白な静けさが貼り付いて、固い口元がいかにもまっすぐな感じがした。


「私は法の正しさを示すことが憐れみの極致だと思っている。罪を見逃せば、それが後で私の知らない多くの者に災いをするのだ」


「本当にそうと言えるしょうか? 権威をお持ちの方はたとえ他の者のように罪を犯しても、そのうわべを繕う力を自ずと備えておられます。大主教には何か覆い隠しておきたいことがおありなのではありませんか」


「…何者だ」

 ここまではウィリアムの台本通り。ライラは唇を湿らせた。


「ライラと申します。大主教から狙われています。ご存じですね?」

「もう帰ることにしよう」

「お待ちください」


 まだ何も聞きだせていない。このまま返すわけにはいかない。アンジェロの背後に浮いているパックを仰ぐと、二つ頷く。ちょっと早いけど、間はすっ飛ばしてあのセリフを言えということだ。

 んもう、せっかく覚えたのに!


「差し上げたいものがあります。くだらないお金だとか宝石だとかではなく、清らかで汚れを知らない魂を」

 ここでもう一度じっと見つめる。まばたきをしないで、目が痛くて涙が出てきたらそれをしっかり目に溜めて。


 ———そう、その目だよ。さわやかな光であいつを腐らせてやれ。

 わたしなんかでうまくいくと思えないんだけど。何度もそう訴えたが、ウィリアムは絶対大丈夫の一点張りだった。

 アンジェロの動きが止まる。


「トニーはお金目当てで盗みを働いたのではありません。異形のものに取り憑かれた大主教を案じ、その命を救おうと犯した慈悲の心が潜んだ罪なのです。もしトニーを救おうとすることが罪ならば、わたしはその責めを一身に負いたいと思います。ですからお答えくださいませ。大主教は何の為に魔法をお使いになるのですか」


 畳みかけたライラの息が上がる。練習中は恥ずかしくて、途中で笑ってしまったりして何度もNGを出したが、我ながら完璧な演技だ。

 だがウィリアムが用意した台本はここまでだった。

 ここからどうしろっていうのよ…!


「大主教を救いたいだと…甘いな」

 アンジェロに肩を掴まれ、強く押されてバランスを崩す。しまったと思うが既に遅く、男の重い体で地面に押しつけられて身動きできなくなっていた。


「知りたいのだろう? ならば女の弱さを示すことだ」

「…っっ!!」

 すんでのところで避けたので、アンジェロの口はライラの唇ではなく顎にぶつかる。だがそのまま唾液まみれに吸われて、背筋に寒気が駆け上る。


 さっきまでの白い清廉な皮を剥がしたその顔は、情欲と征服欲まみれの下卑た笑みに塗られている。ライラは恐怖で声を上げることもできなかった。

 生温かい息を吐きかけ、陶酔したように饒舌に男は続ける。


「イングランドを、いずれ世界を手に入れる為に大主教自ら望んでされたことだ。お前は知らぬだろうが、ヨーロッパの南にはアフリカ大陸、東には延々大地が続き、更に西の海の先には未開の大陸があるのだ。魔法の力でイングランドが全てを手に入れる。小さな島国に留まる必要などない」


「そんなことが許されるわけ———」

「許す? 誰の許しが要るのだ。女王か? その時女王はもうこの世にはいない。神か? 神が与えたもう力を行使することの何が悪い」


 乳房にアンジェロの指が食い込んできて、体が凍りつきそうになる。しかし男はしきりに髪を気にしていた。見るとパックが「うーんしょ!」と男の髪を引っ張り、振り返られるとサッと背中に隠れてを繰り返している。

 パック…! あんなに一生懸命に!


「なんだなんだ? おーい、誰かそこにいるのかぁ?」

 橋の上からこれはウィリアムの声だ。


 アンジェロは舌打ちし、事を急ごうとライラの修道服をまくり上げる。

 大丈夫、みんな付いてくれてる!


 体の芯に熱が戻り、全力で膝を合わせながらアドリブのセリフを繰り出す。

「お待ちください、まだわたしが狙われる理由を聞いていません。なぜ大主教が魔法も使えないわたしなどを」


「理由など知らぬ。女王を退けイングランドを手に入れるにはお前が必要だと大主教は仰っている」

 どういうこと?わたしに何かできると…?


 一瞬考えている間にアンジェロは自分の祭服をたくし上げたので、思わず顔を逸らしてしまう。


「そこまでだ。ライラを離せ」

 ここしかないタイミングで剣を突き付けるアン。刃物に従わないわけにはいかず、アンジェロは苦々しい表情でライラから離れた。


「ライラ! 平気か!?」

 駆け寄ったきたトニーが体を支えて起こしてくれる。


「…嵌められたというわけか。聖人をエサにして聖人を釣るとは、ずる賢い悪魔め」

「それ、褒め言葉として受け取っておくよ。あんたみたいなむっつりスケベはお色気タイプには強くても、清純派には弱いんじゃないかと思ってね」

 背後からウィリアムが現れると、パックが飛んでいき主人の横に寄り添う。


 四人と妖精に囲まれ、アンジェロは観念したように肩を落とした。

「己の罪を認めよう。どこへでも突き出すが良い」

「一つ貸しておくことにするよ。別にあんたをどうにかしたいわけじゃないからね」


 まるで予め用意していたかのようなウィリアムの受け答えに、すべて彼の脚本通りだったのだとライラは思い知らされた。用意したセリフが途切れた後、アンジェロがライラに襲いかかることまで含めて———


 冷たいナイフで胸を裂かれたようだった。危害は加えさせない、その約束通り確かに体は無事だった。しかし心までは、そうはいかない。


「ライラ、よくがんばった———」

 笑いかけてきたウィリアムに目を合わせることなく、ライラは早足でその場を離れるのだった。




※『尺には尺を』

ウィーンの法律は婚前交渉を死刑と定めていた。しかしウィーン大公ヴィンセンシオはこれを適用せず、下々の者はのびのび暮らせていたが、未婚者の妊娠や売春宿が大繁盛。

そこで厳格な腹心アンジェロに一時統治を任せ、ヴィンセンシオは修道士に変装して様子見することに。アンジェロによる突然の厳しい取り締まりで逮捕された中に、婚約者を妊娠させたクローディオがいた。クローディオは獄中に面会に来た妹イザベラに、死刑の撤回をアンジェロへ嘆願してほしいと泣きつく。

「あなたに夜明け前に天上に届く清らかなお祈りを捧げる」と言うイザベラに、アンジェロは見返りに体を要求するが…。

善と悪、美徳と罪、貞淑と淫奔、真実と嘘、高潔と劣情といった様々な二項対立が一人の人物の中に表裏一体に現れる、シェイクスピアの人間描写が冴えわたる作品。


シェイクスピア作品における「女の弱さ」=性愛に弱いの意。『ハムレット』には「弱きもの、汝の名は女」という世界遺産なセリフがある。

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